いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.1814年8月にイギリスに焼かれて、焼け焦げを隠すために真っ白なペンキを塗ったことが理由です。
2.『文明程度の劣った植民地に近代文明を伝えることが先進諸国の責務である』という先進国側の勝手な解釈です。
アメリカは『イギリス』から独立してできた国です。
しかしすぐに『米英戦争』が起きます。1812年6月から1815年2月までの期間にイギリス、その植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族と、アメリカ合衆国との間でおこなわれた戦争です。その後イギリスは順調に勝利を重ね、
として、首都であるワシントンの焼き討ちを行いホワイトハウスを破壊しました。アメリカの民衆は衝撃を受け、ヨーロッパ大陸の指導者らはこれを非難しました。大統領府のある首都ワシントンD.C.が陥落したのはこの一度のみ。大統領官邸が『ホワイトハウス』と呼ばれている理由は、このときの焼け焦げを隠すために真っ白なペンキを塗ったことが理由です。戦争は痛み分けに終わり、アメリカはイギリスとの貿易が途絶えてしまいました。だが、それが逆に国内の生産力向上につながり、アメリカは経済的自立に影響しました。
その後アメリカは徐々に領土を拡大。『文明程度の劣った植民地に近代文明を伝えることが先進諸国の責務である』という先進国の考え方は、
アメリカ | 明白な天命(マニフェスト・デスティニー) |
フランス | 文明化の使命 |
イギリス | 白人の責務 |
として正当化され、彼らはアメリカ大陸の先住民やそこにあった文化を塗り替えていってしまいました。
『アメリカ合衆国領土拡大』
上記の記事の続きだ。こうして『アメリカ合衆国』はイギリスから独立し、新たなスタートを切った。しかしすぐに『米英戦争』が起こる。1812年6月から1815年2月までの期間にイギリス、その植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族と、アメリカ合衆国との間でおこなわれた戦争である。
その理由は、まず単純にアメリカが西部の開拓をしようとし、それに対し先住民のインディアンが自分たちの領地を守ろうとしたからである。また、当時のフランス皇帝ナポレオンが戦費獲得のため、フランス領だったルイジアナを売却したいと希望し、これを承諾したと冒頭の記事に書いたが、この『ナポレオン戦争』の影響でもあった。例えば、アメリカがナポレオン戦争で弱ったイギリスに攻め入って、領土を拡大しようとしたのである。
アンドリュー・ジャクソンはこの戦争に大きく貢献した。1814年3月、テネシー州民兵、チェロキー族戦士とアメリカ陸軍正規兵を率いて南部に向かい、クリーク族のメナワたちインディアン戦士団と戦った。そして以下の結果を作り上げ、相手を降伏に追い込んだ。
相手が800人失ったのに対し、こちらの死者は40名だった。更に、1815年1月8日の『ニューオーリンズの戦い』でもイギリス軍に奇襲をかけ、7500人以上を撲滅。この戦いでの勝利でジャクソンは全国的な名声を得ることとなった。
[アンドリュー・ジャクソン]
彼は残忍さも持ち合わせていた。この戦争が終わったあとすぐ、フロリダに住む『セミノール』と呼ばれる様々なインディアンの民族と1817年から『セミノール戦争』が始まるのだが、その戦争についての話として、Wikipediaにはこうある。
ジャクソンはここでも再びインディアンに対する大量虐殺の方針を採り、女子供を優先的に殺害。沼沢地において徹底的な焦土作戦を行った。ジャクソンの残忍冷酷ぶりはセミノール族を震え上がらせ、彼らはジャクソンを「シャープ・ナイフ」と呼んだ。ジャクソンに反抗する黒人逃亡奴隷はセミノール族の領土へ逃げ込み、米軍に対しセミノール族と共闘した。第一・二次の「セミノール戦争」で、黒人たちとインディアンの混血が増え、彼らはブラック・セミノールと呼ばれるようになった。
[セミノールを探すアメリカ軍]
