中南米の人はどういう経緯で独立したの?わかりやすく簡潔に教えて!
本国生まれの白人と、植民地生まれの白人が対立し、アメリカ・フランスの革命が重なり、後者が奮起した形です。
宗主国生まれの白人(ペニンスラール)と、植民地生まれの白人(クリオーリョ)との対立が生まれました。
ペニンスラールはプライドがあるのか、
と主張する人も多く、更には本国政府までも、ペニンスラール優遇策を取ったりしてしまいます。しかしそうなるとやはりクリオーリョも黙ってはいません。
そしてクリオーリョたちはペニンスラール及び本国政府への反感を持ちます。ちょうどその頃世界ではこういうことが起きていました。
この世界レベルの2つの大事件かつ大革命は、クリオーニョたちを奮起させるには十分な材料となりました。そしてサン・マルティン、シモン・ボリバルといった人物たちを筆頭に、中南米の人々は次々に独立していきました。
『中南米(ラテンアメリカ)の独立』
上記の記事の続きだ。『カナダ』について見た。では次は下の『ラテンアメリカ』、『中南米』だ。
アングロアメリカに対する概念で、アメリカ大陸の北半球中緯度から南半球にかけて存在する独立国及び非独立地域を指す総。
アメリカ州のうち、イギリスあるいはイングランドと歴史的・民族的・文化的・言語的なつながりが深い地域。大まかに言えば、アメリカ合衆国とカナダからなる。
ラテンアメリカは北アメリカ大陸のメキシコをふくみ、南米大陸の、
をふくまないので、厳密には『中南米』とは違う。だから『中南米』と言った方が南アメリカ大陸全体を含めるから、そうした方がいいだろう。また、『中』というのはまさに『真ん中』だ。『中米(中央アメリカ)』。アメリカ大陸の、北と南をつなぐ部分の陸にある国だ。
中央アメリカ7ヵ国
更に厳密に言うと、メキシコの南部諸州も中央アメリカへ含まれ、パナマの南部は中央アメリカに含まれない。
である。
中南米は植民地となっていた。そして宗主国は『スペイン、ポルトガル』だ。中央アメリカもそれらの国が支配していた。
アメリカ大陸への進出
北アメリカ大陸 | フランス、イギリス |
南アメリカ大陸(中央アメリカ含む) | スペイン、ポルトガル |
中南米は、これらの人種が入り乱れ、混血が進んでいた。しかし、やはり奴隷の血は軽く扱われ、白人が一番尊重された。この上記のとおりのピラミッドとなったのだ。しかし、徐々にこうした『肌の色』や『血統』で身分が区別される社会のありかたは次第に効力を失っていく。そして、17世紀になって宗主国生まれの白人(ペニンスラール)と、クリオーリョと呼ばれる植民地生まれの白人との対立が生まれる。
宗主国生まれの白人。スペインで生まれた人々。
スペイン領植民地においてスペイン人を親として現地で生まれた人々。
ポルトガル語の同じ意味だが、この場合は現地生まれの黒人の意味合いで用いられることのほうが多い。
その後、18世紀が進むに連れて社会経済的要因によって階層区分が生じる社会へと移行していった。つまり、
そのどちらであっても、資産の有無や、有力者との縁戚関係がある人々は社会的に上位に位置することができるようになった。そしてその一方で、それらが『無い』人は、社会的には中位・下位に位置するような社会になっていった。そしてそのうち、クリオーリョとペニンスラールを別個の集団と考えることも、同一の集団として一括りにすることも、18世紀になると簡単にはできなくなっていた。
しかしどうしてもペニンスラールはプライドがあるのか、
と主張する人も多く、更には本国政府までも、ペニンスラール優遇策を取ったりしてしまう。そうなるとやはりクリオーリョも黙ってはいない。
そしてクリオーリョたちはペニンスラール及び本国政府への反感を持った。ちょうどその頃世界ではこういうことが起きていた。
である。この世界レベルの2つの大事件かつ大革命は、クリオーニョたちを奮起させるには十分な材料となった。
そして、
といったクリオーニョが奮起し、ラテンアメリカの独立を果たした。イダルゴに関してはメキシコであり、ラテンアメリカではないが、時期的には同じだ。すべて1800年~1825年の25年以内に独立が行われている。
