『大化の改新』
蘇我氏と聖徳太子(厩戸王)が仏教を取り入れ、中国に初めて『対等な立場』を主張!そして『忍者』が動き出す!
上記の記事の続きだ。さて、中国では隋が終わり、『唐』の時代へと突入していた。推古天皇の後の『舒明天皇(じょめいてんのう)』は唐に『遣唐使』を派遣し、中国との関係はそうして平安時代まで続いた。日本における仏教の宗派はたくさんあるが、そのうち以下の太字の二人が、この時代に唐から仏教を学び活躍した人物だった。
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では、もう一度ここまでの天皇をまとめてみよう。
つまり、舒明天皇の次は『皇極天皇、斉明天皇』だ。この二人は同一人物であり、その夫が先代の舒明天皇である。同一人物というのは、一度皇極天皇が退位し、もう一度即位したので名前が変わったからだ。その理由はこの後に分かる。
622年、聖徳太子が亡くなった後、タッグを組んでいた蘇我氏の鼻息が荒くなった。蘇我馬子自体は626年に亡くなったが、彼の息子である蘇我蝦夷(そがのえみし)、孫だった蘇我入鹿(そがのいるか)が越権行為をするようになる。そもそも、蝦夷は子である入鹿を独断で『大臣(おおおみ)』の位に就かせる等して、特権を乱用していた。更に、聖徳太子の子である『山背大兄王(やましろのおおえのおう)』を死に追いやったのだ。
しかも入鹿は彼の一族をも自害させたのだ。これは、実は父の蝦夷でさえ不本意だったという、入鹿の暴走だった。これに危機感を抱いたのが皇極天皇の息子で、後の『天智天皇』でもある、『中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)』と、その腹心の『中臣鎌足(なかとみのかまたり)』だった。
[中大兄皇子 天智天皇]
彼らが出会ったのは『蹴鞠(けまり)』だった。中大兄が法興寺で蹴鞠をしていたとき、うっかり苦衷を蹴り、沓(くつ)が脱げて飛んでいった。そこにいたのがこの鎌足だったのだ。こうして知り合った二人は自分たちに共通点があることがわかり、利害が一致する。そして彼らは考え方の違いから蘇我入鹿を暗殺することを決意。そして『乙巳の変(いっしのへん)』が起こったのである。
蘇我入鹿
中大兄皇子
蘇我氏は元々豪族なわけだから、それが有利になるように運ぼうとしていた。しかしそれを阻止し、天皇を中心とした中央集権国家を作ろうとして、天皇の息子であった天皇側の中大兄皇子は、中臣鎌足と一緒に蘇我入鹿を殺害したのだ。そして、それを聞いた父の蝦夷は自宅に火を放ち自害し、蘇我本宗家は滅びた。元々入鹿の暴走が目に余っていた故、蝦夷はそこでけじめをつけようとしたのだろう。
[乙巳の変]
こうして革命を起こした中大兄皇子は、蘇我入鹿に代わって実権を握る。中大兄皇子の母である皇極天皇は、弟の孝徳天皇に位を譲り、そして『大化の改新(645年)』と言われる政治改革を推し進めた。
天皇 | 孝徳天皇 |
皇太子 | 中大兄皇子 |
内臣(うちつおみ) | 中臣鎌足 |
中国の影響を受けていた中大兄皇子が指揮を執ることになった日本は、この時から中国同様『元号』が制定され、日本初の元号『大化(645年~650年)』が制定されることになった。意味を詳しく書いてある参考文献はないが、この革命的な乙巳の変を考えるからに、文字通り『大きく化ける(変わる)』時だったという意味が込められているのだろう。
翌646年には『改新の詔(みことのり)』が発せられる。
改新の詔(みことのり)
- 従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。
- 初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする。
- 初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする。
- 旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定することとする。
簡易版はこうだ。
第一条 | 公地公民制 | 民も土地も国のものであり、個人や豪族のものではない |
