『飛鳥時代』
上記の記事の続きだ。飛鳥時代というのは『継体天皇(あるいは推古天皇)~持統天皇』の時代であり、奈良県中部の飛鳥の地に皇居があったためそう呼ばれている。ここまでの時代の呼称をまとめてみよう。
縄文時代 | 縄目の付いた土器を使用していたから |
弥生時代 | 東京の弥生町で土器が発見されたから |
古墳時代 | 巨大な古墳を作ったヤマト政権という一大勢力が台頭したから |
飛鳥時代 | 飛鳥に皇居があったから |
こう考えるとやはり『弥生時代』だけが個人的には『稲作時代』とか『農耕時代』とか、もっとわかりやすい時代にした方がよかったとつくづく感じるわけである。稲作が始まったのが弥生時代の特徴だからだ。
継体天皇の頃、朝鮮半島では北の高句麗が勢力を上げていた。下にある新羅、百済は、高句麗が南下してくる前に、下にある伽耶諸国を取り込もうとしていた。
朝鮮半島にあった勢力
北 | 高句麗(こうくり、こぐりょ) |
中央西 | 百済(くだら) |
中央東 | 新羅(しらぎ) |
南 | 伽耶(かや)諸国 |
だが、それはヤマト政権にとって都合が悪い。一番南にある伽耶諸国はヤマト政権の息がかかった地域だったため、ここがなくなるとここへの影響力がなくなり、不利な状況ができる。そこで、継体天皇が新羅へ出兵を試みた。
だが、527年にヤマト政権の命令で筑紫(福岡県)を支配していた豪族の磐井(いわい)がその新羅と手を組み、大規模な反乱を起こす。磐井は新羅と仲が良かったからだ。しかしヤマト政権がこれを鎮圧し、豪族はより肩身が狭くなり、ヤマト政権はますます力をつけていった。
国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族。
ここからヤマト政権は安定し始め、やがてこの組織が『朝廷』と呼ばれるようになる。
さて、冒頭の記事にも書いたが、氏姓制度によって特に力を持ったのが『蘇我氏(そがうじ)』で、『大臣(おおおみ)』となった蘇我稲目は二人の娘(小姉君(おあねぎのぎみ)、堅塩姫(きたしひめ)を欽明天皇(きんめいてんのう)に嫁がせ、外戚として台頭した。この欽明天皇は、継体天皇の2代後の天皇だった。
皇帝、王の母親または妃の一族のこと。
この欽明天皇の時代にあったのが、
という2つの大きな出来事だった。この大伴金村は外交政策で失敗したり、百済から賄賂をもらったりという理由で失脚したようだ。そして仏教だが、大伴氏に代わって二大豪族となった、
がそれを受け入れるかどうかで対立した。
蘇我氏 | 仏教受け入れの考え |
物部氏 | 仏教排除の考え |
当時蘇我氏と同様、蘇我稲目の息子、馬子(うまこ)も天皇の外戚となり、力を持っていた。彼らの対立は欽明天皇の死後、敏達天皇(びだつてんのう)、用明天皇(ようめいてんのう)の時代に持ち越されるが、蘇我馬子はが物部守屋を排除し、崇峻天皇(すしゅんてんのう)を擁立する(即位させる)。こうして馬子が軍事氏族として大王家を支え続けた『物部氏』を排除し、政治の実権を握ったのだ。それによって仏教が日本に本格的に伝来する形となった。
ちなみに天皇を祀る日本独特の『神道(しんとう)』とは、伝統的な民俗信仰・自然信仰・祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。はるか昔の縄文時代から『アニミズム』という形で日本の神話は始まるが、神道が確立するのはまだ先のことである。
生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、 もしくは霊が宿っているという考え方。例えば、風の神、水の神等。
各集団が特定の動物や植物などをトーテムとして崇める信仰のこと。『我が守護神のタカを恐れよ!』
シャーマン(巫師・祈祷師)の能力により成立している宗教や宗教現象の総称。『神霊が憑依した』
冒頭の『古墳時代』の記事に、馬術だけではなく、朝鮮半島からの『渡来人』によって、大陸の技術や文化も取り入れたとあるが、その中には『儒教』もあった。つまりこの時点で、
儒教 | 弥生時代に渡来人によって伝来 |
仏教 | 飛鳥時代に渡来人と馬子達によって伝来 |
神道 | その基礎となる天皇やアニミズムが浸透 |
ということで、3つの宗教がこの日本に交じり始めたことになる。
Wikipediaにはこうある。
