ハニワくん
先生
いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
- 三枚舌外交って何?
- パレスチナ問題って何?
1.イギリスの要人が『3つの方向に、つじつまの合わない都合のいい話』をしてしまった件です。
2.イギリスの三枚舌外交が原因となって起きた、パレスチナ(イスラエル)の領土権争いです(現在進行形)。
ハニワくん
博士
パレスチナは『アブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)』を重んじる人々にとっての『聖地』です。
イギリスは三枚舌外交で3つの方向に都合のいい話をし、戦争などの局面でイギリスが有利になるように、周りを固めていました。
話した相手 | 対象 | 話し合いの名前 |
フセイン | アラブ人 | フセイン=マクマホン協定 |
ピコ | フランス、ロシア | サイクス=ピコ協定 |
ロスチャイルド | ユダヤ人 | バルフォア宣言 |
しかし、結局この『つじつまの合わない話』のツケが回ってきて、
と怒らせてしまいます。ではアラブ人(イスラム教)、ユダヤ人は分かりますが、『フランス、ロシア』に対する話はどういうことでしょうか。パレスチナは、第一次世界大戦後にイギリスが国際連盟にその地域の保護をゆだねる『委任統治領』となりました。更にイギリスとフランスは、その地域となった、
- イラク
- シリア
- レバノン
- トランスヨルダン
- パレスチナ
を、その土地の部族や宗派などを一切考慮せず、国境を直線で引いてしまったのです。結局『3つの方向』にいた人々は『パレスチナ』を巡ってトラブルを抱えてしまい、『中東戦争』などに発展。現在進行形でパレスチナは、領土問題や宗教問題等が未解決状態のままとなってしまっています。
博士
ハニワくん
先生
Contents|目次
王者イギリスの強引すぎた手口
『パレスチナ問題』
アレクサンドロスの影響でインドが結束!その後『奴隷王朝、ムガル帝国』とイスラム勢力が流入し、宗教問題に発展
『世界戦争(World War)・大戦争(Great War)・第一次世界大戦(First World War)』で戦争の歴史が変わった!
上記の記事の続きだ。インド大反乱を鎮圧したイギリス政府は、1858年ベンジャミン・ディズレーリが筆頭となり、その『インド帝国の樹立』を成功させ、ムガル帝国の古都デリーで「帝国会議」を主催し、ヴィクトリアのインド女帝即位が発表された。ヴィクトリア女王は初代インド皇帝(女帝)(在位:1877年1月1日 – 1901年1月22日)となった。
狙われたオスマン帝国
1914年、第一次世界大戦がはじまると、オスマン帝国はドイツ率いる『三国同盟』と同盟を組む。するとイギリスは、オスマン帝国を解体させようと画策するようになる。
ドイツ側
三国同盟 | ドイツ、オーストリア、イタリア |
バルカン半島での同盟国 | ブルガリア、オスマン帝国 |
ロシア側
三国協商 | ロシア、イギリス、フランス |
バルカン半島での同盟国 | ルーマニア、セルビア、ギリシャ |
結局ドイツはイタリアに裏切られ、イギリス・フランスに向かう中立国アメリカの輸送船も沈めてしまい、アメリカさえも敵に回してしまうことになり、ついにドイツ率いる『三国同盟』は敗北することになるのだが、その間に起きていた事件が、現在進行形で世界の問題となっている。『パレスチナ問題』である。
三枚舌外交
この問題の重要人物は以下の6人。上が問題人物、中が巻き込まれた人、下が板挟みになった人だ。
問題人物
- イギリスの外交官マクマホン
- イギリスの外交官サイクス
- イギリスの政治家アーサー・バルフォア
巻き込まれた人
- アラブ人有力者フセイン・イブン・アリー
- フランスの外交官ピコ
板挟みになった人
- イギリス情報将校T・E・ロレンス
1915年、マクマホンはフセインに対し、
マクマホン
と約束。『フセイン=マクマホン協定』をかわし、対オスマン帝国戦での彼らの協力をとりつける。1916年、サイクスがピコと、
サイクス
と秘密協定を結ぶ。『サイクス=ピコ協定』である。1917年、バルフォアが、
バルフォア
とイギリスのユダヤ系貴族院議員である第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して送った。『バルフォア宣言』である。つまりイギリスは、『3つの方向に、都合のいい話』をしてしまっていた。これが『イギリスの三枚舌外交』である。