[ホセ・フランシスコ・デ・サン・マルティン・イ・マトーラス]
ラテンアメリカと中央アメリカの独立
サン・マルティン | クリオーニョ | アルゼンチン、チリ、ペルー |
シモン・ボリバル | クリオーニョ | 大コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア |
ミゲル・イダルゴ | クリオーニョ | メキシコ |
ベルナルド・オイギンス | クリオーニョ | チリ |
ドン・ペドロ1世 | ペニンスラール | ブラジル帝国 |
トゥーサン・ルーヴェルチュール | アフリカ系 | ハイチ |
したがって、『解放者』という異名を持つ偉人は、シモン・ボリバルやサン・マルティン等、複数人いるのである。
[シモン・ボリバル]
しかし、その後各国は大きく栄えることはなく、むしろ経済的には欧米に依存していた。その環境を生かしてコーヒーなどを輸出し、やり繰りする状況が続く。またその頃、アメリカは西へ西へと積極的に領土を拡大し、アメリカではこの西への膨張政策を『明白な天命』とさえ呼んでいた。
「文明程度の劣った植民地に近代文明を伝えることが先進諸国の責務である」といった思想の元に現地住民への一方的な支配や文化の押しつけ、現地資源の開発などが正当化された。この思想はイギリスでは「白人の責務」、フランスでは「文明化の使命」、アメリカでは「マニフェスト・デスティニー」(明白な天命)などと呼ばれていた。
そうした勢いの延長線上で、アメリカが今度は『中南米』にも進出していたのだ。さすがに独立したばかりのこれらの地域を併合することはできなかったが、アメリカはパナマをコロンビアから分離させ、『パナマ運河』を建設するなど、力づくの干渉があった。
またアメリカは、冷戦期に中南米の共産化を恐れ、抑圧的な軍事政権を支援した。
『ベトナム戦争(1955年11月 – 1975年4月30日)』は、アメリカとソ連の『冷戦』の間接的な戦場だった。アメリカは『自由主義』、ソ連は『社会主義国』を拡大させたくてお互いが対立していたが、直接的に戦いあうわけじゃなかったので、それは『冷戦』と呼ばれていた。その後、米ソは1960年代平和共存外交を展開するが、他の地域で代理戦争を起こす。その影響を強く受けたのが、東南アジアだったのだ。
ソ連は『1948~1979年』の約30年間の間に行われた戦争、『中東戦争』でアラブ側の支援を行っていた。アメリカ・イギリス・フランスがイスラエルに、ソ連がアラブ側に対し支援や武器を供給していたことから、この中東戦争は代理戦争の側面も含むと言われていたのだ。
また、『朝鮮半島』は第二次世界大戦の後、北緯38度線を境に、米ソによる分割を受ける。北はソ連、南はアメリカによって支配された。そして東西冷戦が進行する中、南北に分断されて、この2つの国が生まれたわけだ。『北朝鮮』と『韓国』である。
そして1979年にソ連がアフガニスタンを侵攻する。そしてやはりその背景にいたのは『アメリカ』だったのだ。この戦争も、結局は『米ソの代理戦争』になっていたのである。
チェ・ゲバラやカストロが巻き起こした『キューバ革命(1953年7月26日 – 1959年1月1日)』でキューバは、アメリカの従属国の立場だった。だが、この革命によってキューバはソ連側に寝返ったのだ。米ソには一触即発の空気が流れた。一歩間違えれば『全面核戦争』に陥る。これが『キューバ危機』である。
このように、アメリカからすると共産主義陣営、つまりソ連側が優勢になるとまずい。そのような背景の中、アメリカはここ中南米の共産化も恐れていた。そして抑圧的な軍事政権を支援したのだ。
アメリカは今後どこまで南アメリカ大陸に干渉していくことになるだろうか。しかし、中南米に生きる人々の歴史には、スペインから独立して自由を勝ち取った誇りがある。
彼らの血に脈々と受け継がれる『アメリカとは違うプライド』が、アメリカ独立運動に逆らってできたカナダのように、彼らの命を繋いでいくのだ。
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