ハニワくん
先生
いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
- アメリカが世界恐慌から抜け出せた理由は?
- 『ハル・ノート』って何?
1.アメリカ経済が復興したと言えるのは『ニューディール政策』というよりは、戦争における武器の生産でした。
2.アメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官と日本とのやり取りで、これを通して日米の関係が悪化しました。
ハニワくん
博士
ニューディール政策の効果は現在でも疑問視されています。
しかし明白なのは第二次世界大戦でアメリカが武器生産体制を強化して大金を得たということ。専門家はこれによってアメリカが世界恐慌を抜け出したと見ています。アメリカは現在でもサウジアラビアなどに武器を売って大金を得ているので、武器で作り上げた大国と見られることもあります。
さて、アメリカはそうして国内の景気回復で手いっぱいで、戦争も反戦意識が強い人々の影響で、『第二次世界大戦』に深く介入しませんでした。そんな中、日本が中国を侵略し、石油禁輸などの強硬姿勢を取ったので、当時交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官は『ハル・ノート(合衆国及日本国間協定ノ基礎概略)』という交渉文書を送り、日本に牽制。そのやり取りの中でお互いの利害を主張し、意見が合わずに日本とアメリカの関係が悪化。
そして1941年12月に日本が真珠湾を攻撃し、アメリカが日本へ宣戦布告。こうしてアメリカの『第二次世界大戦(太平洋戦争)』への参戦が決まったのです。アメリカは第一次世界大戦から常にこうした世界規模の戦争には中立的な立場でしたが、今回に至っては日本を止めるために参戦する必要があると思ったのです。
博士
ハニワくん
先生
Contents|目次
世界恐慌の影響
『ハル・ノート』
『世界恐慌』はなぜ起きた?何もかもが順調だったはずのアメリカの経済に大打撃!世界中に甚大な影響を与える
上記の記事の続きだ。1929年10月24日(木)、『世界恐慌』が起き、それまで順風満帆だったアメリカに暗雲が立ち込めた。
ニューディール政策
『ニューディール政策(1933年)』がどれだけ有効だったかはさておき、フランクリン・ルーズヴェルト大統領を筆頭に何とかこの問題を解決しようとする。
ロンドン世界経済会議
同年、各国が協力してこの『世界恐慌』について『ロンドン世界経済会議』にて協議。会議では、北米が輸出する『銀』などについて話し合う。協定の結ばれた当時は世界の半分が銀本位制だったので、この問題などについて話し合うが、肝心の世界恐慌については、フランクリン・ルーズヴェルトが国内の景気対策を優先し、会議は各国の対立によって破綻。
『ウィーン会議(1814~1815年)』でも『パリ講和会議1919年』でもその実態は各国の対立があったが、今回の会議もまた対立によって終わった。国同士が仲が良ければ、戦争などは起こらなかった。もし彼らトップがもっとその和平に尽力してくれれば、この後に起こる『第二次世界大戦』も起きなかったかもしれない。この世界会議以上に、
- 宗教
- 言語
- 文化
- 価値観
の違いと多様性の正当性に首をかしげる瞬間はない。争いの火種となるものは、『真理』ではないからだ。
踊る要人と、憤る民衆。ナポレオンが引っ掻き回した世界の後始末『ウィーン会議』とその体制の崩壊
ヴァイマル共和国(ドイツ)はなぜハイパーインフレを起こしたのか?戦争で買ってしまったフランスの遺恨
『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』
ヨーロッパへの影響
アメリカで世界恐慌が起こると、アメリカ資本に頼っていたヨーロッパ諸国は、危機に陥った。だが、イギリスやフランスはダメージを軽減できた。ヴァイマル共和国(ドイツ)ほど、他に依存していなかったからだ。植民地と本国で『ブロック経済圏』をつくり、アメリカの悪い波が自国に与える影響を抑えたのだ。
