いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.スペイン・ポルトガルは南アメリカ大陸で、北アメリカ大陸はイギリスとフランスが中心となって進出しました。
2.そのイギリス人とフランス人です。彼らの植民地としての『支配』からスタートし、先住民を虐殺、追放して彼らの土地を奪いながら土地を獲得していきました。
3.イギリス軍と植民地人が衝突して『アメリカ独立戦争』が始まり、翌年にアメリカに独立宣言書が交付され、『アメリカ合衆国』ができました。
北アメリカ大陸(北米)はイギリスとフランスの支配下にありました。
またその頃、ルターやカルバン等の宗教改革がありました。そのカルバンによって追い込まれたピューリタン、つまり彼についていけなかったピューリタンは、居場所がなくなり、アメリカに新天地を求めました。彼らは貧しく、渡航費はありませんでしたが、移民先の大農場で労働することを条件に、アメリカに移ったのです。こうして主にイギリス人とフランス人が北米にやってきて、生活し始めます。しかしそのうち、
という2つのグループに分かれるようになりました。『フレンチ・インディアン戦争』で領地を巡って両者が衝突。イギリスは惨敗が続き、『ウィリアム・ヘンリー砦の戦い』では、インディアンによりイギリス兵にかなりの残虐行為がなされます。しかしその後に形勢が逆転し、イギリスは北米のほとんどを支配することに成功します。
しかし、イギリスの積極的な『オフェンス』のツケは溜まっていて、その穴埋めのためのカバーに植民地の人々は更に首を絞められる事態となってしまい、それが仇となって植民地人が宗主国イギリスへの不満を爆発させたのです。1775年、レキシントンとコンコードにおいて、イギリス軍と植民地人が衝突。そして『アメリカ独立戦争』が始まりました。そして翌年の1776年7月4日、アメリカに独立宣言書が交付され、正式にアメリカ合衆国という国家が形作られたのです。
アメリカ合衆国とは、イタリアのアメリゴ・ヴェスプッチが見つけたから『アメリカ』と名付けられ、様々な事情からここへ移入してきたイギリス人が、『本家イギリス人』に対抗する形で『独立』を主張して作られた国。
では、先住民のインディアンこそが真のアメリカ人だと思いきや、彼らはそもそもスペイン人であるコロンブスにインド人だと間違えられて『インディオ』と呼ばれた。更に、『アメリカ』という言葉自体がイタリア人からつけられ、『アメリカ』という国は『本家イギリス人から独立したイギリス人たち』が作った国だから、『真のアメリカ人』というのはインディアンでも、インディアンと呼ばれる前にいた先住民たちでもなく、独立を果たした彼らということになります。複雑な話ですね。
Contents|目次
『アメリカ独立宣言』
上記の記事の続きだ。こうして
といった、四大文明とは別でアメリカ大陸で『密かに』栄えていた文明は、こうして大航海時代の『コンキスタドール』たちによって征服され、滅亡したのである。記事にも少し書いたが、北米大陸はイギリスとフランスが中心となって進出した。例えば、マヤ文明があったユカタン半島を地図で見てよう。
ここがマヤ。そしてアステカ王国はメキシコの南部エリア付近にあった。インカ帝国になると更に下だ。南アメリカ大陸で、現在のペルーにあたるエリアに存在した。つまり、スペイン・ポルトガルのコンキスタドール(征服者)が支配したのは南アメリカ大陸で、北アメリカ大陸については、イギリスとフランスが中心となって進出したのである。
アメリカ大陸への進出
北アメリカ大陸 | フランス、イギリス |
南アメリカ大陸 | スペイン、ポルトガル |
イギリスのジョン・スミスは、ジェームズ川の河口から約50キロさかのぼった北岸の半島に到着。そこを『ジェームズタウン』と名付けた。
イギリスのリチャード・チャンセラーはノルウェー沖で荒らしに遭いながらも北東航路の開拓をし、ドレークはイギリス人としてはじめて世界周航に成功し、『ナイト』に叙される。ウォルター・ローリーは1584年に北米探検を行い、『処女王』エリザベス女王にちなんで、その地を『ヴァージニア』と名付けた。
この北アメリカ大陸には、イギリスから大勢の失業者や本国で迫害されていたピューリタン(清教徒)が移民していた。下記の記事に書いたように、『ルター、カルバン、ツウィングリ』といった人物たちが『宗教改革』を起こし、カトリックという巨大組織に逆らったことで、その逆らった人々の肩身は狭かった。
カルバンは、ジュネーブを神聖な国にしようとし、より厳格な規制を考えた。
歌も大声も、踊りも酒も禁止。それができない人間は汚れているとして、異端扱いした。
つまり、カトリックがキリスト教の名前を汚した越権行為をしていたため、彼らのような、
浄化するべきだ!もっと神聖であるべきだ!
