いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.ベルリン会議で決められた『文化的景観』を無視した国境のせいです。
2.内紛とモノカルチャー栽培(単一の農作物を生産する農業)への依存が大きな原因です。
1884、5年にベルリン会議が行われ、アフリカの国境が決められました。
しかしそれは『文化的景観』を無視したもので、この時に西欧列強が勝手に引いた国境線は、民族構成を無視して適当に引かれたため、このせいで現在進行形で、アフリカで紛争が行われてしまっているのです。それは中東でも同じことがありましたから、そうなるのは必然的だと言えます。アフリカがなかなか発展途上国から抜けられない理由は、
という2点が問題として挙げられています。モノカルチャー栽培からの依存は『抜け出せばいいだけ』なのですが、簡単にそうすることができないこのあたりの理由にも、アフリカの発展が遅れてしまっている原因があるかもしれません。しかし、本来黒人である彼らのポテンシャルはとても高く、彼らが本気を出したら大きな結果を出すことも夢ではありません。アフリカはいろいろな意味で、まだまだこれからの国々なのです。
Contents|目次
『アフリカの未来』
上記の記事の続きだ。この世界で植民地となったエリアを大きく分けると、
となる。東南アジアとアメリカ大陸に関しては下記の記事に書いた。
では、アフリカが独立したのはいつか。実は、ごくごく最近なのである。まず、『第一次世界大戦(1914~1918年)』が起き、それが終わると長らく植民地にされていた地域で部族の独立運動が起こる。エジプトやインドが独立するの皮切りに、世界の植民地とされていた国々が次々と独立し始めるわけだ。
1857年、イギリス支配にインド人が不満を覚え、東インド会社が雇っていたインド人傭兵(シパーヒー)が暴動を起こし、それが全インドを巻き込む『インド大反乱』に発展。その後、ヴィクトリア女王が『インド帝国』の初代皇帝(在位:1877年1月1日 – 1901年1月22日)に即位し、インドは『大英帝国』として黄金期を迎えた。しかしもちろん植民地であるインド人はイギリスに不満を覚える。
[1909年当時のイギリス領インド帝国。イギリスによる直接統治下に置かれた地域はピンク、藩王国、保護国は黄色で示されている。]
[インド大反乱]
ガンジー、ジャワハルラール・ネルー、チャンドラ・ボースらを筆頭として、インドで独立運動が起こる。そして1947年にようやくインドは独立に成功。イギリスがついにこの地を支配することができなくなり、インドへ権力委譲を約束したのだ。
アジア、アフリカの独立の動きを見てみよう。
アジア
独立年 | 国名 | 独立前の宗主国 |
1945年 | ベトナム民主共和国 | フランス |
1946年 | フィリピン共和国 | アメリカ |
1947年 | インド連邦 | イギリス |
パキスタン・イスラム共和国 | イギリス | |
1948年 | 大韓民国 | 日本 |
朝鮮民主主義人民共和国 | 日本 | |
ビルマ連邦共和国 | イギリス | |
1949年 | インドネシア連邦共和国 | オランダ |
1953年 | カンボジア王国 | フランス |
1957年 | マラヤ連邦 | イギリス |
アフリカ
1957年 | ガーナ共和国 | イギリス |
1958年 | ギニア共和国 | フランス |
1960~1961年 | カメルーン共和国 | フランス、イギリス |
1960年 | コートジボワール共和国 | フランス |
コンゴ共和国 | ベルギー | |
セネガル共和国 | フランス | |
ソマリア民主共和国 | イギリス、イタリア | |
チャド共和国 | フランス | |
中央アフリカ共和国 | フランス | |
トーゴ共和国 | フランス | |
ナイジェリア連邦共和国 | イギリス | |
ニジェール共和国 | フランス | |
ベナン共和国 | フランス | |
マダガスカル共和国 | フランス | |
マリ共和国 | フランス | |
1962年 | アルジェリア民主人民共和国 | フランス |
ウガンダ共和国 | イギリス | |
1963年 | ケニア共和国 | イギリス |
1964年 | ザンビア共和国 | イギリス |
マラウイ共和国 | イギリス | |
1965年 | ガンビア共和国 | イギリス |
ベトナム、フィリピン、インドが独立した後の20年間で、これだけの国が独立を果たしている。特に1960年は『アフリカの年』と言われ、17か国もの国が独立している。この背景にあったのは『冷戦中の米ソ』で、植民地の継続をしようとしていたイギリス、フランスへの牽制だった。
第二次世界大戦終了後の1955年に行われた『アジア=アフリカ会議』では、実に29か国もの国が集まった。そして以下のようなことが話し合われ、固く誓い合った。