第二条 | 地方行政制度 | 中央から地方の間に道路を作る。地方行政をつかさどる役所を設ける |
第三条 | 班田収授法 | 戸籍を作り民を管理。民に農地(口分田)を貸し与える |
第四条 | 税制 | 口分田でできた稲をはじめとする納税義務 |
このような政策の根底にあるのは、『天皇を中心とした中央集権国家』の確立だった。
その他の出来事
- 都が飛鳥から難波に移る
- 右大臣、左大臣という役職ができ、律令官制の原型ができる
これは、中国の中央集権、つまり『国でバラバラの権力者がいるのではなく、中央に一人の権力者がいて統治する』というシステムを真似たもので、日本が隋や唐から学んだとき、
日本も天皇を中心とした中央集権国家にしたいなあ…。
という考えが要人の中で沸き起こり、それが実現した形だった。つまりそう考えると見えてくるのは、『始皇帝』の存在である。秦の王、嬴政(えいせい)が紀元前221年、ほかの6国を滅ぼし、史上初の中華統一を成し遂げた。
始皇帝は、都の咸陽(かんよう)に巨大組織を作り、統治を開始する。中央から都に官僚を派遣して統治させる中央集権体制を築く。この体制自体は実に2000年にもわたって受け継がれているので、始皇帝はこの意味では、中国にとても大きな貢献をしたことになる。そしてその影響が及んだのは中国だけではなかったのだ。こうして日本の『天皇を中心とした国家』システムの根幹には、彼の存在があったのだ。
ただ始皇帝の場合は先ほどの『焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)』然り、思想面をも統一してしまって無理が生じ、わずか15年で滅んでしまった。そこから学んだ次の王朝『漢』は、儒教を国教にしながら取り入れ、法律と合わせて最強の統治ツールを作り、前漢、後漢と合わせると実に400年もの間その統治を維持し続けることができたのである。
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こうした歴史から多くを学んでいたはずの隋や唐から学んだ日本は、天皇を中心とした中央集権国家を作る際に当然『思想面』において十分に配慮をしたことだろう。
例えば、下記の記事に書いたように、1600年頃のロシア、ロマノフ朝はロシア正教会の影響が強く、他の国が経験したような宗教戦争による内乱とは無縁だった。そのため、皇帝が政治的にも宗教的にも強力な権威を持ち、『ツァーリズム(専制政治)』が成り立ち、統治は安定していた。
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同じように、この日本でもこれといった大規模な『宗教戦争による内乱』はない。ロマノフ朝と同時代の1600年代に、天草四郎がキリシタンとして弾圧を受けるが、フランシスコ・ザビエルが来日した1550年頃までキリスト教はないし、
- 神道
- 仏教
- 儒教
の3大宗教(精神基盤)がうまく習合したことで、この国で始皇帝時代にあったような『国民の精神崩壊』的な現象はほとんど見られなかったようだ。
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だが、実はこの蘇我氏について書かれているのは『日本書紀』で、それはおおむね潤色・改変されているという。例えば旧約聖書で『モーセが海を割った』話や『アダムとイブ』の話をどう捉えるかということはその人次第だが、そのように、歴史の記録というのは往々にして人に手が加えられてしまうものである。
もし『極悪人の蘇我入鹿』が作り上げられた人物像であれば、ここにこういうシナリオが浮かび上がってくることになる。
天皇を中心とした中央集権国家を作るために、天皇側が用意した大義名分(シナリオ)。
力づくで権力を奪い返し、その奪い返した方法が『殺人』だっただけに、それを正当化するには相手を極悪人にするしかない。極悪人は成敗されるのが正義ドラマの相場である。極悪人であれば斬られて死んでも人々は拍手し、斬った本人を称賛するものだ。まあ、これは一つの仮説だが、確実なエビデンス(証拠)がない場合は、何事も過信、妄信しないことが真実を知るための第一歩である。
