9.11の『アメリカ同時多発テロ事件』はなぜ起きたの?わかりやすく簡潔に教えて!
大きな原因が3つあります。
1.アメリカがユダヤ教の肩入れをして、パレスチナ(エルサレム)の地をアラブ人から奪った因縁がありました。
2.アメリカ人の9割がキリスト教徒で、『イスラム教VSキリスト教』という宗教対立の構造がありました。
3.湾岸戦争で『サウジアラビア』という地域を戦場にしたこと、アメリカ軍がここに駐屯したことがイスラム教への冒涜だと解釈されました。
アメリカ人の9割がキリスト教徒、ユダヤ人は6%と言われています。
ですから、イスラム諸国がアメリカを攻撃する時には、そこにキリスト教を意識しないということは考えにくいわけです。元々、パレスチナの地はアブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)すべての聖地で、考え方が衝突しています。考え方が分裂してその3つの宗教があるわけですから、元々彼らは対立構造を作りやすいのです。
更にそこに『アメリカ人がユダヤ人の味方をした』事実があるわけです。アメリカの重要人物にユダヤ人が多く、パレスチナを巡る争いでユダヤ人の味方になり、アメリカという強大なバックをつけたユダヤ人が、パレスチナで有利な立場を得ました。そういう強硬手段をアラブ人、イスラム人は先に取られているので、そこの採算を合わせ、対等になるためには同じように強硬手段を取るしかありません。更に、
これに対し、オサマ・ビン・ラディンが怒りを覚えます。こういった様々な事情が積み重なり、彼らにある『聖戦(ジ・ハード)』という戦いの歴史を持ち出しながら、彼らはアメリカに『報復』する形で、攻撃したのです。
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『アメリカ同時多発テロ事件』
上記の記事の続きだ。
このような順序で、『第二次世界大戦』後の中東は荒れていた。その背後にいたのは『米ソ』であり、『冷戦』の影響がここにも表れていた。
しかし、『第三世界をなめるな!』と言わんばかりに行動したイランの『イラン革命』を皮切りに、イスラム教という宗教を軸にしたイスラム系民族たちの革命的行動が、中東各地で頻発するようになっていた。
そして、湾岸戦争で『サウジアラビア』という地域を戦場にしたこと、そしてアメリカ軍がここに駐屯したことに対し、その後世界を震撼させるある人物が怒りを覚えていた。オサマ・ビン・ラディンである。
[ウサーマ・ビン・ラーディン]
彼が率いる組織『アルカイダ(アル=カーイダ)』はイスラム過激派の組織で、湾岸戦争以降アメリカに対してテロリズムを繰り返していた。なぜなら、彼らが湾岸戦争で荒らしたサウジアラビアには、『メッカ』というイスラム教徒にとっての聖地があったからだ。それを侮辱することはすなわち、イスラム教に喧嘩を売っているということ。彼らはその喧嘩を買ったのである。
2001年10月7日に出された彼の声明の中にはそういうものもあった。
もちろん、そんなに単純な話ではないだろう。もっと複雑で、様々な事情が絡まっている。『イラン・イラク戦争』、『湾岸戦争』と、アメリカが裏で絵を描いているという図式にも文句はあったはずだ。アルカイダはイスラム原理主義だった。それは下記の記事に書いたように、キリスト教との和解を認めず、荒っぽいやり方を遂行する過激な考え方を持つ人々のことだ。そう考えるとここにあるのは『キリスト教VSイスラム教』という宗教戦争の側面もあっただろう。
実際に、下記の記事では『ユダヤ教VSイスラム教』という図式を見ることができる。そして事件は起こった。2001年9月11日、旅客機がハイジャックされ、ニューヨークにある世界貿易センタービルに突っ込んだのだ。『アメリカ同時多発テロ事件』である。一連のテロ攻撃による死者は2996人、負傷者は6000人以上であり、アメリカに100億ドル(約1兆円)以上の経済的損害を与えた。それを受け、犯行声明を出したのがビン・ラディンだった。
先ほどのアフガニスタンの記事にも書いた項目を見てみよう。Wikipediaにはこうある。
1996年、ターリバーン政権はウサーマ・ビン=ラーディンとアルカーイダの幹部を客人としてアフガニスタンへの滞在を許した。アルカーイダは、「対米宣戦布告」を行うなどそれまで引き起こされていた数々の反米テロの黒幕と推定されており、またイスラム諸国からも異端視されていた組織であり、ターリバーンは周辺諸国から孤立し始めた。
