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ケネディ、ニクソン、レーガン、キング牧師らリーダーが奮闘!1950~1980年までのアメリカ

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

先生

いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!

  1. ケネディ大統領の時代(1961年1月20日 – 1963年11月22日)には何があったの?
  2. ニクソン大統領の時代(1969年1月20日 – 1974年8月9日)には何があったの?
  3. レーガン大統領の時代(1981年1月20日 – 1989年1月20日)には何があったの?

1.法の上で人種差別が撤廃されるという動きがあったり、キューバ危機でソ連と一触即発となりました。

2.ベトナム戦争から撤退し、ドルと金の交換停止を宣言した『ドル・ショック』がありました。

3.財政支出削減・規制緩和・減税(レーガノミクス)や、強烈な反ソビエト政策を推進しました。

ハニワくん

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

博士

1960年代で米ソ『冷戦』問題はピークを迎え、そこから徐々に鎮静化していきました。

ケネディ大統領の時代にキューバ危機があり、アメリカ側のカストロ暗殺計画『マングース作戦』が秘密裏に進んでいましたが、ケネディがそれを牽制。彼がもしその作戦を後押ししていれば事態はもっと深刻化していたかもしれません。また彼の時代にはキング牧師マルコムXなどの影響もあって、公民権法が制定され、法の上では人種差別が撤廃されるという動きが見られました。

 

ニクソン大統領は、ベトナム戦争からアメリカ軍を撤退させました。しかし『ドル・ショック』でアメリカの経済力が疑われるようになり、アメリカはかつてのような絶対権力国ではなくなっていきました。ニクソン政権の課題は、

 

  1. 対共産圏外交の見直し
  2. 傷ついたアメリカの指導力の奪回

 

にありました。

 

レーガン大統領は、『強いアメリカの復活』を掲げてそんなアメリカを奮起させようとしました。その代償にソ連を挑発し、あわや『新冷戦』の危険性もありましたが、彼の時代のすぐ後にソ連との冷戦も終わりを迎えます。また、『レーガノミクス』と呼ばれる新自由主義的な経済政策を採用し、減税などを試みますが、経済、外交共に赤字となり、結局『レーガン政権』は『双子の赤字』を生んで終わりました。しかし、彼の支持は厚くレーガンは高い支持率を保ったまま、同じく共和党選出であるジョージ・ブッシュにその座を譲りホワイトハウスを後にしました。

うーむ!やはりそうじゃったか!

博士

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

先生

冷戦中のアメリカ

『1950~1980年までのアメリカ』

アメリカは日本を戦後に占領したのになぜ現在は『同盟国』となっているの?アメリカの戦略とは

 

上記の記事の続きだ。1945年、第二次世界大戦が終わり、1948年には朝鮮半島の南部で李承晩(いすんまん)を首班とする大韓民国(韓国)がアメリカの支援によって成立するが、それに対抗して同年、ソ連のスターリンが北方の平壌に赤軍を入城させ、金日成(きむいるそん)を首相に立て『朝鮮民主主義人民共和国』を建国。更に1949年には毛沢東によって『中華人民共和国』が建国される。

 

  1. 毛沢東(中華人民共和国)
  2. 金日成(朝鮮民主主義人民共和国)

 

といった反米親ソ勢力を作ってしまったアメリカは、1951年に『サンフランシスコ講和条約』を結び、1960年(昭和35年)1月19日にワシントンで『日米安全保障条約』を締結し、日本をアメリカの有力な同盟国にしたわけだ。そんな最中の1953年、ソ連の独裁者スターリンが死去。その後、

 

  1. 中ソ対立
  2. 反ソ運動
  3. スプートニクショック
  4. キューバ革命
  5. ベトナム戦争
  6. ベルリンの壁
  7. プラハの春

 

といった様々な問題を通し、米ソ『冷戦』問題は複雑化していく。

 

スターリンが死去するも、スプートニク・ショックにキューバ革命が勃発!危機を乗り越え『デタント(緊張緩和)』できるか?

