アメリカは独立した後、どのような手順で国力を飛躍的に拡大させていったの?わかりやすく簡潔に教えて!
ヨーロッパから孤立したことが功を奏して領土拡大を続け、『アメリカ・スペイン戦争』でとどめをさした形です。
第5代アメリカ合衆国大統領のジェームズ・モンローは1823年『モンロー教書』を特筆。
アメリカがヨーロッパの問題にかかわらないことを約束し、その代わりヨーロッパもアメリカに関わらないようにしてほしいと主張しました。アメリカ合衆国がヨーロッパでの戦争、およびヨーロッパ列強と植民地間の戦争について中立を保つ意思があるが、新しく植民地を作ることあるいはアメリカ大陸の独立国家に干渉することはアメリカ合衆国に対する敵対行為であると考える事も声明します。こうしてまず『孤立』し、支援しないでいいという状況と同時に『介入もさせない』という状況を作り、アメリカ大陸での領土拡大を確実に進めていきます。
更に、『アメリカ・スペイン戦争(1898年4月25日 – 8月12日)』に勝利し、カリブ海および太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権をアメリカが獲得。ここから『アメリカ大陸での覇権』はスペインからアメリカに移ったと言えるでしょう。アメリカは商工業を発展させて力をつけ、この戦争でかつての強国スペインを打ち破り、帝国主義の道へと目を向けるようになったのです。
『アメリカ合衆国の飛躍』
上記の記事の続きだ。中南米が次々と独立を果たすも、経済的に弱かった中南米に対し、勢いがあったアメリカが干渉。
さすがに独立したばかりのこれらの地域を併合することはできなかったが、アメリカはパナマをコロンビアから分離させ、『パナマ運河』を建設するなど、力づくの干渉があった。
パナマというのは、1501年にスペインの探検家ロドリーゴ・デ・バスティーダス「発見」し、カリブ海側ダリエン湾のポルト・ベーロに上陸した。翌1502年には、コロンブスがモスキートス湾沿岸を探検している。これ以降、自らがインドに到達したと誤解し、パナマに住んでいた人々はインディオ(インド人)と呼ばれるようになった。
その後1531年にはスペインの軍人ピサロがインカ帝国の内乱状態に乗じて乗り込み、1533年にはインカを滅ぼし、占領したわけだが、このインカ征服はパナマを拠点に行っていた。また、ペルー及び近隣植民地からスペイン本国への輸送ルートは、ほとんどがパナマを経由した。しばらくスペインの支配下にあったパナマは、1821年にスペインから独立。
大コロンビアが解体された後1831年には、ヌエバ・グラナダ共和国が建国され、パナマはその時にヌエバ・グラナダ共和国の一部として独立した。そして、1855年にパナマはヌエバ・グラナダから自治権を獲得。その後1866年に再びコロンビアによる直接支配が復活していた。
[パナマ運河の位置を示す衛星画像。密林は緑色で可視化されている。]
1901年にセオドア・ルーズベルトがアメリカ合衆国大統領に就任。アメリカは中米地峡に太平洋と大西洋をつなぐ運河の建設に臨んだ。アメリカ合衆国は、パナマの持つ経済的な可能性に目をつけていたのだ。そして同時に、ラテンアメリカ地域における軍事的重要性から分離・独立を画策した。その結果、1903年11月3日にパナマ地域はコロンビアから独立を果たした。
1999年12月31日に旧運河地帯に残るアメリカ管理地区が返還され、建国以来パナマに大きく関わってきたアメリカ軍は完全撤退した。
当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは言った。
米国は西半球に、ヨーロッパ諸国が介入するのを妨げる権利のみならず、砲艦外交をちらつかせる権利を持つということである。
[1913年、パナマ運河の閘門建設の様子]
第5代アメリカ合衆国大統領のジェームズ・モンローは1823年、『モンロー教書』を特筆。アメリカがヨーロッパの問題にかかわらないことを約束し、その代わりヨーロッパもアメリカに関わらないようにしてほしいと主張。アメリカ合衆国がヨーロッパでの戦争、およびヨーロッパ列強と植民地間の戦争について中立を保つ意思があるが、新しく植民地を作ることあるいはアメリカ大陸の独立国家に干渉することはアメリカ合衆国に対する敵対行為であると考える事も声明した。
以来アメリカは、徐々に領土を広げていって、ヨーロッパの介入を阻止し、国力を上げていき、彼の『棍棒外交』につながった。近隣諸国が自国の政府を維持出来ないならば米国が関与するという意味で、棍棒のフレーズは使われることとなった。
[トーマス・ナストが描いた1904年の風刺画。ルーズベルトが棍棒を持ってカリブ海を歩き回る。『ガリバー旅行記』に模している。]
また、南北戦争で勝利した北部は、西武の開拓で国内市場が拡大し、急速に工業が発達。19世紀末には北アメリカ大陸にはもうフロンティア(未開拓地)がなくなったので、アメリカは海外進出を試みていた。そして『アメリカ・スペイン戦争(1898年4月25日 – 8月12日)』が勃発。この時スペインは、自国傘下の海底ケーブルを持たなかったので通信面で不利に立たされ敗北。カリブ海および太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権をアメリカが獲得した。
[米比戦争時のニューヨークジャーナルの風刺画。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれている。]
アメリカはこの戦争によって、