神道は奈良時代以降の長い間、仏教信仰と混淆し一つの宗教体系として再構成されてきた(神仏習合)。一方で伊勢神宮や出雲大社のように早くから神仏分離して神事のみを行ってきた神社もある。明治時代には天皇を中心とした国民統合をはかるため、全ての神社で神仏分離が行われた。
日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。
神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。
神仏習合的に仏教が始まり、やがて神仏分離して『神道』と『仏教』で分けられるまでは、この3つの宗教がこの日本の精神的な基礎を支えたと考えることができる。そもそも『天皇』という称号が使われたのがこの7世紀頃が初めてであった。古代中国の最高神『天皇大帝』という言葉があり、そこから影響を受けたのだ。中国は隋の後、『唐』の時代に送った遣唐使を通じ、日本にも『天皇』という言葉が出てくるようになったと言われている。
さて、そんな蘇我馬子だが、崇峻天皇よりも力を持ってしまい、思い通りにならないならということで、自ら擁立した崇峻天皇ですら殺害するほどの暴君だった。世界に目を向けて権力を持った人間がその特権を使って人を殺すことは多々見られるが、この日本でも当然のように例外ではなかったようだ。
[聖徳太子(厩戸皇子・厩戸王)]
この馬子はあの『聖徳太子』と関係がある人物だ。上記にあるように、崇峻天皇の姉である『推古天皇』を新たに擁立した馬子は、娘婿の『厩戸王(うまやとのおう)』、つまり聖徳太子を摂政として、叔父にあたる蘇我馬子とともに政局を運営したとされている。
君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱であるなどの理由で政務を行うことが出来ない、あるいは君主が空位であるなどの場合に、君主に代わって政務を摂ること、またはその役職のこと。
そして603年には、氏姓制度に代わり『冠位十二階』を、604年には『憲法十七条』を制定し、日本を新たなステージへと押し上げた。冠位十二階は有能な人材なら位が与えられる制度で、氏姓制度のように『氏』単位ではないからより公平なジャッジがなされる。また憲法を制定した目的は、豪族が大王に対して忠誠心を持つことが根幹にあったようだ。
つまり、聖徳太子は馬子が崇峻天皇を殺害した事件を『あるべきではない』と考えた。彼は天皇を中心とした集権的官僚国家を理想としていたので、天皇家と豪族の関係はもっと区別するべきだと考えていて、それがこの二つの大きな決定事項に繋がったのである。例えばこの憲法には、
天皇の命令には必ず従うこと
というものがあり、この国の天皇中心の概念の基礎がこのあたりから作られていったのである。そう考えると、馬子が天皇を殺害するという大事件があったからこその『天皇中心精神』の発達という見方もできるようになる。だが、同時にこの憲法は仏教を国家の精神的なよりどころにするべきだと主張するものでもあり、まだまだこの時代は神仏分離の発想は根付いてなかったようだ。
聖徳太子の父親は用明天皇であり、彼が仏教を信仰していた背景があった。
冠位十二階
1 | 紫 | 大徳 |
2 | 小徳 | |
3 | 青 | 大仁 |
4 | 小仁 | |
5 | 赤 | 大礼 |
6 | 小礼 | |
7 | 黄 | 大信 |
8 | 小信 | |
9 | 白 | 大義 |
10 | 小義 | |
11 | 黒 | 大智 |
12 | 小智 |
聖徳太子と蘇我馬子がやったことをまとめてみよう。
上記の記事に書いたように、北周の丞相だった外戚の『楊堅(ようけん)(文帝)』が全権を掌握し、581年には静帝(せいてい)から禅譲を受けて『隋』を建国する。そして、589年には陳を滅ぼし、中国を統一する。
[楊堅]
楊堅は、長安に都を定めて、西晋の滅亡依以来300年にもわたる中国の分裂状態を終わらせ、久しぶりに中国を統一させた。楊堅が最も力を入れたのは、
だった。
を一体化した改革を行った。
土地を民衆に与え、死後返納させる制度。
均田農民に穀物・布・労働の3種の税を納めさせる制度。
均田農民から徴兵する制度。
土地を与え、与えられた者はその代わりに税と兵の義務を果たすということだ。また、『科挙』という試験を導入し、それまであったコネ重視の『腐敗』を断ち切り、実力を正当に評価するようなシステムを考案する。このようなシステムを勉強するために、小野妹子が遣隋使として派遣されたのである。
