いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.法の上で人種差別が撤廃されるという動きがあったり、キューバ危機でソ連と一触即発となりました。
2.ベトナム戦争から撤退し、ドルと金の交換停止を宣言した『ドル・ショック』がありました。
3.財政支出削減・規制緩和・減税(レーガノミクス)や、強烈な反ソビエト政策を推進しました。
1960年代で米ソ『冷戦』問題はピークを迎え、そこから徐々に鎮静化していきました。
ケネディ大統領の時代にキューバ危機があり、アメリカ側のカストロ暗殺計画『マングース作戦』が秘密裏に進んでいましたが、ケネディがそれを牽制。彼がもしその作戦を後押ししていれば事態はもっと深刻化していたかもしれません。また彼の時代にはキング牧師やマルコムXなどの影響もあって、公民権法が制定され、法の上では人種差別が撤廃されるという動きが見られました。
ニクソン大統領は、ベトナム戦争からアメリカ軍を撤退させました。しかし『ドル・ショック』でアメリカの経済力が疑われるようになり、アメリカはかつてのような絶対権力国ではなくなっていきました。ニクソン政権の課題は、
にありました。
レーガン大統領は、『強いアメリカの復活』を掲げてそんなアメリカを奮起させようとしました。その代償にソ連を挑発し、あわや『新冷戦』の危険性もありましたが、彼の時代のすぐ後にソ連との冷戦も終わりを迎えます。また、『レーガノミクス』と呼ばれる新自由主義的な経済政策を採用し、減税などを試みますが、経済、外交共に赤字となり、結局『レーガン政権』は『双子の赤字』を生んで終わりました。しかし、彼の支持は厚くレーガンは高い支持率を保ったまま、同じく共和党選出であるジョージ・ブッシュにその座を譲りホワイトハウスを後にしました。
『1950~1980年までのアメリカ』
上記の記事の続きだ。1945年、第二次世界大戦が終わり、1948年には朝鮮半島の南部で李承晩(いすんまん)を首班とする大韓民国(韓国)がアメリカの支援によって成立するが、それに対抗して同年、ソ連のスターリンが北方の平壌に赤軍を入城させ、金日成(きむいるそん)を首相に立て『朝鮮民主主義人民共和国』を建国。更に1949年には毛沢東によって『中華人民共和国』が建国される。
といった反米親ソ勢力を作ってしまったアメリカは、1951年に『サンフランシスコ講和条約』を結び、1960年(昭和35年)1月19日にワシントンで『日米安全保障条約』を締結し、日本をアメリカの有力な同盟国にしたわけだ。そんな最中の1953年、ソ連の独裁者スターリンが死去。その後、
といった様々な問題を通し、米ソ『冷戦』問題は複雑化していく。
第二次世界大戦後の大統領は以下のとおりである。
第二次世界大戦後のアメリカ合衆国大統領
第32代大統領 | フランクリン・ルーズベルト | 1933年3月4日 – 1945年4月12日 |
第33代大統領 | ハリー・S・トルーマン | 1945年4月12日 – 1953年1月20日 |
第34代大統領 | ドワイト・デビッド・アイゼンハワー | 1953年1月20日 – 1961年1月20日 |
第35代大統領 | ジョン・F・ケネディ | 1961年1月20日 – 1963年11月22日 |
第36代大統領 | リンドン・ジョンソン | 1963年11月22日 – 1969年1月20日 |
第37代大統領 | リチャード・ニクソン | 1969年1月20日 – 1974年8月9日 |
ケネディ大統領の時にはキング牧師やマルコムXなどの影響もあって、公民権法が制定され、法の上では人種差別が撤廃されるという動きが見られた。1962年、キューバにはソ連から核ミサイルが持ち込まれ、カストロ暗殺計画『マングース作戦』が秘密裏に進んでいた。アメリカ首脳陣は、先制攻撃でミサイルもろともカストロ政権を消滅させようと主張するが、ケネディはこう言ったのだ。
『他に、何かできることは?』
こうした人物の一つの判断ミスによって、この世界の形は大きく変わってしまっていたのだ。
[最初の銃弾が命中し喉を押さえるケネディ大統領(12時30分)《ザプルーダー・フィルムより》]
しかし、アメリカや世界平和に貢献した、
彼らは全員暗殺されてしまっている。アメリカには争いや人種問題と戦った偉人たちが大勢いる。だが、その一方で、現在進行形でアメリカには人種問題がいまだに根深く根付いているという現実がある。
アメリカ肥大化の要因
途中、『世界恐慌』という問題は起こしたが、
等で巻き返し、すっかりイギリスに代わって世界を引っ張る強国となったアメリカにも、根の深い未解決問題が山積みなのである。
1960年代、アメリカで大規模なベトナム反戦運動が起こる。
[米国のベトナム反戦運動(1967年)]
そんな最中の旧正月下の1968年1月29日の深夜に、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始した。この攻撃によって形勢が変わり、財政赤字も重なって、1969年、共和党のリチャード・ニクソンが大統領に就任し、ベトナムからの撤退を表明。