といったスペイン植民地のほとんどすべてを獲得し、キューバを保護国として事実上の支配下に置いた。この戦争を機にアメリカの国力は飛躍的に拡大。逆にスペインは、かつてアメリカ大陸を制圧した時代から比べて、その影響力は激減。ここから『アメリカ大陸での覇権』はスペインからアメリカに移ったと言えるだろう。アメリカは商工業を発展させて力をつけ、この戦争でかつての強国スペインを打ち破り、帝国主義の道へと目を向けるようになったのだ。
工業原料の産地や製造品の輸出先、国内資本の投資先を求め、植民地獲得競争に躍起になること。
[セオドア・ルーズベルト率いるラフ・ライダーズ]
ここでもう一度『ヨーロッパの覇権』をまとめなおしてみよう。
ヨーロッパの覇権の推移
そしてこの後だ。規模もヨーロッパから『世界』へと変え、まとめ方は『世界で強い勢力を持った国』とする。
17世紀のイギリス以降世界で強い勢力を持った国
『世界の覇権』に関しては、この時はまだ『イギリス』にある。この後、『第一次世界大戦』が始まるが、その話はもう少し後になる。
『カリブ海』というのは、以下のマップで見た通りのエリアだ。中南米に位置し、北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の真ん中にある海。その周りには前述したパナマがあり、独立したばかりのハイチ、また、ジャマイカやキューバといった国々がこの海を囲うようにして存在している。
キューバではすでにホセ・マルティなどにより既に数十年に渡るゲリラ戦争が展開されていた。のちの1953年7月26日、カストロはバティスタの独裁政権に対してクーデターを起こすが失敗する。130人の同志たちが逮捕され処刑されていくなか、
と詰問されたカストロは、毅然とした態度でこう言ったのだ。
チェ・ゲバラとカストロを歴史的革命家に導いた人物こそ、歴史的革命家、ホセ・マルティその人である。
[ホセ・マルティ]
したがって、1868年から独立運動を続けてきたキューバ独立軍との関係からこの戦争を『スペイン・アメリカ・キューバ戦争(米西キューバ戦争)』と呼び、1946年にキューバ議会はこの名称をキューバにおけるこの戦争の正式名称としている。キューバにとっても重要な出来事だった。
1913年に就任した第28代アメリカ合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンは、カリブ海諸国に武力干渉を行う。『民衆を独裁者から解放する』という名目に基づいてはいたが、アメリカはキューバにその後もたびたび内政干渉を繰り返した。1903年2月23日にグアンタナモがアメリカの軍事基地となり、カリブ海は『アメリカ合衆国の裏庭』と化していた。そしてキューバはアメリカにとって、戦略的に重要な位置を占めていた。
アメリカとキューバは様々な都合上、ズブズブの関係だったが、チェ・ゲバラやカストロが巻き起こした『キューバ革命(1953年7月26日 – 1959年1月1日)』でアメリカの従属国の立場だったキューバがソ連側に寝返ったのだ。しかしこれはアメリカがキューバに何か理不尽なことを仕掛けたということではなく、共産主義の影響を受けた学生組織や左翼組織による反バティスタ運動が誕生したせいだった。
その後、
当の、反米意識がある国がキューバに支援し、カストロの跡を弟のラウル・カストロが引き継ぎ、様々な状況の変化が起こると、オバマ政権率いるアメリカもこれまでのキューバに対する強硬的な姿勢を急転換させる。両国は水面下で行われていた接触を公式なものに引き上げた。そして首相とオバマ大統領が国際会議の場で挨拶を交わすなど関係の修正をアピールした。さらに2015年に入りアメリカと国交を回復し、相互の大使館が同年7月に開設された。
議長就任後の2008年11月に行ったインタビューで、
と答えていたラウル・カストロは、アメリカとの関係改善に貢献したのである。
[1958年、ラウル(左)とゲバラ(右)]
さて、話を1913年のウッドロー・ウィルソンの時代に戻そう。彼のいる時代にそれは起こった。『第一次世界大戦』である。下記の記事に書いたのはこうだ。
しかしドイツは、イギリス・フランスに向かう中立国アメリカの輸送船も沈めてしまい、アメリカさえも敵に回してしまうことになり、ついにドイツ率いる『三国同盟』は敗北。ロシア、イギリス、フランスの『三国協商』側の勝利となった。『第一次世界大戦』はこうして4年間も続き、1918年にようやく幕を閉じることになった。
ここにあるように、この戦争においてアメリカは、中立を宣言し、双方に平和を呼びかけていた。
ドイツ側
三国同盟 | ドイツ、オーストリア、イタリア |
バルカン半島での同盟国 | ブルガリア、オスマン帝国 |
ロシア側
三国協商 | ロシア、イギリス、フランス |
バルカン半島での同盟国 | ルーマニア、セルビア、ギリシャ |
しかしドイツがそれを無視して暴走し、結果『三国協商』の勝利という形でこの戦争は幕を閉じた。そしてここから更にアメリカは力をつけていくことになる。それはアメリカが、フランス、イギリスといったこの時世界の覇権を握っていた強国に、多額のお金を貸していたからだ。この戦争でフランスとイギリスは、アメリカに借金を作ってしまったのである。
といった順序を踏まえ、アメリカは確実にこの世界の覇権を握りつつあった。
[ゴールドラッシュ初期にカリフォルニアに向かう船]
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