ソ連はソ連で、いろいろと問題はあっても社会主義国家が出来上がっていて、恐慌になりにくい体制があった。では、ヴァイマル共和国はどうか。下記の記事に書いたように、ヴァイマル共和国とイタリアは、アメリカの世界恐慌の余波を直で食らってしまい、大ダメージを負ったのだ。
[ヴェルサイユ条約によるドイツの割譲地域]
アメリカの世界恐慌をきっかけにこの世界に再び危険因子が誕生!最恐・最凶の『日独伊三国同盟』
先ほどの『ハイパーインフレ』の記事にも書いたように、ヴァイマル共和国では、1923年に『ルール占領』があり、しかし1924年にアメリカが『ドーズ案』を出したことで九死に一生を得る。
ドーズ案
だがその5年後に『世界恐慌』だ。この時、イタリアとヴァイマル共和国の一部の人間が選んだ選択肢は、全体主義の『ファシズム』という考え方だった。そして、ムッソリーニ率いる『ファシスト党』。ヒトラー率いる『ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党、ナチ党)』が現れるのである。
[アドルフ・ヒトラー]
人の利益よりも全体の利益が優先し、全体に尽すことによってのみ個人の利益が増進するという前提に基づいた政治体制。一つのグループが絶対的な政治権力を全体、あるいは人民の名において独占するものをいう。
『結束』を語源としていて、権力で民衆をおさえ、他国に侵略主義をとる独裁的国家体制のこと。
1939年、第二次世界大戦が勃発。そのことについては下記の記事に書いたが、その時アメリカはどう動いいていただろうか。
人類はもう二度と世界大戦をしてはならない。『第二次世界大戦』の次は、もうあってはならない。
レンドリース法(武器貸与法)
アメリカは『レンドリース法(武器貸与法)』を制定し、1941年から1945年にかけて、
- イギリス
- ソ連
- 中華民国
- フランス
- その他連合国
に対して、膨大な量の軍需物資を供給した。ソ連とは友好的とは言えなかったが、そんなソ連にも援助をした。しかし、それには条件があった。例えばイギリスの場合、
- ニューファンドランド
- バミューダ諸島
- イギリス領西インド諸島
の基地を提供することと引き換え供給するわけだ。冒頭の記事に、
一番有力なアメリカの景気回復の決め手となる話は、1939年の『第二次世界大戦』で武器生産体制が強化されたからということだ。
と書いたが、アメリカ経済が復興したと言えるのは、『ニューディール政策』というよりは、この戦争における武器の生産だったという。武器と麻薬は倫理的な話を一切無視すればただただ儲かる。例えば、三菱グループの創始者岩崎彌太郎も、坂本龍馬も、武器商人のグラバーと一緒に武器を売買し、利益を得た。
[グラバー(右)と岩崎弥之助]
更には、以下の記事を見れば日本が高度経済成長できた本当の理由を見ることができるだろう。お金を得るということは、きれいごとではないのだ。本当にきれいにお金を稼いでいる人も存在するが、国家クラスの規模で利益を動かしている人間の中にも、汚れたことに手を付けた人は大勢いるのである。
高度経済成長を見せた中国が夢見る『一帯一路』とは何か?中国の野望と他国との軋轢
第二次世界大戦の日米関係
さて、アメリカはそうして国内の景気回復で手いっぱいで、戦争も反戦意識が強い人々の影響で、『第二次世界大戦』に深く介入しなかった。そんな中、日本が中国を侵略し、石油禁輸などの強硬姿勢を取る。
ハル・ノート(合衆国及日本国間協定ノ基礎概略)
そこで、当時交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官は『ハル・ノート(合衆国及日本国間協定ノ基礎概略)』という交渉文書を送り、日本に牽制。交渉は次のような内容で何度も行われる。
- 日本はシンガポールを含め、オランダ、英国、米国の領土を攻撃しない
- 日本は米国と開戦する意図はない
