いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.アメリカの南北分裂の危機を救った人です。
2.北部では奴隷解放の考えが強く、南部では奴隷を維持する考えが強く、考え方が対立して衝突しました。
3.最初は南部が優勢でしたが、リンカーンの『奴隷解放宣言』で流れが変わり、最後には北部が決定的な勝利を収めました。
北部と南部では経済体制から支持する政党まで違いがありました。
こうした土地的な環境の違いも理由でした。南部では作物がよく育ったので、それを中心とした仕事が多くあり、人手が足りず、奴隷が欲しかったのです。しかし北部は違うので、南北で違う考え方になりました。北部では、19世紀初めから奴隷解放運動が始まっていました。しかし、南部の人には安価な労働力である奴隷が欠かせなかったのです。
アメリカが南北に分裂し、北部のリンカーン大統領に対抗して、南部がジェファソン・デヴィスを大統領にし『アメリカ連合国』を作りました。アメリカが2国に分裂してしまったのです。そしてアメリカ南北戦争が勃発してしまったのです。
最初は南部が優勢でしたが、リンカーンが1863年1月に『奴隷解放宣言』を出すと雲行きが変わります。南部の支配下にある奴隷たちが自由を求めて北部軍に合流し、諸外国が北部の正当性を認めて干渉を控えたのです。徐々に戦況が北部優勢となり、『ゲティスバーグの戦い』で北部が決定的な勝利を収めました。この戦争は、アメリカ合衆国軍とアメリカ連合国が双方総力を結集し、南北戦争史上最大の激戦となり、戦いでは4万6千人の人々が亡くなりました。リンカーンはこの地で戦死者追悼の為に、演説を行いこう言いました。
彼のこのゲティスバーグの演説は、世界的に有名な名言となりました。
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『南北戦争』『奴隷解放宣言』
上記の記事の続きだ。こうしてアメリカは西へ西へと積極的に領土を拡大し、確実にその国力を上げていった。スペイン・ポルトガルのコンキスタドール(征服者)が支配したのは南アメリカ大陸で、北アメリカ大陸については、イギリスとフランスが中心となって進出した。
アメリカ大陸への進出
北アメリカ大陸 | フランス、イギリス |
南アメリカ大陸 | スペイン、ポルトガル |
そしてその後、北アメリカでイギリスがフランスを上回って領土を拡大し、そのイギリスから『アメリカ合衆国』が独立し、今度はアメリカが領土を拡大していった。しかし、そのアメリカにも『北と南』がある。
上にあるカナダ寄りが『北部』、南にあるメキシコ寄りが『南部』だ。アメリカの首都ワシントンが、右のヴァージニア州にある。ホワイトハウスがあるのもこの場所である。そのあたりから上が『北部』で、下が『南部』だ。実は、このアメリカは北部と南部で主義主張が異なってしまっていた。
北部の経済は、産業資本家による商工業が中心で、
という体制があり、南部の経済は、大農園主によるプランテーションが中心で、
という体制があった。こうして見るだけでも、南北で支持する政党から何から、全く考え方が違うことがわかるわけだ。これには環境的な問題も関係しているかもしれない。南部では作物が育つので、その収穫の為に人手が必要で、奴隷が欲しかった。だが北部には南部で育つような作物が育たないため、商工業に目を向けるしかなかった。
これをどう捉えるかだ。例えば、親が農業をやっていたとする。そして、それは少し手を加えれば何とか形になって、継承も維持も可能になることがわかっている。だが、そのためにはそれを受け継ぐ人間が色々と『相続』しなければならない。遺産というのは往々にして相続するものだが、時には『相続放棄』した方がいいときもある。『負債』である。
親が遺した遺産が資産ではなく『負債』だった場合、それは相続放棄をして、リセットすることができる。人生は、時にそうして代々受け継がれているものをリセットすることが必要なときもある。
一方、親から何も受け継がない人がいる。祖の場合、少し手を加えただけではだめで、ゼロからやらなければならない。無から有を創造する必要がある。その代わり、もしそれができたら『一代で築き上げた者』の称号を得て、大きな有利性を得る。このあたりの事情を考えたとき、このアメリカにおける南北の環境の差異というものは、人々にどう影響を与えただろうか。
例えばだが、もしこのような考え方が南北の人の頭に浮かび、その延長線上で南北の人々の思想の差異に影響を及ぼしているとしたら、ここに関連するのは以下の黄金律だ。つまり、『有る、無いで人の幸福が決まるのではない』ということだ。
『宋』の時代の中国で考えてみよう。中国というのは、南の方がもともと生産力が強かった。南宋は金に北を取られるが、南は抑えたわけだ。これによって、かつて南北朝時代の南朝に、優雅な貴族文化が栄えたように、南宋は余裕のあるライフスタイルを送ることができ、150年は王朝を維持することができたのだ。
北め!南の力を知らないな?
