カナダが『アメリカ独立運動』に参加しなかった理由は?わかりやすく簡潔に教えて!
独立するほどイギリスに反感を持っていなかったからです。
現在のカナダにあるケベックは『ケベック植民地』として存在していました。
フランスとイギリスが領地を競い、イギリスが勝ってイギリス領となりました。イギリスは、フランス系の住民の統治をするために、1775年に『ケベック法』を制定し、カトリックの信仰などのフランス系住民の習慣を尊重しました。このケベック法はカナダ人の忠誠をイギリスに保障するために大きな役割を果たしたのですが、『アメリカ合衆国』を作ったような人たちからすれば、それはイギリスから独立するだけの屈辱的な法律でした。
そもそもここに来たイングランド系アメリカ人は、『カトリックに反発』してアメリカ大陸で生きていこうとしたのです。しかし、ここにそのケベック法が導入されると、自分たちの居場所がなくなります。そうやってイングランド系アメリカ人は追い込まれ、そしてその怒りが沸点を迎えたとき、『アメリカ独立戦争』が始まったのです。
しかし、この戦争にはカナダ人は参加しませんでした。カナダはアメリカとして独立せず、イギリスの植民地にとどまったのです。彼らはイングランド系アメリカ人と違って、フランス系の住民。彼らとは違ってカトリックですから、ケベック法に文句はなかったのです。こうして考え方が違った人々が、『アメリカ合衆国』と『カナダ』という国に分かれていきました。
アメリカ合衆国 | イギリス系住民、プロテスタントが多い | プロテスタント48%、カトリック23% |
カナダ | フランス系住民、カトリックが多い | カトリック43.2%、プロテスタント29.2% |
Contents|目次
『カナダ独立』
上記の記事の続きだ。こうしてアメリカは西へ西へと積極的に領土を拡大し、確実にその国力を上げていった。スペイン・ポルトガルのコンキスタドール(征服者)が支配したのは南アメリカ大陸で、北アメリカ大陸については、イギリスとフランスが中心となって進出した。
アメリカ大陸への進出
北アメリカ大陸 | フランス、イギリス |
南アメリカ大陸 | スペイン、ポルトガル |
そしてその後、北アメリカでイギリスがフランスを上回って領土を拡大し、そのイギリスから『アメリカ合衆国』が独立し、今度はアメリカが領土を拡大していった。そしてアメリカの『北と南』で考え方が違い、奴隷をめぐって『南北戦争』があり、リンカーン等を筆頭にその問題を解決したわけだ。
では、アメリカ大陸のそのほかの地域はどうなっただろうか。上の『カナダ』、
下の『ラテンアメリカ』、『中南米』だ。
アングロアメリカに対する概念で、アメリカ大陸の北半球中緯度から南半球にかけて存在する独立国及び非独立地域を指す総。
アメリカ州のうち、イギリスあるいはイングランドと歴史的・民族的・文化的・言語的なつながりが深い地域。大まかに言えば、アメリカ合衆国とカナダからなる。
ラテンアメリカは北アメリカ大陸のメキシコをふくみ、南米大陸の、
をふくまないので、厳密には『中南米』とは違う。だがとにかく、アメリカ大陸の上と下だ。ここがどうなっていったかを見てみよう。
まずカナダだが、ここは17世紀の初めにフランスによって植民地化された(ケベック植民地)。しかし、英仏植民地戦争の結果イギリスが勝ち、1763年のパリ条約でカナダはイギリス領となった。
[1763年のパリ条約後の北アメリカ。ピンクがイギリス領、黄色が、1762年のフォンテーヌブロー条約後にスペインが手に入れた領土である。]
冒頭にもあるように、北アメリカではイギリスがフランスを上回って領土を拡大することに成功していたわけだ。取り急ぎイギリスは、フランス系の住民の統治をするために、1775年に『ケベック法』を制定し、カトリックの信仰などの、フランス系住民の習慣を尊重した。
ケベック法の主な構成要素
このケベック法はカナダ人の忠誠をイギリスに保障するために大きな役割を果たした。しかし、これらの問題がイギリス人植民者の住む『13植民地』に不満を残した。そしてこれが『耐え難き諸法』の一つと位置づけられ、アメリカ独立革命に発展したのである。
耐え難き諸法
先ほどの記事に、
イギリスの積極的な『オフェンス』のツケは溜まっていて、その穴埋めのためのカバーが大変だった。経済的負担は植民地にも染み渡り、彼らの課税を強化し、植民地の人々は更に首を絞められる事態となってしまっていた。そして、それが仇となり、ついに植民地人が宗主国イギリスへの不満を爆発させたのである。
と書いたが、課税の他にもイギリスは、この大陸に住むアメリカ人に様々な要求を強いていたのだ。そして例えば、1774年4月22日、イギリス首相フレデリック・ノースは庶民院で次のように言った。
アメリカの者たちは、諸君の臣民にタールを塗り羽根を付け、諸君の商人を襲い、諸君の船を燃やし、諸君の法と権威に従うことを一切拒否している。温和たれ、寛容たれというのがこれまでの我らの指針であったが、いまや異なる道を選ぶべきときがきた。その結果がどうあろうとも、我々は何がしかのリスクを冒さねばならない。さもなくば、すべてが終わる。
イギリス人とアメリカ人の軋轢は激しさを増していたのだ。
つまり、多くの植民地人が耐え難き諸法を、憲法に保障される権利、自分たちの自然権および植民地の認可について侵犯するものと考えたのだ。それゆえにこれら諸法をマサチューセッツだけでなくイギリス領アメリカすべての自由に対する脅威と捉えた。例えばバージニア植民地のリチャード・ヘンリー・リーはこの諸法を『アメリカの自由を破壊する最も呪われた仕組み』と表現した。
