いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.イラクがクウェートを併合すれば、石油収入を上手く使って負債を返済できると考えたからです。
2.力をつけ始めたイラクを抑えようと、アメリカを中心とした多国籍軍でイラクへの攻撃を開始しました。
3.イラク対14の多国籍軍。圧倒的な戦力の差に、イラクは降伏するしかありませんでした。
『イラン=イラク戦争』でイラクの負債は700~900億ドル(約8兆円)にまで膨れ上がってしまっていました。
それを返すためにクウェートにある石油を駆使しようとしたのですが、クウェートがイラクの言うことを聞かず、イラクが怒ってクウェートを襲撃しました。イラクは、クウェートを併合すれば、石油収入を上手く使って負債を返済できると考えたのです。そしてクウェートの首長ジャービル3世はサウジアラビアに逃亡し、イラクの占領作戦が順調に進んでいきます。しかしアメリカはこう考えました。
このままイラクが力をつけていくとなると、色々と不都合があるな…。
そして国連安全保障理事会の決議を受け、アメリカを中心とした多国籍軍でイラクへの攻撃を開始し、『湾岸戦争』が始まったのです。イラク対14の多国籍軍。圧倒的な戦力の差に、イラクは降伏するしかありませんでした。しかし、この戦争で『サウジアラビア』というエリアを戦場にしたことが、後に大きな問題を引き起こす原因となってしまいます。
これに対し、その後世界を震撼させるある人物が怒りを覚えていました。それが、オサマ・ビン・ラディンだったのです。
『クウェート侵攻』『湾岸戦争』
上記の記事の続きだ。『イラン革命』があり、こうして『イラン=イラク戦争(1980年9月22日 – 1988年8月20日)』が始まった。そして戦争は一時はイラン側が圧倒的に不利な状態で、降伏間際のところまで追い込まれたが、外国の支援の事情が重なって、イラン側が形成を逆転し、最後にはイラン優勢の形で幕を閉じた。
なかなか終わらない戦争に対し、日本では両国の名前をもじって「イライラ戦争」と呼ばれた。
戦争でイラクの側についたクウェートは、イラクを積極的に支援し、イラク南部の港湾都市バスラが戦闘により被害を受けたときクウェート港を開放し、また約400億ドルの資金を提供してきた。また、アメリカも軍事支援を行い、イラクの戦争による負債は700~900億ドル(約8兆円)にまで膨れ上がってしまっていた。
終戦後、イラクはクウェートへの負債を返済するために、石油の減産による石油価格の上昇を目的に、『石油輸出国機構(OPEC)』を通じて石油の減産を求めた。しかし、OPECはイラクの求めに応じず、クウェートとサウジアラビアは石油の増産を行っていた。石油を増産したり、減産したりすることで、石油の価格に影響がある。したがって、イラクはこれを上手く操作してお金を作り出そうと思ったのだ。
アラブ首長国連邦とクウェートがこれを無視して増産したため価格は再び低落した。Wikipediaにはこうある。
1986年12月にはサウジアラビアの提案でOPECは生産上限と標準価格を設定し、このため1987年には原油価格はやや持ち直したものの、これを見た加盟各国が増産を行ったため、1987年末からは再び原油価格は下落に転じ、以後も生産枠設定によって一時価格が持ち直すものの加盟国の横紙破りによる増産によって値崩れするというパターンは継続した。そして、この状況にイラン・イラク戦争を終結させたばかりで不況にあえぐイラクが不満を募らせていった。
1988年12月の総会でも生産上限が設定され価格は持ち直したものの、アラブ首長国連邦とクウェートがこれを無視して増産したため価格は再び低落した。1990年2月以降、イラクはこの2国を激しく非難しOPECの生産枠を順守するよう求めたが、OPECは2国にこれを守らせることができず、増産は続いた。イラクの非難は強まる一方であったが、クウェートとアラブ首長国連邦はこれを全く無視し、対立は頂点に達した。
