いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.アメリカが脱イスラム化をさせようとしたエリアで起きたイラン(ペルシャ)人の革命です。
2.『イスラム法』に基づいた政治を行ったり、イスラム教ができた当初の考え方に立ち戻るという考え方です。
3.アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国の総称です。
4.元々スンナ派(イラク)とシーア派(イラン)で対立構造があり、そこにアメリカがイラク側についてイランを攻撃し、発生しました。
5.イラン側が降伏間際のところまで追い込まれましたたが、外国の支援の事情が重なって形成逆転し、最後にはイラン優勢の形となりました。
これら一連の背景にいたのはアメリカでした。
『冷戦』の真っ最中である中東戦争終了後、アメリカは中東でも自分たちの味方である国を探していて、選んだのが『イラン』でした。
しかしルーホッラー・ホメイニが『イラン革命』を起こし、これに反発する動きを見せます。アメリカと話をつけていた皇帝はこれを弾圧しようとしますが、元々この地の人々に深く根付いていた『イスラム精神』がホメイニの活動に共感し、皇帝は国外に退去する羽目になります。こうして『イラン革命』は成立してし、ここから『イラン・イスラム共和国(1979年~)(通称イラン、あるいはペルシャ)』となります。アメリカの参入と、イスラム勢力の弾圧を力づくで行ったことにより、彼らの心底に眠っていたイスラム魂に火が付き、この革命は起こったのです。
しかしこのままではアメリカのメンツもありません。そこでアメリカはスンナ派(イラク)とシーア派(イラン)の対立構造を利用し、イランをあきらめて『イラク』を支援することにします。そして利害が一致したイラクはアメリカと組み、イランを攻撃。こうして『イラン=イラク戦争(1980年9月22日 – 1988年8月20日)』が始まったのです。
『イラン革命』『イラン・イラク戦争』
上記の記事の続きだ。第二次中東戦争ではイギリスとフランスがイスラエルを誘って戦争を起こすが、『民族対立を利用したイギリスとフランスの越権行為』という目で見られ、彼らはエジプトから退くしかなく、エジプト側の勝利で幕を閉じた。そして彼ら英仏に代わって中東で影響力を強めたのが、アメリカである。時代的にもまさに『アメリカ一強』へと移り変わりつつあった。
だが、まだソ連の力があった。ソ連が崩壊し、資本主義と社会主義の壁を象徴した『ベルリンの壁』が崩壊し、ロシア連邦が成立するのは1990年前後だ。この中東戦争は『1948~1979年』の約30年間の間に行われた戦争で、この時はまだ『アメリカ(資本主義陣営)VSソ連(社会主義陣営)』の図式が蔓延していた。
現に、ソ連はこの中東戦争でアラブ側の支援を行っていた。アメリカ・イギリス・フランスがイスラエルに、ソ連がアラブ側に対し支援や武器を供給していたことから、この中東戦争は代理戦争の側面も含むと言われていたのだ。
イスラエル | アメリカ・イギリス・フランス |
アラブ側 | ソ連 |
『冷戦』の真っ最中である中東戦争終了後、アメリカは中東でも自分たちの味方である国を探していた。そして選んだのが『イラン』だった。
そして、パフラヴィー国王(パフラヴィー朝イランの第2代にして最後の皇帝)モハンマド・レザー・パフラヴィーに経済的な支援を行い、軍の強化を手伝った。パフラヴィー朝は1925年から1979年までイランを統治した、イラン最後の王朝である。まさにアメリカが支援を行ったのはパフラヴィー朝であり、誰もこの時はこの王朝がイラン最後の王朝になるとは思っていなかった。
[モハンマド・レザー・シャー(1973年)]
しかしそれは起こった。『イラン革命』である。それは、イラン・パフラヴィー朝において1978年1月に始まった革命だった。亡命中であったルーホッラー・ホメイニを精神的指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者たちを支柱とする国民の革命勢力が、反旗を翻したのだ。これは、民主主義革命であると同時に、イスラム化を求める反動的回帰でもあった。