ということなのである。
つまり、かつての南宋は『南の生産力』を賢く使って豊かに生き抜いた。だが、このときの南部アメリカは『南の生産力』を賢く使うことができなかったようだ。いや、本人たちは奴隷を使って賢く使っていたつもりかもしれないが、やはり真理の面から見たらそれは、逸れた行為だった。
北部では、19世紀初めから奴隷解放運動が始まっていた。しかし、そうして経済を奴隷労働に依存していた南部の人々には、それが受け入れられなかったのである。彼らからすれば、たばこや綿花といった『資産』を作り上げるために、安価な労働力である奴隷が欠かせなかったのだ。
[エイブラハム・リンカーン]
アメリカの西部開拓が進むと、その新しい州でも奴隷制について常に争った。そんな中、1860年に北部の中から共和党が成立。1860年11月6日、リンカーンは民主党候補のスティーブン・ダグラス、南部民主党候補のジョン・ブレッキンリッジおよび新党の立憲連合党候補のジョン・ベルを破って第16代アメリカ合衆国大統領となった。共和党からの初めての大統領だった。
[1860年大統領選挙の結果。北部と西部の赤色がリンカーンの獲得した州]
しかし、これを認めまいと南部はジェファソン・デヴィスを大統領にし『アメリカ連合国(1861年 – 1865年)』の建国を宣言して対抗。かくして、アメリカ南北戦争が勃発してしまった。
[アメリカ連合国 国旗]
最初は南部が優勢だったが、リンカーンが1863年1月に『奴隷解放宣言』を出すと雲行きが変わる。南部の支配下にある奴隷たちが自由を求めて北部軍に合流し、諸外国が北部の正当性を認めて干渉を控えたのだ。徐々に戦況が北部優勢となり、『ゲティスバーグの戦い(1863年7月1日 – 7月3日)』で北部が決定的な勝利を収めた。
この戦争は、アメリカ合衆国軍とアメリカ連合国が双方総力を結集し、南北戦争史上最大の激戦となった。そして戦いでは4万6千人の人々が亡くなった。リンカーンはこの地で戦死者追悼の為に、演説を行う。
彼のこのゲティスバーグの演説は、世界的に有名な名言となった。こうして奴隷解放宣言に基づき奴隷が解放され、この世界から『黒人差別』も『奴隷問題』もすべて解決した…
と言いたいところだが、現在進行形でこうした人種差別問題はアメリカに蔓延し続けている。
冒頭の記事に書いたアメリカの第7代大統領アンドリュー・ジャクソンは、一般市民の立場を尊重する『草の根民主主義』であり、これがアメリカ国民から大きな支持を得た。そしてこの考え方が、現在の個人主義のアメリカ的民主主義に影響を与えているわけだ。だが彼には残虐性もあり、先住民を迫害し、奴隷制度を固守して人種差別を徹底した。自身も多数の黒人奴隷を所有し、酷使した。
実はリンカーンも、
と明言している。彼の目的はあくまでも割れてしまった連邦の統一。奴隷制度には干渉しないと念を押した。しかし、苦戦が続いて、南部連合の承認を牽制するために『奴隷解放宣言』を出した。そうした事情があって、統一戦争は『正義の戦い』にすり替わったようである。アメリカにおける人種問題は、思っているよりも根深いのだ。
[”マシーンを働かせる”:リンカーン内閣を攻撃する1864年の政治風刺漫画、描かれているのはウィリアム・フェッセンデン財務長官、エドウィン・スタントン陸軍長官、ウィリアム・スワード国務長官、ギデオン・ウェルズ海軍長官、リンカーンなど]
オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこの時代までのアメリカ史をまとめた人気動画があります。
だが、それでも彼がやったことはあまりにも大きかった。ゲティスバーグの戦いから2年後の1865年、リンカーンは暗殺されてしまう。実は彼の家庭内には大きな問題があった。長男のロバート以外の3人の子供が、結核や心不全等の不幸によって、成人する前に亡くなってしまったのだ。そして妻のメアリーは、そのために精神疾患に陥った。
そして彼は暗殺された。彼は多少神格化されていて、奴隷解放に対してそこまで興味を持っていなかったかもしれない。だが、結果的に彼が背負ったものはあまりにも大きかった。そして彼は『偉大な解放者 』『奴隷解放の父』と言われ、アメリカ大統領史上最も愛された男として、歴史に名を刻み続けるだろう。
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