1923年、ヴァイマル共和国(ドイツ)はなぜハイパーインフレを起こしたの?わかりやすく簡潔に教えて!
経済的に窮地に追い込まれ、大量の紙幣を印刷したのが原因です。
ドイツは『ヴェルサイユ条約』で国土の1割以上を失い、巨額の賠償金を科せられました。
理由は『第一次世界大戦』です。それをけしかけておいて、更に敗戦した。これは最も重い罪を課せられる形だったのです。特にフランスは『普仏戦争』でナポレオン三世を侮辱されて以来、ドイツに対して強い怒りを覚えていました。フランスはドイツを追い込み、
と主張し続けます。そして、1923年に『ルール占領』が発生。フランスおよびベルギーが、ドイツが生産する石炭の73%、鉄鋼の83%を産出する経済の心臓部だったドイツのルール地方に進駐、占領したのです。このルール占領が原因でドイツ政府が、
として、大量の紙幣を印刷したのがハイパーインフレの原因だったのです。このインフレで、戦後10年間で物価が『1.2兆倍』になるというとんでもない事態へと発展してしまいました。そこでアメリカは1924年、『ドーズ案』というアイディアでこの問題に介入。しかしこれが後の『第二次世界大戦』の原因の一つとなってしまいます。
『ルール占領・ドーズ案』
上記の記事の続きだ。『第一次世界大戦(1914~1918年)』が終わり、ここから更にアメリカは力をつけていくことになる。
それはアメリカが、フランス、イギリスといったこの時世界の覇権を握っていた強国に、多額のお金を貸していたからだ。この戦争でフランスとイギリスは、アメリカに借金を作ってしまったのである。
といった順序を踏まえ、アメリカは確実にこの世界の覇権を握りつつあった。戦争というものは、お金を含めたとてつもないエネルギーを使う。一歩油断したら命がなくなり、負けたら今までの生活は水の泡となって、不平等条約を結ばれる。それを阻止するためにありとあらゆる手段を使うから、勝っても負けても、ダメージは大きいのである。
上記の記事にも書いたように、1919年、そうした戦後処理のために『パリ講和会議』が開かれた。その会議での基本原則は、アメリカのウッドロー・ウィルソンによる『十四カ条の平和原則』が持ち出される。
ウィルソンの14カ条
ドイツはこの連合国と結んだ『ヴェルサイユ条約』で、国土の1割以上を失い、巨額の賠償金を科せられた。
[ウィリアム・オルペン画『1919年6月28日、ベルサイユ宮殿、鏡の間での講和条約の調印』では、講和条約の調印を行うドイツ国のヨハネス・ベル運輸大臣が画面中央、椅子の背もたれを背に後ろ姿に一人だけ描かれ、その対面に調印に注目する戦勝国の首脳の群像が描かれている]
だが実はこれは、1917年11月8日にソ連が発布した『平和に関する布告』から影響を受けたものだった。その内容は、
に基づく即時講和を第一次世界大戦の全交戦国に提案したもの。ウッドロー・ウィルソンは、
『世界に貴重な原則を示した。』
と称賛していたのだ。
[平和に関する布告]
ウィルソンの理念は国際社会に支持され、パリ講和会議で国際連盟の設立が決められた。パリ講和会議の翌年、1920年2月20日、ウッドロー・ウィルソンは『国際連盟』として、国際平和維持機関を設けた。しかし国際連盟の出だしは不調で、そこまで世界に与える効力はなく、言い出しっぺのアメリカは、共和党が優勢だったという理由でこれに加盟せず、あまり意味がない集団となってしまった。
アメリカの二大政党の一つ。伝統的保守層とキリスト教主義勢力の集票に支えられた政党であり、外交面では、力による秩序と強力な同盟関係による安全保障策が基本。現在『国際連合』と名を変えた国連だが、現在においてもアメリカの国益を優先し、この国際連合に対しては不信感を持っている。
しかしこのパリ講和会議、先ほどの記事には書かなかったが、実際にはめちゃくちゃだったらしい。表面的には、
という重大な取り決めがあり、世界的にも大きな出来事となったが、実は、100年前に行われた 『ウィーン会議(1814~1815年)』同様、やっぱり『踊った』ようだ。ウィーン会議でも最低限の話はすぐに決まったが、領土の分配などの細かい話がまとまらず、各国は対立し、なかなか話が進まなかった。しかし、ウィーン名物夜の舞踏会だけは連日のように開かれたので、
『会議は踊る、されど進まず』
と風刺された。
[ウィーン会議の風刺画]
パリ講和会議の実際はこうだったようだ。
フランス | クレマンソー | イギリスにつかみかかろうとする |
イギリス | ロイド・ジョージ | フランスの拡大を認めない |
イタリア | オルランド | 帰る |
アメリカ | ウィルソン | 帰るそぶりをして牽制 |
日本 | 牧野伸顕 | 黙りとおす |
特にクレマンソーはドイツへの恨みを忘れられず、フランス代表として自国の権益保護を主張し、ドイツに過酷な要求を突きつけ、遺言にまで、
『ドイツをにらみ経ったままの姿勢で埋葬せよ。』
と書き、その通りに葬られたという。
[ジョルジュ・クレマンソー]
クレマンソー自体は1920年、大統領選挙に敗北して引退。1929年11月24日にパリで死去するが、ドイツに恨みを持っていたフランス人は彼だけではなかった。ドイツはその後『ヴァイマル共和国(1919年 – 1933年)』と名を変え、戦争の後処理でいっぱいいっぱいだった。しかしフランスはドイツを追い込み、
と主張し続ける。そして、1923年に『ルール占領』が発生。フランスおよびベルギーが、ドイツが生産する石炭の73%、鉄鋼の83%を産出する経済の心臓部だったドイツのルール地方に進駐、占領したのだ。
[エッセン市内を行進するフランス陸軍騎兵(1923年)]
下記の記事で、『極度のインフレが起こり、徐々に雲行きが怪しくなる』と書いたが、実はこのインフレは、このルール占領が原因でドイツ政府が、
として、大量の紙幣を印刷したのが原因だったのだ。このインフレで、戦後10年間で物価が『1.2兆倍』になるというとんでもない事態へと発展してしまった。
そこでアメリカは1924年、『ドーズ案』というアイディアでこの問題に介入。アメリカ合衆国の財政家チャールズ・ドーズを委員長とする特別委員会により策定された案で、戦場にもなっておらず、戦争にも直接参加したわけでもない、力をつけていたアメリカだけができる対策だった。
こうしてアメリカは上手に世界で渦巻くエネルギーに参入していき、そこで自国エネルギーを肥大化させていったのである。
アメリカ肥大化の要因
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