『卑弥呼』
上記の記事の続きだ。
弥生時代のキーワード
弥生人の起源 | 大陸の北部が起源で寒冷地に強い新モンゴロイド |
日本初の原始的な国家 | クニ |
当時の日本の呼称 | 倭(わ) |
わかっている最古の日本人の名前 | 師升(すいしょう) |
使っていた土器 | 弥生土器 |
新現象 | 貧富、身分の差が発生 |
日本初の原始的な国家
この時代、強大な力を持つ首長がいて、彼を中心にして『クニ』と呼ばれる原始的な国家が作られていった。この時、本当にこの『首長』が力を持っていたのか、あるいは先ほどの記事『人間を統率するためには『人間以上の存在』が必要だった!』に書いたように、『神』の存在を使って集団を統率したかは定かではない。それが定かならその人物がどういう人物かという記録があってもいいはずだが、それがないので推測するしかないのである。
だが、それはこの後に出てくる『わかっている最古の日本人の名前』という話をひも解くと、確かにそういうリーダーがいたかもしれないと推測はできるのである。
当時の日本の呼称
当時、日本は『倭(わ)』と呼ばれていた。それは中国の前漢王朝の歴史書『漢書』にそう書かれていたからである。これが、この世界における『文字』による日本の最初だ。ここで初めて文字という文化で日本が語られたのである。
その次に中国は後漢王朝時代になる。この時代、
東 | 後漢王朝 |
西 | ローマ帝国 |
という2代帝国が世界に存在していて、実際にこの2国は交流をしていた世界的にも最前線にいた彼らの歴史書『後漢書』東夷伝に、『倭の奴国(なのくに)の王』の使者が後漢の都にて、光武帝から印鑑と紐のセットを授かったと記載されている。
わかっている最古の日本人の名前
更にその50年後に『倭国王』の『師升(すいしょう)』が奴隷身分の人間を後漢の皇帝に献上したとある。この人物の名前が、文字という文化で語られた初めての日本人の名前なのである。それらの中国の書物にあった情報をまとめてみよう
倭の国の情報
その後、中国の歴史書『魏志』倭人伝に、日本の『邪馬台国(やまたいこく)』について書かれている。おそらくこれは『奴国』と同じように、倭(日本)にあった小国の一つの名前だろう。この国のトップにいたのが、卑弥呼(ひみこ)その人である。とある専門書には、この卑弥呼が名前のわかっている最古の日本人だと書いているが、
この2人で意見が割れるところだろう。卑弥呼は30ほどの諸国の連合体の長にたてられ、当時倭で起こっていた騒乱を、呪術を用いておさめたと記述されている。では、なぜ彼女が国のトップに立ち、そんな怪しい方法で当時の大勢の人々を治めることができたのだろうか。それは、所々に登場している『神話、宗教』といった精神的な話を熟考すれば見えてくる事実である。
縄文時代の記事にも書いたが、当時の神話は『~ズム』という考え方が通常だった。それが下記のとおりだ。
生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、 もしくは霊が宿っているという考え方。例えば、風の神、水の神等。
各集団が特定の動物や植物などをトーテムとして崇める信仰のこと。『我が守護神のタカを恐れよ!』
シャーマン(巫師・祈祷師)の能力により成立している宗教や宗教現象の総称。『神霊が憑依した』
そして縄文時代からあった『土偶』は、そのアニミズムの考え方の中にあるものだという見解があるわけだ。この日本は『八百万の神々』を信仰するアニミズムの発想が古くから根付いていて、最近で言えば宮崎駿作品の『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』等にもその様子が見て取れるようになっているわけだ。
しかしこの時代、やはりこの日本にもアニミズムだけじゃなく『シャーマニズム』の考え方も強まった。つまり、『巫女(シャーマン)』の地位が高まり、豊作を祈る祭礼が重要視されたのだ。それは古代エジプトでも『神官』というキーワードが出てきているので、詳しくは前述のエジプトの記事を見るといいだろう。
卑弥呼は巫女だった。つまり、やはり先ほども『強大な力を持った首長』のくだりで見たように、神格化された巫女である彼女が『いうことを聞かない人々』を治めたのだ。やはりそこに存在していたのは『神』の力だったようだ。
史書にある倭国の歴史
卑弥呼は中国の『魏』の皇帝に、