1975年、南ベトナムの首都サイゴン(現ホー・チミン)が滑落死、北によるベトナム統一が行われた。『ベトナム社会主義共和国』の誕生である。
戦争でアメリカの手持ちの金(きん)が大きく失われたこともあり、リチャード・ニクソンは、ドルと金の交換停止を宣言。『ドル・ショック』である。しかしこれによってアメリカの経済力が疑われるようになり、アメリカはかつてのような絶対権力国ではなくなっていった。
1971年8月15日に発表された、米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終結を告げた新しい経済政策。
ニクソン政権の課題は、
にあった。例えば、1971年の外交政策にはこういうものがあった。
[昭和天皇(左から2人目)、香淳皇后(左から1人目)とニクソン(右から2人目)、妻のパット]
[ニクソンと周恩来との会談]
中ソ対立を利用して中国に接近し、1972年に訪中を実現。これを圧力にして、ソ連を和平交渉のテーブルにつかせるという現実主義外交が展開された。
1970~90年までのアメリカ合衆国大統領
第37代大統領 | リチャード・ニクソン | 1969年1月20日 – 1974年8月9日 |
第38代大統領 | ジェラルド・フォード | 1974年8月9日 – 1977年1月20日 |
第39代大統領 | ジミー・カーター | 1977年1月20日 – 1981年1月20日 |
第40代大統領 | ロナルド・レーガン | 1981年1月20日 – 1989年1月20日 |
[左からフォード、ニクソン、G. H. W. ブッシュ、レーガン、カーターの歴代大統領]
1950年代までに盛り返したアメリカにも、1960~1970年代になると、様々な問題を通して暗雲が立ち込めていた。
いい動きはデタントくらいで、しかしそれも決してプラスになる動きではない。最低限の処置だ。この時代はリベラリズムの潮流が強く、格差問題や人種問題といった様々な問題の解決に積極的だったが、こうしたアメリカの世界的な立場の低迷によって、保守的な考えを持つ人々が続出。
例えば『デトロイト』は、1967年のデトロイト暴動の最中に発生したアルジェ・モーテル事件を題材にした映画だ。
アメリカの至る所で古くからある因縁や遺恨の問題が浮上し、景気と情勢の悪化と共に再燃する動きが見え隠れしていた。
そんな中、1981年に共和党のレーガンが大統領に就任。アフガニスタンへの侵攻と軍事占領を続けるソ連を『悪の帝国』と呼び、『強いアメリカの復活』を掲げて奮起させようとした。
だが、そのせいで東西の対立はまたもや深まって、『新冷戦』と呼ばれるようになってしまった。しかし、結局この頃すでに米ソ両国は、国際的な影響力と権威を大きく失ってしまっていたのだ。
[ロナルド・レーガン(右)とともにINF全廃条約に署名するゴルバチョフ]
レーガンは『レーガノミクス』と呼ばれる新自由主義的な経済政策が採用される。レーガノミクスは、グループ・ブリュッセル・ランバートがコールバーグ・クラビス・ロバーツやフィデリティ・インベストメンツと連携し、M&Aを流行させ、米国史上3番目に長い平時の好景気だったとされ、レーガン政権は「アメリカ経済は復活した」として、政策の効果を主張したが、結局『レーガン政権』は『双子の赤字』を生んで終わった。
[自らの減税プランをテレビで説明するレーガン大統領, 1981年7月]
経済政策
結果:金利上昇でドル高になり、輸入が増加。国内企業の価格競争が低下。そして輸出が低迷し、雇用の不安定化を呼び、貿易赤字が拡大した。
外交政策
結果:軍事支出の大幅な増加で、財政赤字が拡大した。
『双子の赤字』を生み、格差を拡大させ、雇用を不安定化させ、国際的な競争力を低下させる結果となった。しかし、国内外の支持は厚かった。1989年、レーガンは高い支持率を保ったまま、同じく共和党選出であるジョージ・ブッシュにその座を譲りホワイトハウスを後にした。2期8年の任期を全うしたのはドワイト・D・アイゼンハワー大統領以来である。
特に同年代でお互い保守派として知られた中曽根康弘との間では、中曽根を「ヤス」と呼び、レーガンを「ロン」と愛称で呼ぶ仲となり、この呼び方は当時「ロン・ヤス」とあだ名されてお互い交流を結んだ。
レーガンは冷戦終息に対する貢献により、イギリスのエリザベス2世女王から大英帝国勲章GBEを受けナイトの称号を許された。しかし、「合衆国市民は外国から栄典を受けることはあっても名乗らない」の慣例に従い、その名前に「GBE」を冠することは一度もなかった。
[ロナルド・レーガン]
[この風刺画では、共和党最初の大統領候補フレモントを当時は「過激」と見なされたさまざまな運動と結びつけている。左から禁酒運動家、婦人参政権運動家、社会主義者、自由恋愛主義者、カトリック聖職者、自由黒人の伊達男。]
次の記事
該当する年表
SNS
参考文献