アメリカのビル・クリントン大統領はターリバーンに対する政策を転換し、ユノカルのパイプライン計画も破綻した。ターリバーン政権にアルカーイダを引き渡すように要求したが、ターリバーンは拒否した。アメリカはパキスタン政府に圧力を掛け、ターリバーンへの支援を断ち切ろうとした。またサウジアラビア政府もターリバーンへの援助を打ち切ったため、ターリバーンは経済面でも大きな打撃を受けた。しかしターリバーンは国内の他勢力の拠点を次々に攻略し、勢力を拡大し続けた。
アフガニスタンのタリバン政権は、ビン・ラディンをかくまった。そしてアメリカはこれを攻撃することを決意した。
その後アメリカは、『イラクが大量破壊兵器』を保有していいるとして、2003年に『イラク戦争(2003年3月20日 – 2011年12月15日)』を開始。イラクのフセイン大統領はすぐに捕らえられ、拘束された。
[米兵に取り押さえられた直後のサッダーム]
フセインは実際のところでは、イラク国民の支持を受けていなかった。フセインが大統領になったとき、自身への崇拝が強化され、イラク国内には彼の巨大な彫刻、銅像、肖像画やポスターが飾られるようになった。それらを制作する専門の職人がいたほどであり、国民の人口より彼の銅像やポスターの方が多いという笑い話が作られたほどである。フセインに対する個人崇拝は、中東でも異例であり、突出していたのだ。
同時に、独裁者でもあった彼は、反対派への粛清、それによる恐怖政治、弾圧から諸外国から典型的な独裁者として恐れられた。ヒトラー率いるナチス・ドイツを破ったスターリンを、かつてのイスラムの英雄サラディンに見立て、スターリン主義たるこうした暴君行動を取り、悦に浸っていたのだ。
だが、彼はイギリスとアメリカが仕掛けたこのイラク戦争後に捕らえられ、2006年12月30日、バグダードのアーザミーヤ地区にある刑務所にて、絞首刑による死刑が執行された。フセイン政権を崩壊に追い込んだ同年、フセイン政権崩壊前にいたるところにあったフセイン像が、イラク人たちによって倒される光景が広がった。
[倒されるフセインの銅像]
ビン・ラディンについてのその後の詳細をwikipediaで見てみよう。
2004年以降から、腎臓病に苦しみ常に人工透析の電子機器が必要であると報道された。そのため死亡説が浮上した。これは、フランスの地方紙などが伝えたもので、腸チフスで死亡したとの記事であった。しかし、フランスのシラク大統領が、「死亡したとの情報はない」などとし、死亡説を否定した。一説では北朝鮮に潜伏しているなどの説があるが定かではない。2008年11月13日、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官(当時)は、ウサーマ・ビン・ラーディンの追跡と逮捕は現在でもCIAの最優先事項とした上で、潜伏先をアフガニスタンとパキスタンの国境地帯(トライバルエリア・FATA)ではないかという見解を示した。
2010年10月18日、CNNは北大西洋条約機構当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンが、アフガニスタン・パキスタン国境地帯の洞窟ではなく、パキスタン国内の家屋で「快適に」暮らしていると報じた。同当局者は「洞窟で暮らしているアルカーイダのメンバーは誰一人としていない」と述べた。ビン・ラーディンらは、パキスタン情報機関や地元住民に保護され、同国北西部の家屋に居住。付近にアイマン・ザワーヒリーも住んでいるという。
配下の連絡係が発見され、その行動分析からウサーマ・ビン・ラーディンの居所が突き止められた。2011年5月2日(米国東部夏時間5月1日)、パキスタンにおいてアメリカ軍によって攻撃され、死亡した。
このあたりの描写を、映画『ゼロ・ダークサーティ』で見ることができる。
こうしてアメリカがイスラム側の象徴であるビン・ラディンを倒したことで、今回の騒動は一段落がついたように思われた。イラクでもフセインが打倒されたことにより、独裁者がいなくなって解放されるようになるからだ。
だが、実際にはそう単純なものではなかった。イラク戦争の時のアメリカの強引な手法は、イラクや周辺地域の混乱を招き、その中から『イスラム国(IS)(2006年10月15日 – 現在)』という、より過激なイスラム組織を生み出すことになってしまった。
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