と奮起するような人間を出してしまったわけだ。しかしカルバンによって追い込まれたピューリタン、つまり『普通の心を持った清教徒(プロテスタント。カトリックではない者)』は、居場所がなくなり、アメリカに新天地を求めた。そして北アメリカ大陸に移入したということなのである。彼らは貧しく、渡航費はなかったが、移民先の大農場で労働することを条件に、アメリカに移ったのである。
1607年、北米にイギリス領『ヴァージニア植民地』が建設され、フランスもそれに対抗して『ルイジアナ植民地』を建設し、彼らの衝突は続いた。
[フランスはミシシッピ川とその支流の流域全部の領有権を主張した]
原住民との争いもあった。1622年3月22日の聖金曜日に、ヴァージニア植民地のジェームズタウンおよび周辺の入植地で、原住民インディアンと白人入植者の間で『ジェームズタウンの虐殺』が起こった。
[ジェームズタウンの虐殺が描かれた木版画]
当時のイギリス人入植者人口の約1/3にあたる347人が殺害され、女性も子供も関係なかった。彼らからすれば、冒頭の南アメリカ大陸における『インカ、アステカ』の民族同様、いきなり海の向こうから違う民族がやってきて、自分たちを支配し、自分たちが慣れ親しんだすべての環境を破壊し、強奪し、支配したのだから、『正当防衛』にも似た感情でやったのだろう。こういう血の流れるトラブルを起こしながらも、フランスとイギリスは北アメリカ大陸の支配を進めていった。
そして『フレンチ・インディアン戦争(1755年 – 1763年)』が起こった。フランスとインディアンの同盟が、その領地をめぐってイギリスと衝突した戦争である。
[フレンチ・インディアン戦争の主な戦場と各国勢力の図(水色がフランス、ピンクがイギリス、オレンジがスペイン。複数の色の地域は、それぞれが所有を巡って争った地域)]
イギリスは惨敗が続き、『ウィリアム・ヘンリー砦の戦い』では、インディアンによりイギリス兵にかなりの残虐行為がなされた。
[インディアンたちの虐殺を止めに入るモンカルム]
その後、イギリス本国で政府の入れ替えが行われ、ウィリアム・ピットが首相となっていた。ピットは植民地の軍事力を大幅に増やし、フランスは他の問題を抱えていて、それに意識がそれてしまっていた。そうした理由が手伝って、1758年から1760年の間、イギリス軍はヌーベルフランスの中心地ケベックの陥落に成功し、1760年9月、ついにモントリオールを攻略した。
[モントリオールに入るイギリス軍]
Wikipediaにはこうある。
この結果、イギリスは第二次百年戦争ともいえる北米植民地戦争の参戦国で最も大きな発展を遂げることとなった。フランスはミシシッピ川以西のルイジアナを同盟国のスペインに割譲した。これは、スペインが敗戦によりフロリダをイギリスに割譲した、その代償だった。スペインは、イギリスにフロリダを割譲した見返りに、キューバのハバナを手に入れた。カリブ海から北のフランスの植民地は、サンピエール島とミクロン島だけになった。これにより、イギリスは、北アメリカ東半分の植民地勢力の支配を固めた。
とにかくこのようにして、イギリスは『フランス・インディアン軍』に勝ち、北アメリカ大陸のほとんどを支配することに成功したのだ。
[1763年のパリ条約後の北アメリカ。ピンクがイギリス領、黄色が、1762年のフォンテーヌブロー条約後にスペインが手に入れた領土である。]
ヨーロッパの七年戦争と北アメリカ大陸のフレンチ・インディアン戦争とインドのカーナティック戦争などの講和条約。1763年2月10日にイギリス、フランス、スペインの間で締結され、欧州外での覇権は(西欧諸国の中では)イギリスが握る時代の幕開けとなった。
しかし、イギリスの積極的な『オフェンス』のツケは溜まっていて、その穴埋めのためのカバーが大変だった。経済的負担は植民地にも染み渡り、彼らの課税を強化し、植民地の人々は更に首を絞められる事態となってしまっていた。そして、それが仇となり、ついに植民地人が宗主国イギリスへの不満を爆発させたのである。
[「独立宣言への署名」(ジョン・トランブル画) この絵は、2ドル紙幣の裏面図版に使用されている。]
Wikipediaにはこうある。
独立宣言は、「基本的人権と革命権に関する前文」、「国王の暴政と本国(=イギリス)議会・本国人への苦情」に関する28ヶ条の本文、そして「独立を宣言する結語」の3部から成る。中でも、「全ての人間は平等に造られている」と唱え、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文は、アメリカ独立革命の理論的根拠を要約し、後の思想にも大きな影響を与えた。その理論は、名誉革命を理論的に正当化したジョン・ロックの自然法理論の流れを汲む。
