『奈良時代』
上記の記事の続きだ。さて、飛鳥時代というのは『継体天皇(あるいは推古天皇)~持統天皇』の時代であり、奈良県中部の飛鳥の地に皇居があったためそう呼ばれているわけだが、持統天皇の時代を持って飛鳥時代は終わりを迎えることになると記載した。それは参考書に書いてあるからだ。
しかし、厳密には次の『奈良時代』の定義は、広義では、710年に元明天皇によって平城京に遷都してから、794年に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間。狭義では、同じく710年から、784年に桓武天皇によって長岡京に都が移されるまでの74年間を指す。このあたりは、各専門家によって意見が異なっているようだ。つまり、710年というのはどちらにせよ文武天皇の母、『元明天皇』の時代だからである。
舒明天皇以降の天皇
文武天皇が亡くなり、彼の母、元明天皇の時代になった。だが、実際には彼女は次の『聖武天皇』の中継ぎとして、臨時に天皇に即位したようだ。まだ聖武天皇が7歳だったから彼女がその中継ぎを担ったのである。そういうことが奈良時代の幕開けを彼女の時代からと考えない一つの発想に繋がっているのかもしれない。
[元明天皇]
さて、文武天皇から政権の中心にいたのは、中臣鎌足の次男である『藤原不比等(ふじわらのふひと)』だった。中臣鎌足は死の前日に、天武天皇(中大兄皇子)から『藤原』の姓を与えられていたのでこの名前になった。文武天皇の時代の『大宝律令』は、
といった人物が中心となって作ったので、元明天皇になってからも藤原不比等はまだ力を持っていた。彼が力を発揮し始めたのは持統天皇期の後半からで、この大宝律令の作製によって朝廷から大きな信頼を得た。701年(大宝1年)には大納言に、そして708年(和銅1年)には右大臣に出世していた。彼が50歳の時である。彼はこの後明治維新まで続く『藤原氏』の繁栄の基礎となった男である。
[藤原不比等]
今、『和銅』という年号が出てきたが、707年、元明天皇が即位した翌年に、武蔵国で純度の高い銅が発見される。このことを記念し、国の年号が『和銅』になったのだ。だから708年は和銅1年となるのである。そして、『和同開珎』という貨幣が作られる。
冒頭の記事にも書いたように、日本で最初の流通貨幣と言われるのがこの『和同開珎(わどうかいちん)』だ。そのモデルになったのは天武天皇の時代に作られた富本銭で、和同開珎以前にあった通貨は、
の2つである。ここから平安中期まで12種類の波形が作られ、それらをまとめて『本朝十二銭』と呼ぶ。だが、やはり貨幣の導入初期の当時、稲や布などを貨幣の代わりにして、物々交換で経済が回っていた習慣からなじむのに時間がかかった。そこで、『畜銭除位令』という例を定め、
としたのだが、
じゃあ使わずに貯めるか…。
と考える人が出てしまい、『貨幣を使う』という結果に繋げることができなかった。
[和同開珎]
ちなみに、史上初の世界帝国アッシリアは、アッシュル・バニパルの『残酷性』によって崩壊した。彼の統治はあまりにも残酷であり、抵抗した国家を徹底的に破壊していくき、支配に逆らう民族を容赦なく虐殺していった。このような圧政によって諸民族の反乱を受け、アッシリアは崩壊。そして、
の4つに分断されることになるが、この紀元前7世紀頃にあったリディアが世界最古の金属貨幣を作った。ここが人類のお金の歴史の始まりである。そう考えるとそれから1400年も経った708年の日本は、この部分ではガラパゴス化していたと言えるだろう。
[世界最古のリュディア貨幣(紀元前6世紀頃)]
さて、元明天皇の時代に藤原京から平城京(奈良県奈良市周辺)に遷都されるのだが、これを決断するのはそう簡単ではなかっただろう。何しろ、その藤原京は、平安京、平城京以上の規模の都であり、天武天皇の時代に、天皇が変わっても政治の中心を動かさないようにこの藤原京を造営したのだ。