- 日米戦争は極東の共産化をもたらす
- 蒋介石が公正で正当な和平を受諾しないならば、大統領はアメリカの援助を打ち切ると告げるべきである
- ゴム、スズ、石油等で米国が南方諸国と貿易ができることを保証する
- 中国において米国の権益を侵しているような誤りがあれば日中戦争終結後賠償する
- 日本は三国同盟の義務を守る
- 日本は米国と戦争する義務を有していないが、米国がドイツに宣戦すれば事態は変わるかもしれない
-
アメリカ政府が提案するもの
- 太平洋から米海軍の大部分の撤収
- 日本と20年間の不可侵条約を締結
- 満州問題の最終解決を推進
- イギリス、フランス、日本、中国、アメリカの合同委員会の構成する政府のもとでインドシナの利益の擁護
- 中国におけるすべての治外法権の放棄
- 排日移民法の廃止を議会に要請
- 日本に最恵国待遇及び相互に満足の行く輸入上の譲歩を行う
- 20年間にわたり年利2%にて総額20億ドルの借款を提供
- ドルと円の為替レートの安定のために総額5億ドルを日米で折半の上拠出
- 在米日本資産凍結の解除
- 日本と隣国の潜在的な摩擦の原因を除去すべくアメリカは影響力を十分に発揮すること
-
日本政府が提案するもの
- すべての陸海空軍、警察力を中国(1931年の境界で)、インドシナ、タイから撤収
- 国民政府以外の中国におけるいかなる政府への支援を中止
- 中国で流通している軍票、円、傀儡の紙幣を、中国、日本、英、米の各財務省で合意したレートで円貨幣に交換する
- 中国におけるすべての治外法権の放棄
- 中国再建のために年利2%にて10億円の借款を提供
- ソ連が極東の前線から相応の残留部隊を除き、軍を撤収させるという条件で、警察力として必要な少数の師団を除き満州から日本軍を撤収させる
- 現在の戦争資材の生産量の4分の3を限度として米国に売却すること。価格は原価+20%を基準とする
- すべてのドイツ人技術者、軍職員、宣伝員を退去させる
- 日本帝国全域において米国と中国に最恵国待遇を与えること
そして1941年11月22日、『ハル・ノート』は成立。
-
11月22日暫定協定案
- 日米は太平洋に領土的野心を持たない
- 日本は南部仏印から即時撤兵し、北部仏印の兵力を1941年7月26日時点の兵力に制限する。その兵力は25,000人以下とする
- 米国は在米日本資産の凍結を撤廃する。日本は在日米国資産の凍結を撤廃する
- オランダ、イギリス政府に対しても同様の処置をとるよう説得する
- 米国は日中和平解決を目的とした当事者間の交渉を非友好的な態度をもってみない
- この協定は臨時的なもので、3ヶ月を越えて有効としない
[コーデル・ハル国務長官と最後の会談に臨む野村吉三郎大使と来栖三郎大使(1941年12月7日)]
真珠湾攻撃
更に詳しいことは『wikipedia(ハル・ノート)』にあるが、とにかくこのようなやり取りの末、日本とアメリカの関係が悪化。1941年12月に日本が真珠湾を攻撃し、アメリカが日本へ宣戦布告。こうしてアメリカの『第二次世界大戦(太平洋戦争)』への参戦が決まった。太平洋戦争は日本が優勢だったが、1942年のミッドウェー海戦で連合国が巻き返す。
1945年、ベルリンを包囲されたヒトラーは自殺し、翌年5月にドイツは無条件降伏。同年7月26日ににアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対して発された、全13か条から成る宣言『ポツダム宣言』、正式には日本への降伏要求の最終宣言が出され、他の枢軸国が降伏した後も交戦を続けていた日本は、1945年8月14日にこの宣言を受諾し、1945年9月2日に調印・即時発効(降伏文書)に至って第二次世界大戦(太平洋戦争)は終結した。
国際連合憲章を起草し、1945年にノーベル平和賞を受賞。『国際連合の父』と呼ばれる。
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