[バンドン会議の議場(1955年当時)]
バンドン会議における異議
平和十原則
正式名称は世界平和と協力の推進に関する宣言。バンドン十原則(ダサ・シラ・バントン)とも呼ばれる。
参加国
東南アジアには『ASEAN(東南アジア諸国連合)』ができ、アフリカには1963年に『アフリカ統一機構(OAU)』(現アフリカ連合AU)』が生まれ、アフリカ諸国の相互連携を図る。しかし、ベルリン会議で決められた『文化的景観』を無視した国境のせいで、内紛が起き、そうスムーズにはいかなかった。
黒人というのは、肌の色が黒いというだけで重荷を背負っているのだろうか。
1960年10月、ガーナの初代大統領クワメ・エンクルマ大統領が国際連合総会における演説の中でアフリカの自由を主張し、主に南アフリカに対して白人至上主義を終結させるよう呼びかけた。
我々の時代の一つの基本的事実は、アフリカの覚醒が現代世界にもたらす重大な影響である。アフリカのナショナリズムの潮流はあらゆるものを押し流し、この大陸に行なわれてきた長年の不正義や犯罪からの回復を植民地保有国に要求するものである。しかし、アフリカは復讐を求めない。悪意を抱く事はアフリカの本性に反している。200万人以上の人民は声を揃え、非常な力をもって叫ぶ。
彼らは何と言うのだろうか?我々は抑圧者の死を求めないし、奴隷所有主の不運な末路も願わない。我々は正当で前向きな要求を主張する。その声は海に山に、丘に谷に、砂漠に、人類の住む広大な土地に響き渡り、アフリカの自由を求める。アフリカは自由を望んでいる。アフリカは自由でなければならない。これは単純な叫びだが、これを無視しがちな人たちに強い警告を与える信号でもある。
[クワメ・エンクルマ]
彼ら黒人たちの強いられた運命は厳しいものだった。例えばケニアの初代大統領ジョモ・ケニヤッタだ。ケニア共和国の首都、ナイロビにあるジョモ・ケニヤッタ空港につけられたのは、彼の名前である。9年もの間投獄されることもあった。それだけ、ケニヤッタの生涯は、試練の壁が多かった。しかし、不屈の精神でイギリスから見事に独立を勝ち取り、一国の創立者となったのである。
南アフリカの政治家デララークと共に、アパルトヘイト撤廃のために、南アフリカの黒人解放運動に身を投じた指導者、ネルソン・マンデラ。反逆罪に問われ、27年間の獄中生活を強いられるが、釈放後、その類稀なる信念が認められ、南アフリカの大統領に就任、そして、ノーベル平和賞をも受賞した。
人種差別の政策。アフリカーンス語で「分離、隔離」を意味する言葉で、特に南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を規定する人種隔離政策のことを指す。
彼らの言葉から見えてくるものがあるはずである。
[ネルソン・マンデラ]
そして、人種差別ということで言うなら彼の言葉ほど強烈なものはない。アメリカで最も著名で攻撃的な黒人解放指導者として知られているマルコムXだ。その理由は、彼が6歳の頃、牧師だった父親が、人種差別による虐殺によって無残にも殺され、それを警察(国家)によって『自殺』だと隠蔽されたからである。更に、マルコムXの母親ルイーズは、白人に強姦されて生まれた。
『自分の体に流れている白人の血を憎み、黒人の中でもとりわけ肌の色が黒く黒人然とした父と結婚した』
というルイーズ。その彼女は、夫であり、マルコムXの父親でもあるアール・リトルが虐殺され、自殺に隠蔽された直後、精神病院に入院することになったのだ。マルコムXは言った。
黒人たちは、ただそれだけの理由で人一倍重い荷物を背負って生きることを強いられたのである。
ただ、そんな中でもキング牧師やオプラ・ウィンフリーのように、負に屈さず、むしろそれをバネにして大きなエネルギーを生む人もいる。20世紀以降のアメリカで最も裕福なアフリカ系アメリカ人で、「世界で最も有力な女性」と称され、アメリカの歴史で最も偉大な黒人の慈善家でもある、かつては世界唯一の黒人の億万長者であったオプラ・ウィンフリーは言った。
彼女は、以下の黄金律を自分のものにしたのである。自分の運命を嘆くこともできるが、『嘆かない』こともできる。それが人生であることは間違い用のない事実である。
[オプラ・ウィンフリー]
『冷戦中の米ソ』が植民地の継続をしようとしていたイギリス、フランスへの牽制のために『アフリカの年』を支援したが、米ソの目的はそれだけじゃなく、この『第三世界』の取り込みもあった。例えばアメリカは、中東地域に『イラン』を親米派として選ぶが、『イラン革命』を起こされ、『イラク』側につくしかなく、そのイラクとも問題を起こしてしまうわけだ。
東アジアに至っては、ソ連が中国や北朝鮮を親ソ派として取り込んだから、アメリカは日本を同盟国に選んで、ソ連勢力を牽制した。
そしてアフリカも同じように、取り込もうとした。だが、冷戦が終わり、米ソはアフリカから手を引くことになったのである。
