『宇佐八幡宮の神託』
追い詰められた聖武天皇が上を見上げると、そこにはブッダの教えがあった。鎮護国家の誕生
上記の記事の続きだ。
墾田永年私財法
更にこの年には、自分で開墾した土地は永久に私有を認める『墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう』が制定され、民衆の肩身は徐々に広くなっていった。長屋王が考えたシステムの次に、このシステムが導入されたわけである。
百万町歩の開墾計画 | 農民に食糧、道具を渡して開墾作業を行わせる |
三世一身の方 | 土地を開いた者に三代(一代)に渡り私有を認める |
墾田永年私財法 | 自分で開墾した土地は永久に私有を認める |
確かに徐々に民衆にとって有利にはなっていった。それも、トップが苦労し、窮地に追い詰められ、真理に背中を押された結果だろう。しかし、この墾田永年私財法も、実は問題の根本解決にはならなかった。真理というのは不思議なもので、
- 真理を見つけられないと思う
- 真理を簡単に見つけられると思う
この二つが両方とも間違っているのである。例えばこの時、墾田永年私財法は民衆の不満を解決するいい解決策として浮かび上がったかもしれないが、この仕組みの『穴を突いた』というのか、かいくぐった輩が登場してしまい、この1000年以上後のマルクスが懸念した『格差ある社会』の形成の手助けとなってしまった。
1750年あたりからイギリスで『産業革命』が起こり、人はより多くお金を稼ぐことができるようになった。それ自体はいいのだが、お金を稼ぐことができる人は一部に限ってしまう。
- 社長的立場で仕事を与える人
- 社員的立場で仕事をする人
当然、前者がお金持ちになり、後者との格差が広がっていく。マルクスは、『社会主義社会』という『格差がない平等な社会』が来るはずだと予想し、お金持ちだけが優遇される『資本主義社会』を批判した。
マルクスは貴族を『ブルジョワジー(資本家)』と呼び、労働者を『プロレタリアート(労働者)』と呼んだ。プロレタリアートが労働にしか生きる術を持たないにもかかわらず、労働することによってますます疎外されていくと考えた。つまり、プロレタリアートが生産した商品は資本家が所有し、資本家はそれを売って利益を得るため、プロレタリアートは永遠にその輪の中から外に出ることができない。
労働者のこと。
資本家のこと。
哲学史上、現実に最も大きな影響を与えた男、カール・マルクス登場
墾田永年私財法で、確かに『祖』として納税した後の取り分が増え、民衆は『副収入』が増えた。だが、土地の開墾ができる余裕があったのは貴族や豪族などの豊かな階層だった。マルクスの言う『ブルジョワジー』だけが開墾できたのだ。更に、土地を捨てて逃げた農民を小作人として使役し、そこに上下関係(主従関係)ができれば、ますます貧しい『プロレタリアート』との格差が開く一方になる。
このように、公地公民の枠から外れた私有地を『荘園(しょうえん)』といい、奈良時代から平安時代初期の荘園は『初期荘園』と呼ばれている。このような予期せぬ問題が起きたことにより、墾田永年私財法も結局は問題解決の決定打とはならなかった。そして、公地公民と班田収授は次第に崩れることになった。
土地と人民はすべて国家の所有とし、私有を認めないこと。
公民に一定額の田地を分け与え、収穫した稲を徴収する(納税させる)こと。
その後、聖武天皇は退位。娘の孝謙天皇が即位し、聖武天皇は上皇という形で政務を手伝った。奈良の大仏が完成し、その4年後には聖武天皇が死去。そして橘諸兄も死去すると、天皇側の勢力が弱くなってしまった。
[孝謙天皇]
かつて、藤原氏の藤原広嗣(ひろつぐ)が彼らを引きずり降ろそうとして聖武天皇に訴え、反乱を起こすが鎮圧され、藤原氏の勢力は一時その勢いを失った。だが、こうして天皇側の勢力が弱くなると、またここで藤原氏の鼻息が荒くなってくるのである。そして、孝謙天皇の母であり、聖武天皇の妻、つまり皇后の立場だった光明皇后の後ろ盾を得た藤原仲麻呂(ふじはらのなかまろ)が実権を握るようになったのだ。
天皇側と藤原氏側の権力争い
そして、藤原→天皇、という勢力争いは再び再燃し、これに対抗して橘諸兄の子、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が潰しにかかるが、計画の段階でこれが鎮圧された。この『橘奈良麻呂の変』を経て、藤原仲麻呂は独裁的な権力を得ていったのだ。
橘奈良麻呂の獄死の記述が見当たらないのは、孫が嵯峨天皇の皇后となったためともいわれ、のちに太政大臣の位を送られている。
こうして力を得た藤原仲麻呂は、淳仁天皇(じゅんじんてんのう)を即位させた。天武天皇の孫だった彼はほとんど『お飾り』のようなもので、そのハリボテ天皇のおかげで藤原氏の思い通りにできた。その後彼は淳仁天皇に『恵美押勝(えみのおしかつ)』という名をもらい、太政大臣の位にのぼり、権力を独占した。だが、
- 彼の後ろ盾であった光明子が亡くなる
- 孝謙上皇と道鏡(どうきょう)の権威が高まる
