今回は下記の記事の続き、あるいは関連する記事という位置づけになる。テーマとしては『夢、誤解』である。
モーセ、ブッダ、孔子、ソクラテス、ピタゴラス、マニ、ゾロアスター、ムハンマド、どの人物の弟子も死後の復活などは認めていないが、イエス・キリストだけは、弟子たちが『復活を見た』と言っていて、『人間』なのか『神の生まれ変わり』なのか、史実では証明できないという。
[フレスコ画イコン『主の復活』(カーリエ博物館蔵)。キリスト(ハリストス)がアダムとイヴの手を取り、地獄から引き上げる情景。]
イエス復活の実態は、今のところ歴史家が考え付く仮説として、この三つの可能性が考えられている。
また違う見解では、イエスが生きた時代は、哲学でいう素朴実在論が人間の思考を支配していて、夢で見ることが、昼間に現実で起きたことと同じ重みをもったという。処刑されたイエスと夢の中で出会い、話をしても、生きているイエスと会ったのと同じように受け止められるというのだ。ただこれはある意味、この『2番目の説』に該当することになるだろう。
宗教分野の識者である佐藤優氏は、ある日の日経『PRESIDENT』にてこの『素朴実在論(そぼくじつざいろん)』について語っていた。彼曰く、この時代はこの考え方が人々を支配していたというのだ。もし本当にそうだとしたならば、イエスが復活したという奇跡の話はもう終わりである。彼ら弟子たちが、あまりにも理不尽な師匠の死を目の当たりにし、強く強くその事実を心に焼き付かせたことによりイエスの夢を見て、そしてその夢でイエスが生き返ったから、『本当に生き返った』と解釈した。これが『イエス復活』の伝説のからくりである。
イエスの母親が『処女(parthenos)』ではなく『乙女(almah)』だった事実といい、私はただただ、フランスの小説家プレヴォが言ったこの言葉をかみしめるのみである。
もっともこの場合は、すでに源泉付近で汚染していたのだが。ちなみに私は『4つ目の可能性』について独自の見解を導き出した。これが本当なら、
といったイエス以外の極めて威厳を持った人々の存在の理由にもつじつまが合う。しかもクリスチャンもムスリムも仏教徒も、誰も大きく精神的ダメージを負うことはない。
参考文献