その後アメリカは、スペインからフロリダの地を買収。領土の拡大とアメリカに貢献した彼は1829年から第7代アメリカ合衆国大統領となった。しかし彼にあったのはこうした残忍さだけじゃなく、一般市民の立場を尊重する『草の根民主主義』であり、これがアメリカ国民から大きな支持を得た。そしてこの考え方が、現在の個人主義のアメリカ的民主主義に影響を与えているのである。
よく、『敵には容赦なく、味方には寛大に』の代名詞として『チンギス=ハン』の名が挙がることがあるが、こうして世界史を見てみると、彼以外にも同じような性質を持った統治者がたくさんいることがわかる。やはり人の上に立ち、統治して人を新たな方向へ導くためには、ブッダ(釈迦)やキリストのような寛大さだけでは物足りないのかもしれない。それは、相手をするのが『人間』だからだ。人間は往々にして、そう賢くはない。
マキャベリはこう言った。
マキャベリだけではない。韓非子、ナポレオンといった人物も似た発想をしている。
つまり、国の統治とか人の支配というものを考えるときは、聖人が見る人間とは違う人間の実態について、熟知していないといけないのである。
[フォートマクヘンリーに海上からロケットを打ち込むイギリス艦: 1814年]
さて、話を米英戦争に戻そう。海軍に輸送されたイギリス陸軍は敵首都の直接攻略のためアメリカ東海岸に上陸し、1814年8月にはメリーランド州において『ブラーデンスバーグの戦い』に勝利した。その後イギリスは、
として、首都であるワシントンの焼き討ちを行いホワイトハウスを破壊した。アメリカの民衆は衝撃を受け、ヨーロッパ大陸の指導者らはこれを非難した。大統領府のある首都ワシントンD.C.が陥落したのはこの一度のみである。
[首都ワシントンの焼き討ち]
実は、大統領官邸が『ホワイトハウス』と呼ばれている理由は、このときの焼け焦げを隠すために真っ白なペンキを塗ったことが理由なのである。戦争は痛み分けに終わり、アメリカはイギリスとの貿易が途絶えてしまった。だが、それが逆に国内の生産力向上につながり、経済的自立に影響した。
第5代アメリカ合衆国大統領のジェームズ・モンローは1823年、『モンロー教書』を特筆。アメリカがヨーロッパの問題にかかわらないことを約束し、その代わりヨーロッパもアメリカに関わらないようにしてほしいと主張。アメリカ合衆国がヨーロッパでの戦争、およびヨーロッパ列強と植民地間の戦争について中立を保つ意思があるが、新しく植民地を作ることあるいはアメリカ大陸の独立国家に干渉することはアメリカ合衆国に対する敵対行為であると考える事も声明した。
こうした布石を経て、アメリカは徐々に領土を拡大。例えば、メキシコに国境を無視してメキシコ領のテキサスに入植し、1845年、アメリカへの併合を宣言する。それによって『アメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争)(1846年4月25日 – 1848年2月2日)』が起きるが、アメリカはメキシコに勝ち、カリフォルニアを獲得。カリフォルニアには金鉱があったため、アメリカは確実に国力を上げていった。
こうしてアメリカは西へ西へと積極的に領土を拡大し、アメリカではこの西への膨張政策を『明白な天命』とさえ呼んでいた。
「文明程度の劣った植民地に近代文明を伝えることが先進諸国の責務である」といった思想の元に現地住民への一方的な支配や文化の押しつけ、現地資源の開発などが正当化された。この思想はイギリスでは「白人の責務」、フランスでは「文明化の使命」、アメリカでは「マニフェスト・デスティニー」(明白な天命)などと呼ばれていた。
このようなことを考えると、下記の記事に書いたスペインのピサロ、コルテスにおけるインカ、アステカの支配時にあった傲慢や、ペリーが来日したときに取った横柄で無礼な態度にもつじつまが合う。
しかし、今までの歴史で見てきたように、世界の覇権を獲ろうと思ったら、こういうある種の思い上がりがその手綱を持つリーダーに欠かせないことがわかる。もっとも、最後にはそれが仇となって滅亡するのが相場なのだが。
[米国の領土拡張の推移。18世紀以後、各領土は州として承認された。]
オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこの時代までのアメリカ史をまとめた人気動画があります。
次の記事
該当する年表
SNS
参考文献