だが、これがどうも何かとモデルとするべき対象の『唐』の状況とは違っていたのだ。大宝律令と言い、何かと中国の影響を受けていた日本は、この政治の中心である都、藤原京の位置が気に食わなかった。したがって、たったの15年で藤原京は平城京へ遷都されたのである。また、長安の繁栄も関係していた。長安のように繁栄するために、様子が異なる藤原京はどうしても変える必要があったのだ。
[平城京跡)]
かつて『隋』を作った楊堅は、長安に都を定めて、西晋の滅亡依以来300年にもわたる中国の分裂状態を終わらせ、久しぶりに中国を統一させた。以来長安は、唐の時代にあっても繁栄を続けていた。
実は、先ほど『飛鳥時代というのは『継体天皇(あるいは推古天皇)~持統天皇』の時代だ』と書いてあった参考書には、そのあとに『こうして平城京の遷都から長岡京や平安京へ遷都されるまでの時代を奈良時代と言います』として、後のページに追記している。それなら、『飛鳥時代というのは『継体天皇(あるいは推古天皇)~元明天皇』の時代だ』と書けばいいわけだが、そう書かない理由というものが前述したような要因その他のいくつかにあるのだろう。
だが、前述したように『奈良時代』の定義は、広義では、710年に元明天皇によって平城京に遷都してから、794年に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間。狭義では、同じく710年から、784年に桓武天皇によって長岡京に都が移されるまでの74年間を指す。ここからようやく本格的に奈良時代が始まるのである。
藤原京も平城京も、どちらも奈良県。
さて、奈良時代に入った710年。相変わらず藤原不比等は力を持っていた。今までの『天皇を中心とした中央集権国家』作りの歴史を見てみよう。
天皇崇拝が作られていく歴史
このようにして中央集権化は進んできたが、藤原不比等もこの歴史に大きく貢献した人物だった。それは、この文武天皇の時代に作った大宝律令を彼が作ったということも大きな理由の一つである。
また、下記の記事に、中大兄皇子が天武天皇となる前の、斉明天皇のとき、以下の3つのエリアが問題となっていたと書いた。
百済については記事に書いたが、最初の二つはただ『未開拓エリア』だ。この地をどのように征服し、支配下に入れるかということがテーマとしてあった。
元明天皇、藤原不比等の時代に、この未開拓エリアの蝦夷、隼人に対して制服活動が行われ、支配領域が拡大するのだ。これもかれが 中央集権化に貢献した内容の一つである。
[真福寺収蔵の国宝・『古事記』。信瑜の弟子の賢瑜による写本]
和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。日本の神話や伝承、天皇たちの物語をまとめたもの。
元明天皇が引退しようとしたとき、本命の聖武天皇はまだ幼かった。したがって、彼女に続き元正天皇(げんしょうてんのう)がまたもや中継ぎ役を担った。彼女は元明天皇の娘であり、文武天皇の姉であり、母から娘に天皇が継承された唯一の例となった。
[元正天皇]
この時、まだまだ政権の中心は藤原不比等だった。彼は更に、大宝律令の加筆・修正版の『養老律令』を作成し、国に貢献した。彼は、自分の娘を聖武天皇に嫁がせる等して、藤原氏にも貢献。720年に亡くなったときには、元正天皇が彼を悼み、『太政大臣』にし、『正一位』を贈って敬意を表したほどだという。彼には、
がいて、この娘たちを通して、その後の藤原氏もますます天皇家と深いつながりとなっていった。彼の父である中臣鎌足は、天皇一族だった中大兄皇子と一緒に『乙巳の変』で蘇我入鹿を殺害し、『大化の改新』で『天皇を中心とした中央集権国家』づくりに貢献したわけだから、天皇家と中臣(藤原氏)はその時から深い絆で結ばれていたと考えられるのである。
藤原の姓は、後に不比等直系の子孫のみに名乗ることが許され、傍系の藤原氏は『中臣』姓に戻された。歴史上に登場する藤原氏の祖先は、不比等ただ一人ということになる。