聖徳太子が遣隋使を送った理由は以下のとおりだ。
古く中国で、天子が臣下や諸侯に冊をもって爵位を授けたこと。漢代に始まる。
といういくつかの目的があったからだった。蘇我氏と聖徳太子は仏教という共通の思想で一致していたため、タッグを組む一つの要因となったようだ。そして彼は奈良県の斑鳩(いかるが)に『斑鳩寺(法隆寺)』を建設したのであった。
[法隆寺 著者撮影]
[法隆寺『夢殿』 著者撮影]
[法隆寺『夢桜』]
蘇我馬子たちがここまでして仏教を取り入れた理由はまだあった。実は、仏教を教えた百済は、北の高句麗からの圧力に押され気味で、日本の支援を欲しがっていた。そこで、『最先端であり、とっておきの文化』であった仏教を、援助の見返りに日本に伝えると話したのだ。
こうした背景も、日本に仏教が『重要視』されたことの一つだと言えよう。あるいは、百済からの渡来氏族であった東漢氏(やまとのあやうじ)が仏教徒だったということで、関係があった蘇我氏と、
こういうやり取りがあったのかもしれない。もちろん、ブッダの教えを勉強した私からすれば、元々彼の教えにある素晴らしいものがただ世界に通用しただけということなのだが。
とにかくこれ以降仏教は、その教えの高潔さも手伝って、明治政府の『廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)』まで多くの為政者から信仰された。
仏教寺院・仏像・経巻(経文の巻物)を破毀(破棄)し、仏教を廃すること。「廃仏」は仏を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏習合を廃して神道を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。
このようなことは秦の始皇帝(紀元前220年代)の時にもあった。始皇帝は中国を統一したとき、文字や貨幣だけじゃなく、『焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)』という言論や思想の統制を目的とした措置を行ってしまった。儒家の本を焼き捨て、儒家を穴に埋めて殺し、過度の法治(刑罰)主義を行って、ずいぶんと強硬手段を取ったのだ。
国の方向性がガラッと変わる時には、こういうことが多々見られるのである。その時は『儒教』が、そしてこの明治政府がやったのは『仏教』の弾圧だった。
さて、冒頭の記事に、『古墳時代』の当時のヤマト政権(4世紀~6世紀頃)は、倭の五王が中国南朝の『宋』に朝貢し、倭王として認めてもらおうとしたことや、鉄資源を求めて朝鮮半島へ侵攻し、百済(くだら)や新羅(しらぎ)と戦っていたことが宋の歴史書に記されていると書いた。このように、『中国皇帝が冊封する国』であった、
は、立場として中国の『下』にあったわけだ。しかし、聖徳太子はこの時、
と主張したのだ。そういう日本の態度が癪に障ったのか、当時『中国史上最大の暴君』と言われた楊堅の息子、『煬帝(ようだい)』は怒った。
[煬帝]
下記の記事にも書いたが、古代から中華は『天子』を津中心とする中華王朝が最上の国家体制で、それにどうかしない四方の異民族は、禽獣(きんじゅう)に等しいものとして、『四夷(しい)』と呼ばれていた。
東夷(とうい) | 日本、朝鮮等 |
西戎(せいじゅう) | 西域諸国等 |
南蛮(なんばん) | 東南アジア、西洋人等 |
北狄(ほくてき) | 匈奴等 |
日本もこの『四夷(しい)』の一つであり、見下す対象だったのだ。そんな日本が大王(おおきみ)を『天子(=君主)』とすると宣言するわけだから、当時の考え方、そして煬帝の性格からいってそれを見逃すわけにはいかない。
だが、隋は朝鮮半島の勢力を計算したとき、
今日本とやり合うのはまずいか…。
と考え、遣隋使を受け入れ、国交を結ぶことにしたのであった。
ちなみに、聖徳太子は初めて『忍者』を使って情報を集め、政治を行った人物として知られている。しかし、『聖徳太子虚構説』が強くなってきている昨今では、教科書から彼の存在を否定する動きが増えてきていて、今後は『聖徳太子』という名前は消え、『厩戸王』という名前だけが残る可能性がある。彼は622年に49歳で生涯を閉じた。
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