という2つの条件によって、次第にその地位も怪しいものになってきた。聖武天皇の妻だった光明子が亡くなり、聖武天皇の娘で、淳仁天皇に天皇の座を譲り、上皇となった孝謙上皇と、僧侶の道鏡が『恋仲』にも似た関係で接近し、この藤原氏の勢力と対立するようになった。
藤原仲麻呂(恵美押勝)・淳仁天皇 VS 孝謙上皇・道鏡
恵美押勝が先手を打ち、道鏡の排除を狙って挙兵するが、孝謙上皇がそれを阻止。兵を迅速に動かしてそれを破り、その戦の中で恵美押勝は殺されてしまう。
恵美押勝
孝謙上皇
その後、淳仁天皇は天皇から降ろされ、淡路国に流される。そして、この『恵美押勝の乱』に勝利した孝謙上皇は再び天皇に即位し、『称徳天皇』となったのであった。そして、藤原仲麻呂に政権を握ったのは、道鏡となったのである。
[称徳天皇]
道鏡は、
- 太政大臣禅師
- 法王
という政界、仏教界における最高位にのぼりつめ、彼の一族も出世することになった。そしてこの時、大寺社の造営も行われ、仏教と政治が密接に結びついた。聖武天皇が『鎮護国家』の思想を軸に大仏の建立を決意し、国民に光を照らしてもらうよう仏教を頼ったときから25年。こうして仏教は徐々にこの国の深層部に浸透していくのだった。
政治と結びついたのは『南部六宗』と言われる6つの宗派だった。
南部六宗
- 法相宗
- 律宗
- 華厳宗
- 三論宗
- 具舎宗
- 成実宗
道鏡は、道昭が起こした宗派である『法相宗』の人間だった。また、律宗は鑑真が広めた宗派だ。
[唐招提寺に安置されている国宝「鑑真和上像」]
[鑑真が創建した唐招提寺 世界遺産の石碑 筆者撮影]
[鑑真が創建した唐招提寺 筆者撮影]
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日本の中心的な仏教の宗派
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いずれも経典の研究をはじめとする学研の場といった色彩が強かったが、鎮護国家の精神があり、国家の庇護のもとにあったため、これらの仏教の宗派が政治とのかかわりを持った。
だが、称徳天皇が即位してから5年後の769年、大宰府からもたらされた使いが、宇佐八幡宮において
という神のお告げを聞いたと報告した。これには道鏡も称徳天皇も喜んだ。だが、道鏡は皇族の身ではない。藤原氏や他の勢力は道鏡の天皇即位に反対した。だが、この宇佐八幡宮は調停と関係が深く、そのお告げには一定の権威があった。
[宇佐神宮南中楼門]
様々な思いが交錯する中、
称徳天皇
として和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐八幡宮に派遣。すると清麻呂が持ち帰ったのは、
という、今度は藤原側の有利な神託だった。これに起こった天皇は、偽託策謀とし、彼を『別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)と改名させて大隅国への流罪とした。
道鏡サイド | 皇帝に即位する方向にメリットがある |
藤原氏サイド | 道鏡を皇帝に即位させない方向にメリットがある |
このような確固たる事実があったなかで、この神託問題のどこまでが作り話かは分からないが、結局称徳天皇が亡くなるまで、道鏡は天皇からひいきされた。しかし、このせいで結局は彼が天皇に即位することはなかった。
よく考えたらわかるはずだが、仏教の最高位にいる道鏡、あるいは天皇が、神社の『神託』を頼りにしていたわけだ。政治と仏教が密接に結びついたとはいえ、この時点ではまだまだこの国には神仏習合の考え方が根付いていることがわかるワンシーンである。
日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。
[和気清麻呂 『皇国二十四功』より]
その翌年の770年。称徳天皇はこの世を去った。すると、その寵愛を受けていたから成り立っていた道鏡の立場も崩れ、和気清麻呂のように彼は下野薬師寺に左遷させられ、その2年後にその地で寂しくこのを世去ったのであった。しかし彼の『殺生の禁止』という人として素晴らしい考え方を打ち出した功績は評価するべきである。
その後、後継者を定めていなかった称徳天皇の後、藤原百川(ふじわらのももかわ)らの協議により、それまで続いていた天武天皇の系統の天皇に代わり、天智天皇の孫である『光仁天皇』が即位した。天智天皇と言えば以前の名を『中大兄皇子』と言い、中臣鎌足と共に『乙巳の変』を起こし、『大化の改新』で『天皇を中心とした中央集権国家』作りをするための端緒となった人物である。
その後、天智天皇となった中大兄皇子は、中臣鎌足が死ぬ前に『藤原氏』の姓を与え、そこから藤原氏の勢力が権力を持つようになった。称徳天皇が死に、また藤原氏の勢力に実権が傾く流れの中で、光仁天皇がここに即位し、奈良時代は彼の時代を持って終わりを迎えるのであった。
天智天皇(中大兄皇子)以降の天皇
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