ケベック法はイギリス植民地の様々な集団の利益に反していた。多くの者はケベックでカトリックが優勢になることを恐れ、フランス系カナダ人はイングランド系アメリカ人を圧迫するよう求められるのを恐れた。
先ほどの記事で、イギリス人がこのアメリカ大陸にやってきて、アメリカ人となった理由をもう一度見てみよう。
カルバンによって追い込まれたピューリタン、つまり『普通の心を持った清教徒(プロテスタント。カトリックではない者)』は、居場所がなくなり、アメリカに新天地を求めた。そして北アメリカ大陸に移入したということなのである。
つまり、ここに来たイングランド系アメリカ人は、『カトリックに反発』してアメリカ大陸で生きていこうとした。しかし、ここにそのケベック法が導入されると、自分たちの居場所がなくなる。そうやってイングランド系アメリカ人は追い込まれ、そしてその怒りが沸点を迎えたとき、『アメリカ独立戦争(1775年4月19日から1783年9月3日)』が始まったのである。
だが、この戦争にはカナダ人は参加しなかった。カナダはアメリカとして独立せず、イギリスの植民地にとどまったのだ。独立には反対する人ももちろんいるわけだから、そういう人がカナダの地に大勢移住した。そもそもこのケベック法は、カトリックの信仰などの、フランス系住民の習慣を尊重した法律である。つまり、フランス系の住民はアメリカ人(カトリックではない者)とは意見が違うのだ。したがって、カナダはフランス系住民とイギリス系住民が共存する社会になった。
その後19世紀に入ってイギリスは世界の覇権を握っていた。この時のイギリスは『大英帝国の黄金期を作った女王』ヴィクトリア女王の時代だ。イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王(在位:1837年6月20日 – 1901年1月22日)(※ヴィクトリア朝とも言われる)、初代インド皇帝(女帝)(在位:1877年1月1日 – 1901年1月22日)。先ほどディズレーリがインド帝国を樹立したとあったが、彼女はインドの初代皇帝でもある。
[ヴィクトリア女王 1887年]
エリザベス女王が『世界一有名な女王』なら、ヴィクトリア女王は『大英帝国の黄金期を作った女王』だ。
この時代のイギリスは、
といったそれまでヨーロッパで覇権を握っていた強国を倒し、それらが持っていた植民地を格闘し、膨大な利益を得ていた。しかし、自分達の支配する領土が増えると、それだけ問題も増えるわけだ。必要経費も増える。したがって、植民地の経営にかかる費用を抑えるため、白人の多い植民地では現地の求めに応じて『自治領』を発足させた。
あくまでも当該国の主権の下に属しながらも、通常の地方自治よりも遥かに高度な自治を行っている特定の領域。この場合、宗主国のイギリスではなく、植民地となる地域が自分たちでそのエリアを治めること。
そして1867年に、カナダがイギリス植民地で初の自治領となるのだ。
イギリスの植民地政策
直轄地 | アイルランド、インド帝国 |
五代自治植民地 | カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ニューファンドランド、南アフリカ連邦 |
第一次世界大戦では、カナダはイギリスに協力。そして1931年、イギリスの自治領に主権を認めた『ウェストミンスター憲章』が制定され、カナダはオーストラリアなどとともに独立国となった。英国政府の干渉を全く受けない形でこの『五代自治植民地』が、内政や外交、軍事などを行うことができるようになったのだ。また、これにより正式にカナダ国籍やオーストラリア国籍などが認められることになる。
[カナダ連邦以降の州と準州の拡大を示した動画地図。]
オーストラリアやニュージーランド、またニューファンドランドはこの憲章を当初は認めなかった。また、ニューファンドランドは1949年にカナダに併合される
ちなみにカナダは前述したようにフランス系住民が多く、1960年代から彼らが独立運動を求めるようになり、過激なテロも発生する始末になっている。この対策のため、カナダは1969年に、
の2か国語を公用語に定める等、多文化共生の為に尽力している。もともと、アメリカ独立運動に参加せず、自分の道を行き、その先で『カナダ人』として生きてきた彼らだから、根幹にあるのはフランス(カトリック)系のプライドなのかもしれない。
[カナダにおける英語と仏語使用地域。黄色は英語、茶色は仏語、薄茶色が両言語使用地域、白色は人口希薄地域を表す。]
下記の動画は、私が個人的にやっているゲームをプロでやっているゲーマーの動画ですが、カナダに試合をしに行ったあとにタクシーを呼ぼうとしたらフランス語で返され、やむを得ず電車で帰ったという話をしています。
まさに今回のテーマにふさわしい日本人向けの話ですね。更に下記の動画では同じチームのメンバーが『ケベック州』を撮影しています。ほとんどがフランス語ですね。
1965年から使用されているカナダ国旗。カエデはカナダの代表木で、背景の白が雪。左側の赤が太平洋で、右側の赤が大西洋を示している。
アメリカ合衆国 | イギリス系住民、プロテスタントが多い | プロテスタント48%、カトリック23% |
カナダ | フランス系住民、カトリックが多い | カトリック43.2%、プロテスタント29.2% |
次の記事
該当する年表
SNS
参考文献