パフラヴィー朝は、ソ連の南側に位置するという地政学的理由もあり、西側諸国の国際戦略のもとでアメリカ合衆国の援助を受けるようになり、脱イスラム化と世俗主義による近代化政策を取り続けてきた。パフラヴィー皇帝は、自分の意向に反対する人々を秘密警察によって弾圧し、近代化革命の名の下、イスラム教勢力を弾圧し排除した。
[ルーホッラー・ホメイニー]
中心人物ルーホッラー・ホメイニが国外追放を受け、記事によって中傷され、追い込まれる。しかし、それがきっかけで彼側のグループが躍起になり、そこかしこでデモや暴動が勃発。皇帝側はそれを力づくで鎮圧するが、『北風と太陽』だった。逆に火がつき、騒動は大きくなるばかり。そして翌1979年1月16日、皇帝は国外に退去した。
つまり急進的なシーア派が近代化の進展に反発し、経済格差に不満を持つ労働者を味方につけ、革命を起こしたのだ。そしてパフラヴィー皇帝は亡命するしかなかった。皇帝の代わりにバフティヤールが首相となり、帰国したホメイニと和解しようとするが、革命の熱は止められなかった。4月1日、イランは国民投票に基づいて『イスラム共和国』の樹立を宣言し、ホメイニーが提唱した『法学者の統治』に基づく国家体制の構築を掲げた。
[イランに帰国したホメイニー師]
こうして『イラン革命』は成立してしまったのである。つまり、パフラヴィー朝が消滅し、ここから『イラン・イスラム共和国(1979年~)(通称イラン、あるいはペルシャ)』となるのだ。アメリカの参入と、イスラム勢力の弾圧を力づくで行ったことにより、彼らの心底に眠っていたイスラム魂に火が付き、この革命は起こったのだ。そして彼らは、アメリカにもソ連にも支援を求めることなく、『イスラム法』に基づいた政治への回帰、つまり『イスラム原理主義』を唱えた。
アメリカは、この世界からイスラム勢力を少しでも消滅させようとしたが、火にかけたのは水ではなく油だった。イランは、反米・反キリスト教を掲げながらも、ソ連にも依存せず、更に、インドやインドネシアのように米ソのどちらの勢力にも加わらない中立の姿勢を示した。イラン革命は、『第三世界』の自立性の強化を歴史的に実証した革命でもあったのだ。
アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国の総称。
[緑は大方の見解において第三世界とされる国、黄は第三世界に含まれることがある国]
この時代、確かに『第三世界』は世界各地で奮起していた。例えば東南アジアでは、ベトナム戦争が起きたことで、東南アジアの5か国は結束を強め、1967年、各国は『バンコク宣言』を行い、これが『ASEAN(東南アジア諸国連合)』の始まりとなった。
結成時の加盟国
この5か国が率先してまず結束を固め、社会・経済面での相互協力を行い、反共産主義を掲げた。そしてベトナム戦争終結後の1970年代後半には、規模を拡大。現在は東南アジア諸国10か国がASEANに加盟していて、EU連合やNAFTA(北米自由貿易協定)よりも多い人口をとなっている(約6億人)。
現在の加盟国
[アジアの国と地域組織の相互関係]
ここでもう一度ヨーロッパの覇権をまとめなおしてみよう。
ヨーロッパの覇権の推移
そしてこの後だ。規模もヨーロッパから『世界』へと変え、まとめ方は『世界で強い勢力を持った国』とする。
17世紀のイギリス以降世界で強い勢力を持った国
これが最新にして、現在進行形の一覧表だ。確かにここにあるように今までの人間の歴史を見る限り、ヨーロッパが中心となってこの世界の覇権を握ってきた。そして、東南アジアやインカ帝国、アフリカ等の第三世界と言われる国々は支配され、植民地となり、彼らの『半奴隷』あるいは『奴隷』となってしまった。
