『鎮護国家』
上記の記事の続きだ。さて、ここまでの天皇の歴史を見てみよう。
天智天皇(中大兄皇子)以降の天皇
文武天皇の時代に藤原不比等たちが作った『大宝律令』は『唐』からヒントを得た画期的な政治システムだったが、民衆に課せられた税金等は彼らの肩の荷となり、彼らは何とかしてそれを逃れようとするし、人口が増えて口分田自体が足りなくなるという、二つの大きな問題を抱えていた。そしてその問題は、
の肩の荷としてのしかかった。また、同時にあったのは権力争いだった。聖武天皇になったとき、この長屋王から政権の座を奪おうと、かつての藤原不比等の子、『藤原四子』が何やら不気味な動きをしていた。729年、長屋王は国家を傾けようとする疑いをかけられ、自害に追い込まれた。実は、この『長屋王の変』はこの藤原四子の策略だったというのだ。
彼らは聖武天皇の妻であった異母妹の光明子を皇后にし、皇族以外の皇族を初めてこの国に打ち立てた。しかし、737年、天然痘の流行で全員が亡くなってしまうという不幸がおき、人々はこれを『長屋王の祟り』と噂したようである。
では聖武天皇はどうする。長屋王、そして藤原四子といった元気のある勢力を失い、天皇家と藤原氏は、大きな痛手を負っていた。その後、光明子の異父兄にあたる橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を握るが、再び藤原氏が反乱を起こし、貴族間の争いが激化するようになる。
このように、藤原氏と皇族が交互に政権を握る流れがあったことを見ても、その権力争いの激しさが垣間見えるのである。橘諸兄は、
といった人物を中心に政治を行うが、藤原氏の藤原広嗣(ひろつぐ)が彼らを引きずり降ろそうとして聖武天皇に訴え、反乱を起こす。しかし、これは鎮圧され、藤原氏の勢力は一時その勢いを失った。ちなみに彼ら同様に遣唐使だった人物には、
という歴史的な人物が存在していた。
日本の中心的な仏教の宗派
聖武天皇は、
という重い肩の荷を背負わされ、何かと苦労した天皇だった。そして同時に、こうした様々な問題を抱えた民衆たちの不満は、ピークに達してしまっていた。
聖武天皇は740年、心機一転を試み、
に遷都するのだが、造営工事などの負担が人々を苦しめ、世の中の動揺も収まることはなかった。
結局745年に平城京に戻るが、その間に、
を建てることを命じていた聖武天皇は、743年に『大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)』を出す。
(大意)私は天皇の位につき、人民を慈しんできたが、仏の恩徳はいまだ天下にあまねく行きわたってはいない。三宝(仏、法、僧)の力により、天下が安泰になり、命あるものすべてが栄えることを望む。ここに、天平15年10月15日、菩薩の(衆生救済の)誓願を立て、盧舎那仏の金銅像一体を造ろうと思う。国じゅうの銅を尽くして仏を造り、大山を削って仏堂を建て、広く天下に知らしめて私の知識(大仏造立に賛同し、協力する同志)とし、同じく仏の恩徳をこうむり、ともに悟りの境地に達したい。
天下の富や権勢をもつ者は私である。その富や権勢をもってこの像を造ることはたやすいが、それでは本意を達することができない。私が恐れているのは、人々を無理やりに働かせて、彼らが聖なる心を理解できず、誹謗中傷を行い、罪におちることだ。だから、この事業に加わろうとする者は、誠心誠意、毎日盧舎那仏に三拝し、自らが盧舎那仏を造るのだという気持になってほしい。たとえ1本の草、ひとにぎりの土でも協力したいという者がいれば、無条件でそれを許せ。役人はこのことのために人民から無理やり取り立てたりしてはならない。私の意を広く知らしめよ。
聖武天皇は大仏造立のために、
と言ったのだ。実際に大仏の原型制作と鋳造のためには大量の土を必要とし、東大寺大仏殿は実際に山の尾根を削って造成されたものであることがわかっている。
[盧舎那仏像(大仏、国宝) 著者撮影]
東大寺の大仏の作成方法
つまり、この窮地に聖武天皇が救いを求めたのは『仏教』だったのである。この背景にあったのは『鎮護国家(ちんごこっか)』という、仏の力を借りて国家を守る思想だった。大仏は、その滋賀県の紫香楽宮に作る予定だったのだが、地震、不審火が相次ぎ、現在の東大寺の土地に作ることになった。
540年頃、朝鮮半島で『最先端であり、とっておきの文化』であった仏教は、援助の見返りに日本に伝えられた。
あるいは、百済からの渡来氏族であった東漢氏(やまとのあやうじ)が仏教徒だったということで、関係があった蘇我氏と、
こういうやり取りのもと、伝えられたのかもしれない。とにかくこうして日本には、
儒教 | 弥生時代に渡来人によって伝来 |
仏教 | 飛鳥時代に渡来人と馬子達によって伝来 |
神道 | その基礎となる天皇やアニミズムが浸透 |
という3つの宗教が入り混じった。神仏習合的に仏教が始まり、やがて神仏分離(1880年頃)して『神道』と『仏教』で分けられるまでは、この3つの宗教がこの日本の精神的な基礎を支えた。
日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。
神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。
あれから200年の歳月を経て、『波乱万丈の出来事』を通し、ようやくこの国の要人は、
自分ひとりの力では無理だ…