話した相手 | 対象 | 話し合いの名前 |
フセイン | アラブ人 | フセイン=マクマホン協定 |
ピコ | フランス、ロシア | サイクス=ピコ協定 |
ロスチャイルド | ユダヤ人 | バルフォア宣言 |
下記の記事に書いたように、『パレスチナ』という土地は、『アブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)』を重んじる人々にとって『聖地』である。このイギリスの三枚舌外交が原因で各民族たちがパレスチナを巡って争うことになってしまうのである。
板挟みとなったT・E・ロレンス
イギリス情報将校T・E・ロレンスというのは、第一次世界大戦中にアラブ人がオスマン帝国へ反乱を起こしたときに派遣された人物。彼はアラブ人側についてオスマン帝国の内部解体に貢献したが、この問題が発生したことで、イギリスとアラブ人の板挟みとなってしまったのである。
国境を直線で引いたフランスとイギリス
第一次世界大戦が終わり、中東地域の領土は戦勝国に振り分けられた。
イギリス | 南部シリア、イラク大半 |
フランス | 北部シリア、イラクの一部 |
そして問題のパレスチナは、イギリスが国際連盟にその地域の保護をゆだねる『委任統治領』となった。
ようやく世界が『世界平和』という一つの理想に目を向けられるようになり始めた!『国際連盟』の誕生
更にイギリスとフランスは、その地域となった、
- イラク
- シリア
- レバノン
- トランスヨルダン
- パレスチナ
を、その土地の部族や宗派などを一切考慮せず、国境を直線で引いてしまった。自分たちの心をないがしろにされ、土足で踏みつぶされた彼らは、イギリスととフランスに対して怒りを覚えるようになり、各地で独立を求めるようになった。
1932年 | イラク独立(イギリス) |
1946年 | シリア独立(フランス) |
バルフォア宣言に基づくユダヤ人の移動
ではパレスチナではどうなったかというと、先ほどの記事に繋がってくるのだ。ユダヤ人が『バルフォア宣言』にもとづいてパレスチナ移動してきた。しかし、そこにはすでにアラブ人が住んでいる。
ユダヤ人
アラブ人
そして1948年に、パレスチナを統治していた英国が手を引くと、5月18日、ユダヤ人はイスラエルの建国を宣言した。しかし、周辺国はイスラエルの建国を否定したのだ。アラブ連盟がパレスチナへ侵攻し、第一次中東戦争が始まる。
中東戦争
オスマン帝国の行方
ちなみに、大戦末期、連合国はオスマン帝国をどう分け合うか、話を決めていた。しかし、それに逆らう形で軍人上がりのムスタファ・ケマルが立ち上がり、ソヴィエトの力を借りて対抗し、打ち破る。この時代、様々な国が独立し、現在も馴染みのある国へと変わっていったのである。
- ムスタファ・ケマルがオスマン帝国を『トルコ共和国』へ
- レザー・ハーンがペルシャを『イラン』へ
- イヴン・サウードがアラビア半島統一をし『サウジアラビア王国』を建国
[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]
ムスタファ・ケマルはトルコ初代大統領(在任1923年10月29日 – 1938年11月10日)となった。下記の記事に『オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家トルコ共和国に取って代わられた』と書いたが、オスマン帝国はここから『トルコ共和国』となっていくのである。ムスタファがアンカラに新政府を立て、スルタン制を廃止してオスマン帝国を滅亡させ、『トルコ革命』によってトルコ共和国を建国したのだ。
1500年続いた『ローマ(東ローマ帝国、ビザンツ帝国)』を終わらせた『オスマン帝国』の盛衰
列強は、戦勝国にも攻勢を仕掛けようとするケマルを脅威とし、『セーヴル条約』を破棄、『ローザンヌ条約』を結び、領土の一部回復や不平等条約の撤廃などにこぎつけた。敗戦国が下剋上的な行動に出て、見事にそれを成功させたのだ。これは歴史上においても非常に珍しい出来事だった。
ただ、ケマル政府は3000万人近く存在する『クルド人』の独立を認めず、弾圧。現在もクルド人独立問題は西アジアの不安定要素の一つとなっている。
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