 

ケネディ政権

第二次世界大戦後の大統領は以下のとおりである。

 

第二次世界大戦後のアメリカ合衆国大統領

第32代大統領 フランクリン・ルーズベルト 1933年3月4日 – 1945年4月12日
第33代大統領 ハリー・S・トルーマン 1945年4月12日 – 1953年1月20日
第34代大統領 ドワイト・デビッド・アイゼンハワー 1953年1月20日 – 1961年1月20日
第35代大統領 ジョン・F・ケネディ 1961年1月20日 – 1963年11月22日
第36代大統領 リンドン・ジョンソン 1963年11月22日 – 1969年1月20日
第37代大統領 リチャード・ニクソン 1969年1月20日 – 1974年8月9日

 

公民権法と『マングース作戦』

ケネディ大統領の時にはキング牧師マルコムXなどの影響もあって、公民権法が制定され、法の上では人種差別が撤廃されるという動きが見られた。1962年、キューバにはソ連から核ミサイルが持ち込まれ、カストロ暗殺計画『マングース作戦』が秘密裏に進んでいた。アメリカ首脳陣は、先制攻撃でミサイルもろともカストロ政権を消滅させようと主張するが、ケネディはこう言ったのだ。

『他に、何かできることは?』

 

こうした人物の一つの判断ミスによって、この世界の形は大きく変わってしまっていたのだ。

 

[最初の銃弾が命中し喉を押さえるケネディ大統領(12時30分)《ザプルーダー・フィルムより》]

 

しかし、アメリカや世界平和に貢献した、

 

  • ケネディ
  • キング牧師
  • マルコムX

 

彼らは全員暗殺されてしまっている。アメリカには争いや人種問題と戦った偉人たちが大勢いる。だが、その一方で、現在進行形でアメリカには人種問題がいまだに根深く根付いているという現実がある。

 

 

 

 

 

アメリカ肥大化の要因

  1. 南北戦争(南北の分裂を阻止、統一)
  2. アメリカ西部開拓(ゴールドラッシュ、商工業の発達)
  3. スペイン・アメリカ・キューバ戦争(米西キューバ戦争)
  4. 第一次世界大戦(フランスとイギリスにお金を貸す)
  5. ドーズ案(ドイツに貸しを作り借金回収の戦略を遂行)
  6. 大衆消費商品や世界的な娯楽文化の発達

 

途中、『世界恐慌』という問題は起こしたが、

 

  1. ニューディール政策
  2. 第二次世界大戦の武器生産体制の強化
  3. 冷戦下の軍事支出の増大

 

等で巻き返し、すっかりイギリスに代わって世界を引っ張る強国となったアメリカにも、根の深い未解決問題が山積みなのである。

 

『世界恐慌』はなぜ起きた?何もかもが順調だったはずのアメリカの経済に大打撃!世界中に甚大な影響を与える

 

ニクソン政権

1960年代、アメリカで大規模なベトナム反戦運動が起こる。

 

[米国のベトナム反戦運動(1967年)]

 

ベトナム撤退

そんな最中の旧正月下の1968年1月29日の深夜に、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始した。この攻撃によって形勢が変わり、財政赤字も重なって、1969年、共和党のリチャード・ニクソンが大統領に就任し、ベトナムからの撤退を表明。

 

 

  1. テト攻勢で防御にあたる海兵隊員と南ベトナム軍(1968年)
  2. 第14歩兵連隊第2大隊の兵士を運ぶUH-1D(1966年)
  3. ベトコンが潜伏したと見做され焼却される村落
  4. ベトナム人の犠牲者

 

MEMO

1975年、南ベトナムの首都サイゴン(現ホー・チミン)が滑落死、北によるベトナム統一が行われた。『ベトナム社会主義共和国』の誕生である。

 

 

ドル・ショック

戦争でアメリカの手持ちの金(きん)が大きく失われたこともあり、リチャード・ニクソンは、ドルと金の交換停止を宣言。『ドル・ショック』である。しかしこれによってアメリカの経済力が疑われるようになり、アメリカはかつてのような絶対権力国ではなくなっていった。

 

ドル・ショック

1971年8月15日に発表された、米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終結を告げた新しい経済政策。