このあたりの問題をめぐって、イラクはクウェートに対する怒りを抑えられず、襲撃したのだ。『クウェート侵攻(1990年8月2日)』である。これによってイラクがクウェートを併合すれば、石油収入を上手く使って負債を返済できると考えたわけである。そしてクウェートの首長ジャービル3世はサウジアラビアに逃亡し、イラクの占領作戦が順調に進んでいくことになる。
その後、クウェート国内の対イラク協力者であるアラー・フセイン・アリー陸軍大佐を首相とする「クウェート暫定革命政府」を成立させ、1990年8月4日、同政府は『クウェート共和国』の樹立を宣言した。
[バグダッドで会談するサダム・フセインとアラー・フセイン・アリー「クウェート共和国」首相]
だが、このイラクの『クウェート侵攻』についてこう考える人間が現れる。
このままイラクが力をつけていくとなると、色々と不都合があるな…。
アメリカである。アメリカはかつてイラン側につこうとし、
と考えたが『イラン革命』によってイランがアメリカにもソ連にもつかない選択肢を取り、仕方なくイラクについた。だが、今度はそのイラクが『暴走』し始め、徐々に力をつけていくことになるわけだ。イラクとしてもそれを『暴走』とは考えておらず、兼ねてから考えたいた自分たちのやりたいことを伸ばしただけだった。しかしアメリカにとってはそれが不都合だったのだ。
そして、国連安全保障理事会の決議を受け、アメリカを中心とした多国籍軍でイラクへの攻撃を開始し、『湾岸戦争(1991年1月17日 – 2月28日)』が始まったのである。
[イラク空軍が投入したMiG-23MS。MiG-23は同じ可変翼であるトーネードを撃墜したとされる。]
多国籍軍
イラク側
[ミズーリから発射されたトマホーク。湾岸戦争は、戦艦が使用された最後の紛争でもあった。]
[湾岸戦争、砂漠の嵐作戦。アメリカ空軍のF-16、F-15C、F-15E(1991年)]
[クウェートにおける石油火災(1991年)]
イラクのサダム・フセインはクウェートの油田を燃やすことで、安価で提供していた原油を断つ戦略等を駆使し、抗った。
[砂漠の嵐作戦]
しかし、結局この圧倒的な戦力の差に、イラクは当然降伏するしかなかった。Wikipediaにはこうある。
1月17日に、多国籍軍はイラクへの爆撃(「砂漠の嵐作戦」)を開始。宣戦布告は行われなかった。この最初の攻撃は、サウジアラビアから航空機およびミサイルによってイラク領内を直接たたく「左フック戦略」と呼ばれるもので、クウェート方面に軍を集中させていたイラクは出鼻をくじかれ、急遽イラク領内の防衛を固めることとなった。巡航ミサイルが活躍し、アメリカ海軍は288基のUGM/RGM-109「トマホーク」巡航ミサイルを使用、アメリカ空軍はB-52から35基のAGM-86C CALCMを発射した。CNNは空襲の様子を生中継して世界に実況報道した。
1月27日にアメリカ中央軍司令官であったアメリカ陸軍のノーマン・シュワルツコフ大将は「絶対航空優勢」を宣言し、戦争が多国籍軍側に有利に進んでいることを強調した。
アメリカ空軍はイラク軍防空組織に最初期から攻撃を加えており、イラク軍防空システムは早期の段階でほぼ完全に破壊された。これによって戦闘開始直後からイラク空軍の組織的な防空戦闘は困難となり、多くの航空機がイランなどの周辺国へと退避した。ただし開戦初日にはイラク空軍MiG-25によりF/A-18が撃墜されている。また、イラクの防空体制がまだ機能している状況下で、JP233による攻撃を行ったイギリス空軍のトーネードIDSは、多国籍軍の攻撃機としては、最も多くの犠牲を出した。
アメリカはフセイン政権の存続は許可した。湾岸戦争は、1991年1月17日にアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領はアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクはスカッドミサイルをサウジアラビア及びイスラエルに向け発射した。
戦争は終わった。だが、この『サウジアラビア』という地域を戦場にしたこと、そしてアメリカ軍がここに駐屯したことに対し、その後世界を震撼させるある人物が怒りを覚えていた。オサマ・ビン・ラディンである。
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