等の王位の象徴物を授かっている。しかも、卑弥呼が直接会いに行ったわけじゃなく、使いの者に受け取らせたわけだから、関係は台頭だ。事実、240年に魏の使者が邪馬台国に遣わされたり、243年に邪馬台国が使者を魏に送るなどして、邪馬台国と魏は親善と友好を深めていたようだ。
魏がなぜ倭国とつながった理由としては、三国志時代のこの時、呉、蜀といった他のエリアより優位に立つためだったと推測されている。この時代、『第四勢力』というこの三国以外の『公孫氏』が遼東にいて、朝鮮と倭国と交流を持っていた。魏は公孫氏を滅ぼした翌年に卑弥呼とのこのやり取りがあるため、そう推測されているのだ。
この卑弥呼だが、専門書にあるキーワードはこうだ。
前漢時代に登場した『師升』は、『確実性に欠ける』ということで排除したのだろうか。しかしどちらにせよこの卑弥呼も、色々と謎の多い女性で、彼女がいた邪馬台国があった場所を巡っては今も尚議論が続いているという。有力なのは、
説だ。近畿(奈良県の纏向遺跡)か九州(佐賀県の吉野ケ里遺跡)かということである。『魏志』倭人伝には、
『鬼道につかえ、よく衆をまどわす』
『王となって以来、その姿を見る者少なく碑1000人を侍(はべ)らせた』
とあり、卑弥呼が宮殿の奥深くにいた巫女であることがほのめかされている。そこまではいい。だが、そのあとの話を聞くとある見解が浮かび上がってくるようになる。卑弥呼の言葉は、補佐役の弟によって小国の権力者たちに伝えられ、深く身を隠すことによってその存在の神秘性を高めたという見解がある。まず、それはあり得そうな見解である。だが同時に推論でもあるわけだ。そうした推論があるならば、こういうのはどうだろう。
『卑弥呼は、時代的に力があったシャーマン(巫女)というエネルギーを利用する男たちに利用された、一人の女性だった』
それは、古代エジプトに存在したファラオ『ツタンカーメン』の話を考えると浮き彫りになる事実である。当時、古代エジプトではラーが信仰されていたわけだが、しかし、テーベの守護神『アメン』が習合し、『アメン・ラー』と呼ばれ、ファラオはその子供と呼ばれるようになった。だが、アメン神官団の権力が強くなりすぎて、イクナートンはそれに対抗するために別の太陽神『アテン』を持ち上げ、これを信仰する一神教を押し出したのである。
アテンではあまり人が納得しなかったのである。そしてツタンカーメンがこんがらがった神話を元に戻して秩序を戻したという。しかしこの話はおかしい。ツタンカーメンが即位したのは『9歳』だからである。つまり、彼の背景には別の人物がいたのだ。それは、
だといわれている。
このように、王である人物『以外』の人物が、王を『神輿』に掲げ、実権はその者が握るということはあり得ないことではない。『摂政』がそうだ。
天皇が幼少であるか女帝である場合、天皇に代わって政務を行なう職。
ツタンカーメンが幼子であり、卑弥呼は女性だ。そう考えると、この『摂政』の考え方と一致するわけだ。また、天草四郎のWikipediaにはこうある。
寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱ではカリスマ的な人気を背景に一揆軍の総大将となる。戦場では十字架を掲げて軍を率いたとも伝わるが、四郎本人はまだ10代半ばの少年であり、実際に乱を計画・指揮していたのは浪人や庄屋たちで、四郎は一揆軍の戦意高揚のために浪人や庄屋たちに利用されていたに過ぎないと見られている。
卑弥呼の特徴
卑弥呼は240~249年頃に死んだとされていて、その後『男子の王』が立てられたが、国内がそれでは納得しなかった。そこで卑弥呼の親族だった13歳の『壱与(いよ)』を女王にすると、国が治まったという。この『女王、巫女を求める人々の心理』も、私がこのような推論をした理由だ。このような条件を考えると、そういう考えがあってもおかしくはないだろう。
とにかくこのようにして、『歴史の謎』がある卑弥呼の伝説は、世界中の人々の好奇心と想像力をかき立てる存在のようだ。『トゥームレイダー』という人気の映画シリーズがあるが、そのゲーム版でも、映画版でも、ともにこの卑弥呼の謎をテーマにしたストーリーがあるくらいである。
また、壱与の時代も、魏の次に興った『西晋王朝』とやり取りをしたのだが、266年を最後に邪馬台国が中国の史書からなぜか消えてしまったという。まったく、色々と謎の多い『邪馬台国の卑弥呼』である。
とにかくこのようにして弥生時代が終わり、次の『古墳時代(3世紀中頃 – 7世紀頃)』へと進むのであった。
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