[日本書紀(平安時代の写本)]
養老4年(720年)に完成した。中国の歴史書をモデルにして作った歴史書で、神代(日本神話)から持統天皇の時代までを扱う。
天皇の神話については上記に書いたが、古事記と日本書紀に書かれているものもこの日本神話だった。基本、神代(イザナギ、イザナミ→初代天皇の神武天皇)から王朝が一度も断絶することなく天皇家が統治し続けてきたことを強調しており、戦前の天皇崇拝国家だった時期までは、これらの神話の要素はすべて史実として扱われていた。
[天岩戸神話の天照大御神(春斎年昌画、明治20年(1887年))]
藤原不比等は日本書紀が作られた720年に亡くなった。すると、彼に代わって皇族の『長屋王』が政界のリーダーとなった。彼の時にあった問題は『口分田が足りない』ということだった。文武天皇の時代に藤原不比等たちが作った大宝律令を見てみよう。
民衆の管理
口分田(くぶんでん) | 収穫の一部は祖(そ)という税金として徴収 |
強制貸付 | 植え付け用の種もみを通して利子(租税)を徴収 |
庸(よう) | 都での10日の労役の代わりに布を納める徴収 |
調(ちょう) | 各地の特産物を納める徴収 |
雑徭(ぞうよう) | 地方の国司のもとで年60日以下の労働を行う |
徴兵 | 3~4人に一人、兵役として周辺の治安維持を行う |
口分田とは、民衆へ一律に支給された農地である。農地を支給し、そこで収穫することを許可し、その代わりに一部を税金として納めるというシステムだったわけだ。だが、この表を見ても分かるように民衆に課せられた納税の義務はその他にもいくつもあって、彼らの肩の荷は重かった。したがって彼らは、
等の行動を取り、なんとかその責務から逃れようとしたのだ。こういう風に、『国益』の為のシステムが民衆の負担となり、しわ寄せが彼らに来て、餓死、あるいは革命といった形を取るしかなくなる、つまり『追い込まれる』例は世界中にある。
例えば『五か年計画』、『大躍進政策』で、列強を追い越そうとする独裁者気質の強かった毛沢東。彼の強引な政治手法で、表面的には生産力が急増したと報告したが、実際には違ったし、できた鉄鋼の大半は粗悪品。また、食糧増産に成功したという虚偽の報告と現実の帳尻を合わせるために、農民から食料を没収して、それを生産品と偽る。このせいで、数年で実に数千万人の餓死者を出す(その数3,500万人以上とも)結果となってしまったのだ。
また、『フランス革命』があった時代もそうだ。当時のフランスは、絶対王政の時代。度重なる対外戦争や宮廷の浪費がフランスの財政を大きく圧迫し、そのしわ寄せが国民の多数を占める第三身分の『平民』に来ていた。
国王 |
第一身分 | 聖職者 | 約12万人 |
第二身分 | 貴族 | 約40万人 |
第三身分 | 平民(市民、農民) | 約2450万人 |
これによって自国の王と王妃がギロチンで公開処刑されることになるという、世界を震撼させる革命的事件を引き起こしてしまったのだ。
そして、それは720年代の奈良時代の日本でも同じだった。その二例ほどの事件には発展しないものの、『国益の追求をしたら民衆にしわ寄せが来て、民衆が悲鳴を上げた』という点で、同じことだったのである。
更にそこに『口分田自体が足りない』という事態に発展。つまり、人口が増えたのだ。人口が増えたからその人々にまた口分田を見つけてきて与えなければならないが、それを見つけるのにも苦労したのである。そこで長屋王は、
百万町歩の開墾計画 | 農民に食糧、道具を渡して開墾作業を行わせる |
三世一身の方 | 土地を開いた者に三代(一代)に渡り私有を認める |
という対策を出すが、どれも問題解決の決め手にはならなかった。こうした問題を抱えたまま、『聖武天皇』の時代へと移り変わることになる。
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