1989年にデクラークが南アフリカ共和国の大統領になると、方針が大きく転換する。黒人達との交渉によって南アフリカの将来を決めていくといった現実的で柔軟な民主改革路線をとった。その政策方針により、アフリカ民族会議(ANC)やパン・アフリカニスト会議(PAC)、南アフリカ共産党の非合法化を解除し、ANC指導者のネルソン・マンデラを釈放した。
こういった好カードを上手く利用し、デクラークとマンデラは、1991年についにアパルトヘイトの撤廃を実現させたのだ。
[1992年、フレデリック・ウィレム・デクラーク南アフリカ共和国大統領と握手するネルソン・マンデラ次期大統領]
先ほど、ベルリン会議で決められた『文化的景観』を無視した国境のせいで内紛が起きたと書いたが、この時に西欧列強が勝手に引いた国境線は、民族構成を無視して適当に引かれたため、このせいで現在進行形で、アフリカで紛争が行われてしまっているのだ。
それは中東でも同じだった。第一次世界大戦が終わり、中東地域の領土は戦勝国に振り分けられた。
イギリス | 南部シリア、イラク大半 |
フランス | 北部シリア、イラクの一部 |
そしてパレスチナは、イギリスが国際連盟にその地域の保護をゆだねる『委任統治領』となった。
更にイギリスとフランスは、その地域となった、
を、その土地の部族や宗派などを一切考慮せず、国境を直線で引いてしまった。自分たちの心をないがしろにされ、土足で踏みつぶされた彼らは、イギリスととフランスに対して怒りを覚えるようになり、各地で独立を求めるようになった。
アフリカ紛争
1960~1965年 | コンゴ動乱 |
1967~1970年 | ナイジェリア内戦 |
1975~2002年 | アンゴラ内戦 |
1976~ | 西サハラ問題 |
1983~ | スーダン内戦 |
1988~ | ソマリア内戦 |
1990~1994年 | ルワンダ内戦 |
2003~ | ダルフール紛争 |
2011~2017年 | 南スーダンへの自衛隊派遣 |
[ダルフール紛争 ジャンジャウィードの攻撃で破壊された村の保健所]
アフリカがなかなか発展途上国から抜けられないのは、
という2点が問題として挙げられている。
多くの場合、単一の農作物を生産する農業の形態を指す。
モノカルチャー栽培は、植民地産業とも言われ、当時からここで行われていたこと。これは取引価格が高値であれば、効率良く収益を上げられるが、栽培する者が充分な収入を得られず貧富の差が顕著に現れるなど、多くの問題が存在する。また、これに力を注ぐと工業化に目が行かない。まるで、『見えない何か』に足を引っ張られるようなイメージで、アフリカは『停滞』を余儀なくされているのだ。
だが、それも考え方次第だ。オプラ・ウィンフリーのような考え方で、ピンチをチャンスに変えるのだ。まだまだ発展途上ということは、これからはただただ明るくなるだけ。そう考え、アフリカが世界一の先進国であると言われる日が来るように、彼らはその自分たちの生まれた地で、奮闘していくべきなのである。
もちろん、先進国が支援をしてもいい。私もベナンの寄付プロジェクトに参加したことがある。そして私の数万倍の寄付金が世界中から集まっていることだろう。だが、ただ支援するだけでも主体性が削がれるから意味がない。もし、『植民地病』というようなものがあるのだとしたら、そうやって他国や他人が指導、支援することは必ずしもプラスではない。彼らの潜在能力はとてつもなく高い。
2013年5月に放送されたTBSの番組『人体科学ミステリー アノ有名人のカラダを最新科学で大解剖SP』では、年2回が限度と言われるフルマラソンに9回も出場した、マラソンの川内優輝選手の体の構造を調べる、という特集が組まれた。
マラソン界の重鎮たちも、彼にはマラソンの常識が通用しないといって、目を丸くする。
マラソンランナーには欠かせないとされる食事制限を一切行わないばかりか、練習量は日本のトップランナーのおよそ半分。長年に渉り日本の長距離界をリードしてきた瀬古利彦が「常識が常識じゃない」と語り、オリンピックメダリストの高橋尚子も目を丸くする川内の強さの秘密とは? 最新科学の力を使って徹底解析すると、川内の身体には世界を席巻するアフリカ、マラソン勢と共通する遺伝子があった。川内が秘めたポテンシャルにも迫る。
参考
人体科学ミステリー アノ有名人のカラダを最新科学で大解剖SPTBSTBS
私も番組を観たが、彼の遺伝子には、アフリカ人と同じような遺伝子を持っていて、そのせいで並外れた身体能力を発揮できているということだったのだ。また、私自身、公園でエジプト人と真夏の炎天下の中サッカーをやったことがあるが、15分足らずでバテてしまった我々に対し、彼は全くバテることはなかった。彼らには、彼らにしかないポテンシャルというものがある。だとしたらそれを生かすのが彼らの使命だ。アフリカの未来はまだまだこれからである。
該当する年表
SNS
参考文献