アフガニスタンはなぜ常に戦場なの?わかりやすく簡潔に教えて!
場所的に他国から侵略されやすいのが一つの大きな理由です。もう一つは宗教問題です。
日本、古代エジプト、タイはそういう意味で地理的に有利な場所でした。
したがって、長い間外国からの侵略がないか、あるいは緩衝地帯となって戦場にならなかったというある種の奇跡が起きているエリアです。しかし、その真逆の例もあります。それがイスラエルやアフガニスタンということですね。アフガニスタンはイギリスと三度にわたる『アフガン戦争』を起こしていますが、まずそのようにして侵略する対象の地域となってしまっていました。その後もソ連が侵攻してきます。ソ連からすれば自分の国の周辺諸国を取り込んでおけば、次にあり得る被害の低減が可能になると考えたわけです。
ソ連の周りを社会主義国家にすれば、親ソ的な国が増え、次の被害は抑えられるぞ
しかしアメリカ率いる資本主義陣営が、
ソ連がこれ以上社会主義国家を増やしたら、脅威になるぞ
と考え、それを抑えようとして『冷戦』は始まります。そんな米ソの代理戦争となってしまう場所が世界各地にあったのです。しかし、アフガニスタンはこれに抗い、
と声を上げ、『ムジャーヒディーン(戦士たち)』への志願兵が集うようになります。そこにいたのがビン・ラディンでした。
アフガニスタン
アフガニスタンという地域は、場所的に戦場となりやすかった。
アフガニスタンはムガル帝国やサファヴィー朝によって長年支配されていて、サファヴィー朝から王位を簒奪してアフシャール朝を創始したナーディル・シャーにより、1730年代末までに統一された。1739年にナーディル・シャーはデリーを占領し、略奪と破壊を行い、インダス川以西の領土をムガル帝国から割譲させた。
ムガル帝国の初代皇帝はバーブル(在位:1526年 – 1530年)だ。彼は下記の記事に書いた、『ビザンツ帝国…を滅ぼすオスマン帝国…を滅ぼすティムール帝国』の末裔だった。奴隷王朝最後のロディー朝を打ち破り、インドにムガル帝国を建国したのだ。
モンゴルのこと。バーブルがモンゴル人の地を引いているので、この国のニックネームがムガルとなった。
母方はチンギス・ハーンの次男チャガタイに連なる。ウズベク族のシャイバーニー朝に敗れ、アフガニスタンへ逃れる。カーブルで皇帝を名乗るが、故郷への帰還が無理と悟ると、インド征服に切り替えた。1526年、ロディー朝と『パーニーパットの戦い』、更に翌年のメワール王国との『ハーヌアーの戦い』で勝利し、アフガン諸勢力の侵攻を撃退し、北インドを支配。最盛期にはインド亜大陸全域からアフガニスタンにまでおよぶ広大な地域を版図に収めた。
[第三次パーニーパットの戦い(1761年1月14日)]
1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。1834年に国名を『アフガニスタン首長国』とする。しかし、今度は南進をもくろむロシアと、植民地インドの防衛という観点から北進を狙うイギリスに挟まれ、秩序を保つのが難しくなってくる。
下記の記事に書いたように、ロシアは海外進出するために、冬季でも凍結しない港が必要で、南の方に進出する必要があった。ロシアは不凍港を求め、『南下政策』を取ることになったのである。更にイギリスは植民地として重要なインドをなんとしても守りたいという考え方があったのである。
特にイギリスとは三度にわたる『アフガン戦争』があった。
[左からJenkyns、Cavagnari、ヤアクーブ・ハーン、Daoud Shah、Habibullah Moustafi(ガンダマク条約、1879年)]1878年 – 1880年。カンダハールの戦いでアフガニスタン首長国もイギリスに敗れ、ガンダマク条約でその保護国となり、イギリスとロシアはアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙。
1926年。国名をアフガニスタン王国とする。
更に、1979年にソ連がアフガニスタンを侵攻する。下記『冷戦』の記事に書いたが、ソ連は東ヨーロッパを親ソ的な国にしようとしていた。第二次世界大戦の影響、特に『独ソ戦』で甚大な被害を受けたソ連は、自分の国の周辺諸国を取り込んでおけば、次にあり得る被害の低減が可能になると考えたのだ。
ソ連の周りを社会主義国家にすれば、親ソ的な国が増え、次の被害は抑えられるぞ
ということだったのである。そして、アメリカ率いる資本主義陣営が、
ソ連がこれ以上社会主義国家を増やしたら、脅威になるぞ
と考え、それを抑えようとして『冷戦』は始まったのだ。
しかし、アフガニスタンはこれに抗った。そして彼らは、
と声を上げ、『ムジャーヒディーン(戦士たち)』への志願兵が集うようになる。
[ムジャーヒディーンの兵士達(1987年)]
ただ、やはりその背景にいたのは『アメリカ』だったのだ。この戦争も、結局は『米ソの代理戦争』になっていたのである。いくつかあるその『米ソの代理戦争』をまとめてみよう。
『ベトナム戦争(1955年11月 – 1975年4月30日)』は、アメリカとソ連の『冷戦』の間接的な戦場だった。アメリカは『自由主義』、ソ連は『社会主義国』を拡大させたくてお互いが対立していたが、直接的に戦いあうわけじゃなかったので、それは『冷戦』と呼ばれていた。その後、米ソは1960年代平和共存外交を展開するが、他の地域で代理戦争を起こす。その影響を強く受けたのが、東南アジアだったのだ。
ソ連は『1948~1979年』の約30年間の間に行われた戦争、『中東戦争』でアラブ側の支援を行っていた。アメリカ・イギリス・フランスがイスラエルに、ソ連がアラブ側に対し支援や武器を供給していたことから、この中東戦争は代理戦争の側面も含むと言われていたのだ。