だが、日本が唯一アジアで列強を退け、ロシアのバルチック艦隊を撃退し、列強の仲間入りをしたように、攻め入るリスクを打ち払い、自分たちが生きてきた、守ってきた生き方や文化、そして国家を防衛するのは『正当防衛』でもある。そこまで考えたとき、第三世界としての意地を見せたこの『イラン革命』は、あながちそこまで不自然なことではないだろう。
だが、話をややこしくするのが『イスラム教』である。例えば『聖戦(ジ・ハード)』一つにしてもそうだが、下記の記事に書いたような私がしているそれの解釈なら問題はないが、『内なるジ・ハード』ではなく、『外へのジ・ハード』。つまり、『やられたらやり返す』とか、『やられる前にやる』という過激な考え方は、いささか首をかしげざるを得ない。それは、日本における『神風特攻隊』に対しても同じことが言えるわけだ。正当防衛が『過剰防衛』になっていないか。そういうことにも目を向けたいのである。
アメリカがこのイラン革命を恐れた理由は、この革命がアメリカに逆らう形で行われたからだ。つまり、こうした例が他に続出してしまえば、それと比例してアメリカの権威は崩れる。すると、せっかく築いてきたアメリカ一強時代にひびが入ってしまう。権力というのは、一度手元から離れてしまうとあっけないものである。かつて、『太陽王』と言われたフランスのルイ14世のすぐ後に、ルイ16世とその妻のマリー・アントワネットが『フランス革命』にて、大衆の目前でギロチン刑に遭ったように、権威を維持する側も側で、必死なのだ。
そこでアメリカは、イランをあきらめて『イラク』を支援することにした。なぜかというと、イラクとイランの間にはちょっとした確執が存在したからだ。下記の記事に書いたように、イスラム教には2つの大きな派閥がある。
である。
国ごとのイスラム教の分布。緑系はスンナ派、赤紫系はシーア派、青はイバード派。ほとんどがスンナ派(スンニ派)であることがわかる。
赤紫がイランであり、シーア派だ。つまり、ほとんどイラン(シーア派)は孤立している。イラクを含めたスンナ派がほとんどを占めているのだ。スンニ派とシーア派は現在進行形で対立中である。彼らはもう1000年以上争いを続けている。
アメリカは、この対立構造を利用し、イラク側に回った。そして、利害が一致したイラクはアメリカと組み、イランを攻撃。こうして『イラン=イラク戦争(1980年9月22日 – 1988年8月20日)』が始まったのである。イラクでは1979年当時大統領に就任したサッダーム・フセインがいた。
[サッダーム・フセイン・アブドゥル=マジード・アッ=ティクリーティー]
『イラク(フセイン、スンナ派)』VS『イラン(ホメイニ、シーア派)』
のこの戦争は、膠着状態で、イラン側が優勢の形で終結。しかし、アメリカがイラク側に回ったのに、なぜ勝てなかったのだろうか。冒頭の記事にもあるように、中東戦争では終始アメリカはイスラエル側を支援し、だからこそイスラエルは常に戦争で勝つことができた。それならば、今回もイラクが勝つはずだ。しかもイラクには、イラン革命の影響拡大を阻止したいサウジアラビア、クウェート、そして石油の安定供給を条件にフランスまでもがイラク側に回っていたのだ。
[アーネスト・ウィル作戦で出動したアメリカ海軍のアイオワ級戦艦ウィスコンシン。]
イラク側
しかし、実はイラン側にも様々な支援が行われていた。まずはイラクに反発するイスラエル。そして、北朝鮮や中国、アメリカもイラクに対する武器輸出や経済援助などを行う裏で革命の際のテヘランのアメリカ大使館占拠事件において、人質の解放をめぐる取引の一環かつニカラグア内戦を戦う傭兵軍コントラへの資金援助のため、ある時期にイランに対しても武器輸出を行った(イラン・コントラ事件)。
イラン側
確かに一時はイラン側が圧倒的に不利な状態で、降伏間際のところまで追い込まれたが、こうした外国の支援の事情が重なって、イラン側が形成を逆転し、最後にはイラン優勢の形で幕を閉じたのである。
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