 

ニクソン政権の課題は、

 

  1. 対共産圏外交の見直し
  2. 傷ついたアメリカの指導力の奪回

 

にあった。例えば、1971年の外交政策にはこういうものがあった。

 

  • 南ベトナムとの国境を越えてラオスに侵攻(2月)。
  • 日本と沖縄返還協定を締結(6月)。
  • 中華人民共和国に翌年訪問すると発表(7月)。(第1次ニクソン・ショック)
  • ドルと金との交換停止。10%の輸入課徴金実施(8月)。(第2次ニクソン・ショック・ドル・ショック)
  • アンカレッジで欧州訪問途次の昭和天皇・皇后と会談(9月)。
  • スミソニアン博物館での多国間通貨調整会議でドルと金との交換レートを引き下げ、円などの他国通貨との為替レートでドルの切り下げを決定(12月)。
  • 国際連合で採択された海底軍事利用禁止条約に調印。

 

[昭和天皇(左から2人目)、香淳皇后(左から1人目)とニクソン(右から2人目)、妻のパット]

 

[ニクソンと周恩来との会談]

 

中ソ対立を利用して中国に接近し、1972年に訪中を実現。これを圧力にして、ソ連を和平交渉のテーブルにつかせるという現実主義外交が展開された。

 

迷走するアメリカ

1970~90年までのアメリカ合衆国大統領

第37代大統領 リチャード・ニクソン 1969年1月20日 – 1974年8月9日
第38代大統領 ジェラルド・フォード 1974年8月9日 – 1977年1月20日
第39代大統領 ジミー・カーター 1977年1月20日 – 1981年1月20日
第40代大統領 ロナルド・レーガン 1981年1月20日 – 1989年1月20日

 

[左からフォード、ニクソン、G. H. W. ブッシュ、レーガン、カーターの歴代大統領]

 

1950年代までに盛り返したアメリカにも、1960~1970年代になると、様々な問題を通して暗雲が立ち込めていた。

 

  1. 1963年:部分的核実験停止条約の締結後から始まった『デタント(緊張緩和)』
  2. 1969年:終結し敗北した形となった『ベトナム戦争』での出費
  3. 1971年:ブレトン・ウッズ体制の終結を告げた『ドル・ショック』
  4. 1973年:『第一次オイルショック』

 

スターリンが死去するも、スプートニク・ショックにキューバ革命が勃発!危機を乗り越え『デタント(緊張緩和)』できるか?

『中東戦争』で荒れるイスラエル!世界一神聖であるべき場所が、世界一の争いの火種となっている皮肉

 

いい動きはデタントくらいで、しかしそれも決してプラスになる動きではない。最低限の処置だ。この時代はリベラリズムの潮流が強く、格差問題や人種問題といった様々な問題の解決に積極的だったが、こうしたアメリカの世界的な立場の低迷によって、保守的な考えを持つ人々が続出。

 

白人中流階級

保守的に行くべきだ!我々の権利を最優先するべきだ!

 

例えば『デトロイト』は、1967年のデトロイト暴動の最中に発生したアルジェ・モーテル事件を題材にした映画だ。

 

 

アメリカの至る所で古くからある因縁や遺恨の問題が浮上し、景気と情勢の悪化と共に再燃する動きが見え隠れしていた。

 

 

レーガン政権

そんな中、1981年に共和党のレーガンが大統領に就任。アフガニスタンへの侵攻と軍事占領を続けるソ連を『悪の帝国』と呼び、『強いアメリカの復活』を掲げて奮起させようとした。

 

アフガニスタンはなぜ常に戦場なの?背後にある『米ソ対立』と『イスラム過激派』の存在

 

だが、そのせいで東西の対立はまたもや深まって、『新冷戦』と呼ばれるようになってしまった。しかし、結局この頃すでに米ソ両国は、国際的な影響力と権威を大きく失ってしまっていたのだ。

 

[ロナルド・レーガン(右)とともにINF全廃条約に署名するゴルバチョフ]