ここに出てきたジョン・ロックというのは、『社会契約論』を更新した人間だ。詳しくは下記の記事に書いたが、この後に書くトマス・ペインと言い、こうした独立行動の背景にあるのはもちろん『人間の思想』なわけで、この時代の思想面に強く影響を与えていたのが、彼らのような哲学者たちだったりしたわけである。
1775年、レキシントンとコンコードにおいて、イギリス軍と植民地人が衝突。そして『アメリカ独立戦争(1775年4月19日から1783年9月3日)』が始まった。翌年の1776年7月4日、アメリカに独立宣言書が交付され、正式にアメリカ合衆国という国家が形作られた。だがその直後、イギリスが陸兵3万2千、水兵1万の正規軍を送り込み、それを阻止しようとした。
それに対抗したのがジョージ・ワシントンだ。彼はイギリス植民地のヴァージニアの平凡な家庭に生まれて、軍人とは無縁の人生を送っていた人間だった。しかし、彼は植民地軍総司令官としてイギリス軍に対抗。アメリカ合衆国は、最初の会戦となる『ロングアイランドの戦い』を強いられ、やはりイギリス軍に圧倒されてしまった。
[ロングアイランドの戦いでのデラウェア連隊]
更に、寒さ、飢え、疫病という不幸も重なった。2万5千もの植民地軍の死者が出て、絶望的な状況の中、ルイ16世が派遣したフランス軍に助けられ、1781年、ようやく勝利を収めることができた。そしてフランスやスペインの支援を後ろ盾に、アメリカは1783年に独立を達成したのである。
[アメリカ合衆国初代大統領 ジョージ・ワシントン]
1801年に第3代大統領に就任したトマス・ジェファーソンは、『独立宣言』の起草者の一人だった。当時のフランス皇帝ナポレオンが戦費獲得のため、フランス領だったルイジアナを売却したいと希望し、これを承諾した。これによってアメリカ合衆国は更に広い領土を得て、国土としては実に2倍近くになった。この少し前、1793年、アメリカを助けたルイ16世は、妻であるマリー・アントワネットと共にギロチンによって公開処刑されてしまっていて、ナポレオンの時代に突入していた。
[トマス・ジェファーソン]
前述したように、世界の歴史の中心となる政治家やリーダーの陰には、哲学、宗教といったような人間の思想を扱う専門家たちも大勢活躍していた。その時代、その時代に活躍する専門家がいて、この時代には例えばフランスの哲学者、ルソーがいた。ルソーの国フランスでは、国王であるルイ16世が処刑される等、あまりにもショッキングなことが起きた。そういう人々の思想が混沌としている中、
人はどう在るべきか?
国はどう在るべきか?
という疑問を持つことは当然だった。
彼らが『三大社会契約論』を提唱し、より良い国家や社会、人間づくりに貢献した。また、アメリカ独立には実に様々な人物が携わった。そこにはイギリス出身のアメリカの哲学者、トマス・ペインの姿もあった。
[トマス・ペイン]
彼はイギリス出身だが、アメリカという自由で『市民が主人の強力な国』を作るために奮闘した人物だ。当時、イギリスだけじゃなくヨーロッパ中の権力者が腐敗している現実があった。その腐敗ぶりといったら例えば、『権力者の子供は、親の学位まで受け継ぐことができる』という、あまりにも馬鹿馬鹿しいものだった。
キリスト教が腐敗した理由も、同じことだ。ここで言われている『金の所有』は、『権力の所有』に差し替えて考えても、同じことなのである。そうした事態を受けトマス・ペインは、『国家の最も重要な任務は人権の保障だ』と考えた。このような自由主義思想が軸となり、アメリカの基礎が作られていった。
また、ベンジャミン・フランクリンも、『独立宣言』の起草者の一人だ。独立戦争中にはフランスに渡り、同盟の締結に成功させる。フランスがアメリカ側につくことがどれだけこの戦争で重要だったかということは、先ほどの『ロングアイランドの戦い』の話で見た通りだ。彼がいなかったら、アメリカの独立はあり得なかっただろう。
[100ドル紙幣に描かれているフランクリン]
こうした紙幣の顔ということもあり、『アメリカ合衆国建国の父』の一人である彼を、アメリカで知らない人はいない。そのほか、実に大勢の知恵と勇気ある人物たちが中心となって、犠牲を出しながらも、アメリカはイギリスからの独立に成功したのである。
[左上から時計周りに: バンカーヒルの戦い、ケベックの戦いにおけるリチャード・モントゴメリー将軍の死、カウペンスの戦い、サン・ビセンテ岬の月光の海戦]
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