ハニワくん
先生
いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
- インドはなぜ分裂してしまったの?
- ガンジーはなぜ暗殺されたの?
- ムハンマド・アリー・ジンナーって何をした人?
1.ヒンズー教とイスラム教という宗教の違いが原因です。
2.ヒンズー教とイスラム教の融和を願って活動したため、ヒンズー原理主義者に『反ヒンズー教徒』扱いされて、暗殺されました。
3.独立パキスタンの初代総督で、イスラム教側のインド人でした。
ハニワくん
博士
1947年にイギリスからの独立に成功したインド。
しかし、ムハンマド・アリー・ジンナー率いるイスラム教側と、ガンジーらが率いるヒンズー教側で意見が対立します。ただ、実際にはガンジーはヒンズー教だけではなく、イスラム教側への理解もあり、それだけではなくキリスト教への理解もあった人物でした。
ガンジー
まさに、インドの中心的人物にふさわしい彼のような柔軟性のある人間にかかっていたインド分裂の阻止。しかし、その態度を斜に構えて解釈したヒンズー教原理主義者に、
あの野郎、イスラム側かよ!
と思われ、ガンジーは1948年1月30日、銃で撃たれてこの世を去りました。彼の死の影響もあり、インドはインド(ヒンズー教側)とパキスタン(イスラム教側)に分かれて、分裂してしまいました。
博士
ハニワくん
先生
インド分裂
『インド分裂』
『ローラット法』という理不尽な仕打ちにネルー、ガンジーらが立ち上がる!『インドよ!独立の時だ!』
上記の記事の続きだ。ガンジー、ジャワハルラール・ネルー、チャンドラ・ボースらが奮闘し、インド独立の為に戦った。イギリスはまずインドに自治を与えるために1935年、自治の範囲を広げる『新インド統治法』を制定するが、これではまだネルーらが納得する『独立』とは程遠かった。イギリスはイギリスで、インドという『大切な収益源(植民地国)』を失うことを避けたかったのだ。
[イギリス領インドにおけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分布(ピンクがヒンドゥー、緑がイスラム、黄が仏教)]
第三世界の独立
だが、1947年にようやくインドは独立に成功。イギリスがついにこの地を支配することができなくなり、インドへ権力委譲を約束したのだ。この時、世界は『独立ブーム』とも言える波が来ていた。
- ビルマ
- マレーシア
- シンガポール
は独立戦争をせずにイギリスが独立を容認し、
- インドネシア
- ベトナム
は独立戦争を経て独立することになった。
アジア
独立年 | 国名 | 独立前の宗主国 |
1945年 | ベトナム民主共和国 | フランス |
1946年 | フィリピン共和国 | アメリカ |
1947年 | インド連邦 | イギリス |
パキスタン・イスラム共和国 | イギリス | |
1948年 | 大韓民国 | 日本 |
朝鮮民主主義人民共和国 | 日本 | |
ビルマ連邦共和国 | イギリス | |
1949年 | インドネシア連邦共和国 | オランダ |
1953年 | カンボジア王国 | フランス |
1957年 | マラヤ連邦 | イギリス |
アフリカ
1957年 | ガーナ共和国 | イギリス |
1958年 | ギニア共和国 | フランス |
1960~1961年 | カメルーン共和国 | フランス、イギリス |
1960年 | コートジボワール共和国 | フランス |
コンゴ共和国 | ベルギー | |
セネガル共和国 | フランス | |
ソマリア民主共和国 | イギリス、イタリア | |
チャド共和国 | フランス | |
中央アフリカ共和国 | フランス | |
トーゴ共和国 | フランス | |
ナイジェリア連邦共和国 | イギリス | |
ニジェール共和国 | フランス | |
ベナン共和国 | フランス | |
マダガスカル共和国 | フランス | |
マリ共和国 | フランス | |
1962年 | アルジェリア民主人民共和国 | フランス |
ウガンダ共和国 | イギリス | |
1963年 | ケニア共和国 | イギリス |
1964年 | ザンビア共和国 | イギリス |
マラウイ共和国 | イギリス | |
1965年 | ガンビア共和国 | イギリス |
戦後20年の間に『第三世界』でこれだけの独立があったのは、やはり『第二次世界大戦』という世界的脅威の影響だろう。あれを機に世界が自分たちの立ち居振る舞いを改めたのだ。ヒトラー率いるドイツは自分たちのやったことを深く考えさせられ、彼らのやった『ホロコースト』、そして日本に核爆弾が落とされた事実は、世界中の人々の考え方に大きな影響を与えた。
植民地とされていた人々や、戦場となった地域の人々も、散々な目に遭った。今後、こういうことが二度とないように立ち上がり、ある地域では同盟を組んで結束し、植民地などこの世にあってはならないと糾弾した。
アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国の総称。
[緑は大方の見解において第三世界とされる国、黄は第三世界に含まれることがある国]
東南アジアで命を燃やした歴史に残る偉人たちと、唯一独立を守り続けた奇跡の国~ASEAN誕生~
インド・パキスタン分離独立
そしてインドでも同じような動きがあったということだ。インドはもビルマやマレーシア同様、独立戦争をせずに独立するのだが、しかし、問題があった。独立の際に『ヒンズー教徒が多いインド連邦』と『イスラム教徒が多いパキスタン』に分離してしまったのだ。
[インド・パキスタン分離独立]
オレンジがインド、緑がパキスタンだ。パキスタンはこのようにして、左右にできた。『西パキスタン』と『東パキスタン』である。このパキスタンにイスラム教徒が住むようになったのである。
ヒンズー教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、一番荒っぽい宗教はどれ?宗教は『戦争の火種』なのか
1947年8月、こうして宗教理由から分かれたインド・パキスタン分離独立に前後して、ヒンズー教徒とイスラム教徒による宗教暴動が巻き起こり、100万人もの死者を出してしまった。その際もガンジーは断食をしたり、身を挺してこれを防ごうとしたが、状況は好転しなかった。
第一次印パ戦争
10月、カシミール地方の帰属をめぐってムスリム住民が暴動を起こす。この場所は、住民の約8割がムスリム(イスラム教徒)だが、当時の藩王がヒンズー教徒だったという理由で、インドに編入されたのだ。そうした事情が手伝って、カシミールは荒れてしまった。そして、『第一次印パ戦争(1947~1949年)』が勃発。ガンジーはそれでも信念を貫き、両宗教の融和を目指し、戦争相手のパキスタンに協調しようとする態度を貫いた。
[暴動を調停するガンディー]
ガンジー
しかし、ガンジーのそうした思想を敵視する人間がいたのだ。
ガンジー暗殺
あの野郎、イスラム側かよ!
そしてガンジーは1948年1月30日、ヒンズー原理主義団体のナートゥーラーム・ゴードセーに銃で撃たれてこの世を去った。
その男『ガンジー』。負の連鎖に立ち向かった男はブッダだけではなかった!
現在も対立が続くカシミール地方
パキスタンとインドは現在もこのカシミール地方をめぐって激しく対立している。両国とも『核保有国』という理由もあって、この問題は世界的にも重要な問題なのである。
前述したようにパキスタンは東西に分かれていたが、バングラデシュは右側だ。Wikipediaにはこうある。
1970年12月の選挙で人口に勝る東パキスタンのアワミ連盟が選挙で勝利すると、西パキスタン中心の政府は議会開催を遅らせた上、1971年3月には軍が軍事介入を行って東パキスタン首脳部を拘束した。これによって東西パキスタンの対立は決定的となり、東パキスタンは独立を求めて西パキスタン(現パキスタン)と内乱になった(バングラデシュ独立戦争)。西側のパキスタンと対立していたインドが東パキスタンの独立を支持し、また第三次印パ戦争がインドの勝利で終わった結果、1971年にバングラデシュの独立が確定した。
『第三世界』は確かに次々と独立を果たした。しかし、その独立から生まれるこのような不安定もあった。多少理不尽でも、上がいるからまとまる組織のようなもので、それが急にいなくなったから、態勢がグラついてしまったのだ。
- 印パ戦争
- 中東戦争
- イラン・イラク戦争
- コンゴ動乱
- ソマリア内戦
- ルワンダ内戦
これらはすべて第二次世界大戦の後に起きた『戦争』であり、『宗教問題』であり、『独立をかけた騒動』だった。
[現在のソマリアの勢力図]
『中東戦争』で荒れるイスラエル!世界一神聖であるべき場所が、世界一の争いの火種となっている皮肉
[ジンナー(左)とガンディー]
ガンジーは、独立パキスタンの初代総督となるムハンマド・アリー・ジンナーに理解を示し、融和的解決を模索し続けた立派な男だった。
その後のインドを見てみよう。
まだ一人当たりGDPは低く、格差問題もあるが、インド人は13億人もいるから、彼ら一人一人のマンパワーが育てば、相当な爆発力となる。第三次印パ戦争後にはソ連、冷戦終結後にはアメリカとの連携も強化し、『全方位外交』を進め、将来的には国連安保理の常任理事国入りを目指していて、核保有国でもある。更に、そのうちインド人の人口は世界一になることが予測されているから、今後彼らの動向から目が離せないだろう。
国際連合の主要機関の一つ。安全保障理事会は、実質的に国際連合の中で最も大きな権限を持っており、事実上の最高意思決定機関である。
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