『ベルリンの壁』も『ソ連』も崩壊!アメリカ一強時代への突入は『歴史の終わり』なのか、それとも。

 

 

レーガノミクス

レーガンは『レーガノミクス』と呼ばれる新自由主義的な経済政策が採用される。レーガノミクスは、グループ・ブリュッセル・ランバートがコールバーグ・クラビス・ロバーツやフィデリティ・インベストメンツと連携し、M&Aを流行させ、米国史上3番目に長い平時の好景気だったとされ、レーガン政権は「アメリカ経済は復活した」として、政策の効果を主張したが、結局『レーガン政権』は『双子の赤字』を生んで終わった。

 

[自らの減税プランをテレビで説明するレーガン大統領, 1981年7月]

 

経済政策

  1. 規制緩和
  2. 大幅減税
  3. 小さな政府の実現
  4. インフレ抑制

結果:金利上昇でドル高になり、輸入が増加。国内企業の価格競争が低下。そして輸出が低迷し、雇用の不安定化を呼び、貿易赤字が拡大した。

外交政策

  1. 戦略的防衛構想(宇宙を含む全域で核弾頭を迎撃する防衛計画)
  2. 対ソ強硬路線(ソ連脅威論を提唱)
  3. 対反米ナショナリズム

結果:軍事支出の大幅な増加で、財政赤字が拡大した。

 

『双子の赤字』を生み、格差を拡大させ、雇用を不安定化させ、国際的な競争力を低下させる結果となった。しかし、国内外の支持は厚かった。1989年、レーガンは高い支持率を保ったまま、同じく共和党選出であるジョージ・ブッシュにその座を譲りホワイトハウスを後にした。2期8年の任期を全うしたのはドワイト・D・アイゼンハワー大統領以来である。

 

MEMO

特に同年代でお互い保守派として知られた中曽根康弘との間では、中曽根を「ヤス」と呼び、レーガンを「ロン」と愛称で呼ぶ仲となり、この呼び方は当時「ロン・ヤス」とあだ名されてお互い交流を結んだ。

MEMO

レーガンは冷戦終息に対する貢献により、イギリスのエリザベス2世女王から大英帝国勲章GBEを受けナイトの称号を許された。しかし、「合衆国市民は外国から栄典を受けることはあっても名乗らない」の慣例に従い、その名前に「GBE」を冠することは一度もなかった。

 

[ロナルド・レーガン]

 

アメリカ二大政党の一つ『共和党』の歴史

STEP.1
共和党結成
1854年。準州に奴隷制が拡大する危険をはらんだカンザス・ネブラスカ法を廃止し、経済の近代化をより強力に推進することを目的に結党された。。
STEP.2
リンカーン大統領誕生
1860年。共和党からエイブラハム・リンカーンが大統領に選出され、南北戦争において合衆国を勝利に導き、奴隷制度の廃止に成功すると、共和党の優位は盤石となり、世界恐慌直後の1932年まで続いた。
STEP.3
共和党と民主党の地位が逆転
1929年~1940年。フランクリン・D・ルーズベルトが率いる民主党の優位は1960年代中盤まで続いた。
STEP.4
民主党が公民権運動の推進
1950年代。南部を中心に、それまで強固に民主党を支持していた保守層が共和党支持へ流れ、逆にアフリカ系アメリカ人は民主党へ流れた。
STEP.5
共和党優位の時代が戻る
1964年。公民権法が決定打となってニューディール連合は崩壊し、ベトナム戦争の泥沼化もあって、共和党優位の時代が戻った。
STEP.6
レーガン大統領の奮闘
1980年代。財政支出削減・規制緩和・減税(レーガノミクス)や、強烈な反ソビエト政策を推進した。
STEP.7
民主党と共和党の勢力が拮抗
1990年代以降。民主党と共和党の勢力が拮抗し、現在に至っている。

 

[この風刺画では、共和党最初の大統領候補フレモントを当時は「過激」と見なされたさまざまな運動と結びつけている。左から禁酒運動家、婦人参政権運動家、社会主義者、自由恋愛主義者、カトリック聖職者、自由黒人の伊達男。]

 

 

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