アメリカは日本を戦後に占領したのになぜ現在は『同盟国』となっているの?わかりやすく簡潔に教えて!
毛沢東(中華人民共和国)、金日成(朝鮮民主主義人民共和国)といった反米親ソ勢力を作ってしまったからです。
普通、敗戦国はズタボロになり、戦勝国に不平等条約を突き付けられます。
しかし、第二次世界大戦後のアメリカはソ連と『冷戦』ムードにあり、日本を味方につけようと考えるようになりました。ソ連は少しでも多くの味方を増やそうと自分たちと考えの合う共産主義国家を作ろうとしていて、アメリカにとってそれは脅威でした。
第二次世界大戦の後、『朝鮮半島』が北緯38度線を境に、米ソによる分割を受けます。北はソ連、南はアメリカによって支配され、南部で李承晩(いすんまん)を首班とする大韓民国(韓国)がアメリカの支援によって成立。しかしソ連のバックアップで、
といった反米親ソ勢力が作られてしまいます。そこでアメリカは、日本と『サンフランシスコ講和条約』、『日米安全保障条約』を締結し、日本を東アジアにおけるアメリカの有力な同盟国にしたのです。つまり、東アジアにおいては、
が反ソ親米勢力ということにしたかったのです。またこの頃、東南アジア等の植民地化された国々で独立運動が続き、世界中でそれに対する批判が巻き起こっていましたから、そういう流れも敗戦国である日本が現在のような対応を受けた理由の一つでしょう。いまだに日本には、アメリカ軍の基地が存在する『何とも言えない状態』となっています。
『サンフランシスコ講和条約』・『日米安全保障条約』
上記の記事の続きだ。上記はアメリカ側から、下記はヨーロッパ側から見た『第二次世界大戦後(1945年~)』の話である。第二次世界大戦を防げなかった国際連盟の反省を踏まえ、1945年10月24日、51ヵ国の加盟国で設立された。(下記が国際連盟の際の記事だ。)
主たる活動目的は、
そして国際秩序は、政治面では国際連合、経済面では『ブレトン・ウッズ体制』として実現した。
1944年に、アメリカのブレトン・ウッズで『ブレトン・ウッズ協定』会議が開かれ、基軸通貨化や国際通貨基金(IMF)の設立への合意が行われたのだ。『ブレトン・ウッズ体制』とは、『アメリカ合衆国ドルを基軸とした固定為替相場制』であり、1オンス35USドルと金兌換によってアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に保つことによって自由貿易を発展させ、世界経済を安定させる仕組みであった。
この体制は1971年のニクソンショックまで続き、戦後の西側諸国の経済の復興を支えた。
ブレトン・ウッズ体制
貿易の自由化を送信(GATT創設) | 1995年WTO(世界貿易機関)はGATTに代わる国連機関に昇格 |
世界の通貨秩序を維持、経済の復興(IMF創設) | アメリカを中心に解体論 |
ドルを世界通貨化し為替レートを固定 | 1997年、金・ドルの交換を停止し、変動通貨制へ |
その後、米ソは『冷戦』問題に発展。アメリカでは感情的な反共産主義運動の嵐が起き、左翼的とされた著名人や公務員が追放される『赤狩り』が行われた。例えば、アメリカ国連代表、婦人運動家、文筆家で、リベラル派(自由主義)として高名な当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの妻、エレノア・ルーズベルトは、左翼運動や共産主義運動に対して批判的であり、明確に一線を画していた。
1945年4月12日に夫が死去すると、エレノアは家族と共に静かな余生を送るつもりだったが、夫の後を受け継いだトルーマン大統領の要請で国際連合の第1回総会代表団の一員に指名される。上院の同意を得て正式に任命されたエレノアは、1946年にロンドンに赴任し総会に参加した。ロンドンの総会では人権委員会に参加し、委員長に選出される。人権委員会は世界人権宣言の起草に着手し1948年12月に国連総会で採択された。
[エレノア・ルーズベルトが1947年から1950年まで議長を務めた国連人権委員会は、1948年、世界人権宣言を完成させた。]
私は、17歳の頃に聞いた彼女のこの言葉を忘れることはないだろう。
日本との関係はどうなっただろうか。第二次世界大戦後、アメリカは日本を占領したのだ。そして、懲罰的な方針をとっていた。普通、戦争に負ければ不平等条約を結ばれるのが相場だ。例えば、1918年、『第一次世界大戦』の後、『ヴェルサイユ体制』でドイツは制裁を食らい、国連に加盟を許されなかった。
[ヴェルサイユ条約によるドイツの割譲地域]
また、フランスのクレマンソーはドイツへの恨みを忘れられず、フランス代表として自国の権益保護を主張し、ドイツに過酷な要求を突きつけ、遺言にまで、
『ドイツをにらみ経ったままの姿勢で埋葬せよ。』
と書き、その通りに葬られた。そして、1923年に『ルール占領』が発生。フランスおよびベルギーが、ドイツが生産する石炭の73%、鉄鋼の83%を産出する経済の心臓部だったドイツのルール地方に進駐、占領したのだ。
[エッセン市内を行進するフランス陸軍騎兵(1923年)]
日本も同じように『敗戦国』だ。このような懲罰的な対処をされるのは仕方がなかった。だが、アメリカはソ連と『冷戦』ムードにあり、日本を味方につけようと考えるようになった。
アメリカの支援を受けながら国民革命軍を招いた、孫文の跡を継いだ蒋介石は、『国民党』として毛沢東と戦うが、『共産党』の毛沢東はゲリラ戦を展開し、国民党を打ち払っていく。そして、1947年に『人民解放軍』と改称し、ソ連の援助を受けて戦い、1949年1月に北京、4月に南京を制圧。南京は、国民党の本拠地だった。そして10月1日に、『中華人民共和国』を建国したのである。
党名 | 創立者 | 当時の党首 | 支持国 |
中国国民党 | 孫文 | 蒋介石 | アメリカ・イギリス |
中国共産党 | 陳独秀 | 毛沢東 | ロシア |
中華人民共和国を成立させた毛沢東は、『中ソ友好同盟相互援助条約』を結び、冷戦構造の中で、『ソ連側 』であることをアピールした。
更に、第二次世界大戦の後、『朝鮮半島』が北緯38度線を境に、米ソによる分割を受ける。北はソ連、南はアメリカによって支配された。そして東西冷戦が進行する中、南北に分断されて、この2つの国が生まれたわけだ。『北朝鮮』と『韓国』である。
北 | 朝鮮民主主義人民共和国 |
南 | 大韓民国 |
そして、彼らは彼らで『朝鮮戦争(1950年6月)』というものを起こしてしまう。
といった反米親ソ勢力を作ってしまったアメリカは、1951年に『サンフランシスコ講和条約』を結び、1960年(昭和35年)1月19日にワシントンで『日米安全保障条約』を締結し、日本を東アジアにおけるアメリカの有力な同盟国にしたのである。
[外務省外交史料館で展示されている署名]
参考
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約wikipedia
次の記事
該当する年表
SNS
参考文献