さて、中大兄皇子は孝徳天皇を即位させて大化の改新を進めていた(国づくりをしていた)わけだが、そのうち二人の意見は合わなくなり、対立してしまった。そして、難波の都から飛鳥に移る。すると、中大兄皇子側にほとんどの臣下がついてきてしまった。その後、残された孝徳天皇は難波で生涯を終えるのだった。
ここでようやく『斉明天皇』が出てくる。つまり、皇極天皇が斉明天皇の名で再び即位したのだ。のちに『天智天皇』となる中大兄皇子がここで天皇にならなかったのは、やはり乙巳の変の時の強引なやり方と、豪族から土地を取り上げる強引な手法によって多くの敵を作ってしまっていたらしく、それが原因で時期を見たと考えられている。こういうことからも、先ほど私が推測した一つの仮説も、現実味を帯びてくるわけだ。
この強引な手法を正当化できる、人々が納得するようなシナリオはないだろうか。
もし私がその立場だったら、ひとまずはこういうアイディアが思い浮かぶというものである。
さて、個人的な想像はさておき、斉明天皇のとき、以下の3つのエリアが問題となっていた。
- 東北の蝦夷(えみし)
- 南九州の隼人(はやと)
- 朝鮮半島の百済(くだら)
最初の二つはただ『未開拓エリア』だ。この地をどのように征服し、支配下に入れるかということがテーマとしてあった。だが大問題だったのは百済だ。当時、中国の唐は新羅と手を組み勢力を拡大。すでに壊滅していた伽耶諸国を考えると、後はもうこの百済しか残っていなかった。
朝鮮半島の勢力
北 | 高句麗(こうくり、こぐりょ) |
中央西 | 百済(くだら) |
中央東 | 新羅(しらぎ) |
南 | 伽耶(かや)諸国 |
百済は倭国(日本)に救済を求め、中大兄皇子としてもこのエリアを失うことは避けたかった。663年、倭国は大軍を率いて朝鮮半島の白村江に進撃。だが、この遠征の途中で斉明天皇は亡くなった。こうして天皇が空席の状態で挑んだ『白村江(はくそんこう)の戦』だったが、唐・新羅連合軍に大敗する結果となる。
これによって唐の脅威から身を守る必要が出てきた倭国は、九州の太宰府周辺や瀬戸内海に城を築き、
都を近江大津宮に移し国内改革を早める。
中大兄皇子
ちなみにこの大宰府は、磐井の乱で懲りたヤマト政権が、朝鮮半島との外交および軍事をつかさどる役所として設けたのが始まりだった。したがって、この白村江の戦いで敗北したことで、まずここの防御を強化することが先決となったのだ。水堀を作って博多湾から上陸した敵を足止めしたり、北東にそびえる大野山に城を築いた。更に、有明海からの侵攻に対して基山山頂にも城を築くなどして防御力の強化を図った。
大津宮に遷都した中大兄皇子は、ようやくここで『天智天皇』として即位。この場所を都にした理由は、
- 海から遠く外敵からの防衛に適している
- 国内の交通の便がよい
- 反対派の豪族が少ない
というものだった。やはり彼の頭に常にあったのは『自己防衛』だったようだ。だが、わずか3年で崩御してしまっている。つまり亡くなったのである。だが、彼は『全国を対象とした初の戸籍(庚午年籍(こうごねんじゃく)』を採用。これによってこの国の人々に戸籍ができるようになったのだ。それによって徴税や徴兵等の管理がしやすくなったが、やはり豪族に対しては厳しくて、彼らの所有する民衆や土地を取り上げることになり、豪族たちからの不満が高まってしまった。
中大兄皇子は生前、
- 子:大友皇子(おおとものおうじ)
- 弟:大海人皇子(おおあまのおうじ)
の二人が後継者にふさわしいと考えていた。はじめは弟だったが、最後の方は子に譲る気持ちが高まっていた。そういった理由から二人は継承者争いをしてしまい、大海人皇子が吉野を抜け出して挙兵する。
兵を集めて軍事行動を起こすこと。 旗揚げ。
こうして中大兄皇子が亡くなった翌年の672年、古代朝廷における最大の継承争い『壬申の乱(じんしんのらん)』が起こった。そして、有力な地方豪族の後ろ盾があった大海人皇子が勝利し、『天武天皇』として即位したのである。
[大海人皇子 天武天皇]
欽明天皇以降の天皇
この弘文天皇というのが、大海人皇子に敗れた大友皇子だ。彼は一時的に即位したとか、していないという話がある。どちらにせよこの壬申の乱で敗北した一か月後に自害してしまった。
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