と悟り、謙虚な心を持ち始め、まるで、真理の力に背中を押されるようにして仏教に目を向けるようになったのだ。ちなみに私は無宗教だが、当サイトを見てわかるように多くの勉強を積んだ者である。
未だ未熟ではあるが、大体のことは分かっている。あるいは、ことそれらの教えの根幹にあるものの見極めということで言えば、人一倍造詣は深いはずだ。
人一倍よく知っていること。
ブッダの教え、つまり仏教の根幹にあるのは『真理』である。例えばこういう言葉がある。
例えば『諸行無常』の言葉とはそれすなわち、全ては流動変化していることを知る悟りである。
時間は流れ、宇宙はうごめき、命の火は消え、物質は分かれる。風は吹き荒れ、大地は鳴り響き、海は揺らいで、炎は燃え盛る。
この世はそうなっているのである。こうした『真理』を教えているのが仏教や儒教なのだ。実は、孔子の教えである儒教も仏教に負けず劣らない高潔な教えばかりだ。その他の宗教もそうだが、どちらにせよこれらの根幹にあるのは『浮世離れした真理』である。
『浮世』とは、『つらくはかないこの世の中。 変わりやすい世間』という意味である。つまり、人間が暮らす社会とはこの浮世であり、ここでは多くの誤謬(ごびゅう。間違い。判断ミス)があり、人はよく道を踏み外しがちである。その理由の一つは、人間に欲望があるからだ。例えばキリスト教の7つの大罪はこうだ。
キリスト教の7つの大罪
これらはすべて『人間の欲望を間違った方向に向けた結果』である。そしてその根幹にあるのは欲望なわけだ。では、儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦』、古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』の、四名の歴史的賢人の罪の定義を見てみよう。
孔子 | 利己 |
ソクラテス | 無知 |
ブッダ | 執着 |
キリスト | 罪 |
キリストの『罪』はどういう意味かということだが、罪という言葉をを紐解くと、『的を外す』という言葉にたどり着く(『罪』という言葉は、過ちを意味するラテン語の『peccatum』の訳語である。これは、聖書のギリシャ語『hamartia』の訳語である。これは不足や誤りを意味するが、元々はヘブライ語の『hatta’t』の訳語である。これを忠実に訳すと『的を外す』となる)。『罪を犯す』とは『的を取り違える』、『自分の欲望を間違った方向に持っていくこと』である。
つまり、この世にある『偉人が教えた崇高な真理』は、宗教としてまとめられているものも、そうじゃないものも、長くこの世に残り、そしていつまでもその輝きを失わないことを見ても『真理』そのもの。
いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。
聖武天皇も、その前にあった権力者たちも、いつでも権力争いの為に人を殺し、罠にはめ、力に執着して利己に走ってきた。それすなわち無知である。だからこそ人々の動乱を招き、世は混沌に陥ったのだ。その時、仏教が教えた執着を捨てるという真理は、とりわけ聖武天皇の胸に突き刺さったのだろう。彼は鎮護国家の思想を軸に大仏の建立を決意し、国民に光を照らしてもらうよう、願ったのであった。
[行基菩薩坐像(唐招提寺蔵・重要文化財)]
また、聖武天皇が仏教を信用したのは『行基(ぎょうき)』という僧侶の存在の影響もあったかもしれない。彼は仏教の布教活動をしていたら、『世間を惑わすうつけもの』扱いされ、朝廷から名指しで弾圧された。だが、彼は屈せず布教と共に社会活動を続けて農民や豪族たちの支持を得て、弟子や信者とともに寺院をはじめ、
などの数多くの大規模な土木事業を実現させた。やがて、圧倒的な信頼を集めるようになった行基を、聖武天皇は重用することいなる。そして、東大寺を造る際には勧進、つまり仏教のリーダーに彼が採用され、日本初の最高層位『大僧正(だいそうじょう)』になったほどの人物だった。しかし、彼は749年に82歳の年で死去した。大往生だっただろう。
下記の記事に書いたが、
アッバース朝は、766年も新都バグダッドで繁栄を誇った。『タラス河畔の戦い』の後、ここを中継地に東西の交易や文化の交流が盛んになる。その交易路として活路を呈したのが『シルクロード』である。このシルクロードを使って、商品は『唐』から生糸や陶器、茶などを西方に運び、西からは金銀などの貴金属や毛織物を運び、利益を上げた。
東の唐王朝、西のアッバース朝を結んだ東西交易路
これによって唐とアッバース朝だけではなく、世界中の国々の貿易が盛んになった。
このシルクロードを通して東大寺正倉院には、様々な宝物が揃った。これを『天平文化』という。聖武天皇は、遣唐使船が持ち帰った、
唐のシルクロード周辺各地の文物を愛用した。彼の死後、皇后がこれを東大寺に寄進。そして、650に及ぶ世界の貴重な品々が東大寺の正倉院に収蔵された。また、奈良時代は飛鳥時代の主流だった金属製の金銅仏に代わり、加工しやすい粘土製の仏像製作が盛んになった。なかでも、
などが代表的となった。その後、奈良時代後期には鑑真によって木彫りの仏像が伝わり、日本の彫刻作品は木像が主流となる。平城京がシルクロードの東の終着地だったと言われている。
[興福寺阿修羅像(奈良時代)。国宝]
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