また、『朝鮮半島』は第二次世界大戦の後、北緯38度線を境に、米ソによる分割を受ける。北はソ連、南はアメリカによって支配された。そして東西冷戦が進行する中、南北に分断されて、この2つの国が生まれたわけだ。『北朝鮮』と『韓国』である。
このようにして、『第二次世界大戦』の後の米ソ『冷戦』の影響は、世界各地の至る所に響き渡っていた。そして、そのムジャーヒディーンの中にいたのが、若きオサマ・ビン・ラディンだ。ソ連は1989年に撤退するが、沸き起こった熱が冷めやむことなく、今度はゲリラ戦で共闘した組織同士による内戦が始まった。そこに『タリバン(ターリバーン)』が登場するのである。
ムハンマド・オマルが創設したタリバンは、パキスタンとアフガニスタンで活動するイスラム主義組織。イスラム原理主義の教育を受け、イスラム過激派となった、パキスタンの難民キャンプで育ったイスラム系の組織である。その後、1996年から2001年11月頃までアフガニスタンの大部分を実効支配し、国際的に認められないアフガニスタン・イスラーム首長国(ターリバーン政権)を樹立した。
Wikipediaにはこうある。
ターリバーンは1996年9月に首都カーブルを制圧し、国連施設に幽閉されていた元大統領のムハンマド・ナジーブッラーを引きずりだして公開処刑として惨殺した。カーブル制圧後、「アフガニスタン・イスラーム首長国」を建国したが、すぐにはどの国からも承認されなかった。1997年5月にターリバーンが北部の主要都市マザーリシャリーフを制圧したのを受け、パキスタンが世界で初めて政府承認し、すぐにサウジアラビア、アラブ首長国連邦が続いた。この三カ国以外からは承認されることはなかった。
[1996年時点のアフガニスタンの勢力地図。赤の部分がアフマド・シャー・マスード軍、緑の部分がラシッド・ドスタム軍、黄色の部分がターリバーンの支配地域。]
更に見てみよう。
1996年、ターリバーン政権はウサーマ・ビン=ラーディンとアルカーイダの幹部を客人としてアフガニスタンへの滞在を許した。アルカーイダは、「対米宣戦布告」を行うなどそれまで引き起こされていた数々の反米テロの黒幕と推定されており、またイスラム諸国からも異端視されていた組織であり、ターリバーンは周辺諸国から孤立し始めた。
アメリカのビル・クリントン大統領はターリバーンに対する政策を転換し、ユノカルのパイプライン計画も破綻した。ターリバーン政権にアルカーイダを引き渡すように要求したが、ターリバーンは拒否した。アメリカはパキスタン政府に圧力を掛け、ターリバーンへの支援を断ち切ろうとした。またサウジアラビア政府もターリバーンへの援助を打ち切ったため、ターリバーンは経済面でも大きな打撃を受けた。しかしターリバーンは国内の他勢力の拠点を次々に攻略し、勢力を拡大し続けた。
この点において、このタリバンがなかなかの問題集団であるということがわかるはずだ。だが、彼らにとっては自分たちの信じるアッラーの教えを守っているというのである。
このようにして、アフガニスタンは場所的にどうしても『荒らされやすい場所』、あるいは『荒れやすい場所』にあったのだ。
下記の記事に書いたように、『イスラエル』という国も相当な場所だ。そこにある『パレスチナ』というのは、『アブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)』にとって極めて重要な場所だから、それぞれの意見の対立によって、争いが多い場所となっている。
例えば下記の記事に書いたように、古代エジプト王国は、アッシリア帝国に支配され、紀元前6世紀ごろにアケメネス朝のペルシャによって滅ぼされるが、実に2500年もの間繁栄し続けることができた、稀有な古代王国である。その理由の一つは、この土地が『砂漠に囲まれた場所』だったからということだ。つまり、他国がなかなか攻め入ることができなかったのである。
また、それで言うと『日本』もそうだ。元寇(蒙古襲来)に、面白い話がある。
日本の鎌倉時代中期に、当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称。1度目を文永の役、2度目を弘安の役という。蒙古襲来とも。
[蒙古襲来絵詞前巻、絵七。【文永の役】矢・槍・てつはうの飛び交う中、馬を射られながら蒙古軍に突撃する竹崎季長と、応戦・逃亡する蒙古兵。]
この時、日本に『神風』が吹き、元軍は日本を侵略することができなかった。だが、実際には大風が戦局に影響を与えたわけではなく、国民の国防意識を高めるために創作されたものだったという。しかしどのみち島国である日本は、古代エジプトと同じような環境的な地の利を生かし、他国からのたやすい侵攻を認めなかった。それも、この日本が世界一長くその国家の体制を維持できている理由の一つだろう。
また、第二次世界大戦前後で東南アジア諸国が次々と植民地化される中、『タイ』だけはそうはならなかった。タイはその独特の地政学を利用した外交で、アジアで唯一独立を保ち続けたのだ。降伏も占領もされずに第二次世界大戦を乗り切った奇跡の国だと言われている。西側のビルマがイギリス領、東側のカンボジア・ベトナムなどがフランス領になったなかで、その間に位置するタイは、両国の緩衝地帯となったのだ。
このように考えたとき、アフガニスタンというのは環境的に『荒らされやすい場所』、あるいは『荒れやすい場所』にあったことがわかる。
[バーミヤン渓谷の石仏と石窟(1976年)]
参考
バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群Wikipedia
[破壊後の石仏]
世界遺産、『バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群』にある『バーミヤン渓谷の石仏と石窟』は、2001年、タリバンによって破壊されてしまった。
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