『最澄(天台宗)と空海(真言宗)』
上記の記事の続きだ。そうして桓武天皇の時代が終わり、彼の子である『平城天皇(へいぜいてんのう)』と『嵯峨天皇』の時代に入る。まず平城天皇が即位するが、病気がちですぐに嵯峨天皇に座が譲られた。
平城京に帰り、上皇となった平城上皇だが、そこで元気を取り戻し、愛人の藤原薬子(ふじわらのくすこ)とその兄、藤原仲成(ふじわらのなかなり)とともに、嵯峨天皇から天皇の座を取り戻そうとする。都を平城京に戻そうとして、『平城京VS平安京』の勢力争いが行われた。これを『二所朝廷』という。結局これは先手を打った嵯峨天皇が勝利し、『平城太上天皇の変(薬子の変)』は幕を閉じた。
藤原仲成 | 射殺 |
藤原薬子 | 毒を飲んで自殺 |
平城上皇 | 出家 |
その後、嵯峨天皇は『蔵人頭(くろうどのとう)』という役職を設置し、かつての中大兄皇子、中臣鎌足(のちの藤原氏)時代から続く『天皇を中心とした中央集権国家』づくりに勤しんだ。この役職があることにより、天皇の命令が速やかに政治担当者に伝わり、天皇の存在を強くアピールすることができるからだ。
この蔵人頭は藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が担当した。冬嗣は娘を天皇に嫁がせ、皇室の外戚となり、825年には左大臣にまで昇進。藤原氏一族の指定の教育機関として『勧学院』を設立し、氏寺の興福寺に南円堂を建立。貧民の為にも施薬院を復興した。
[藤原冬嗣『前賢故実』より]
[冬嗣が創建した興福寺南円堂 筆者撮影]
娘の順子(じゅんし)は、仁明天皇(にんみょうてんのう)の女御となり、文徳天皇を生み、北家交流の基礎を築いた。826年、左大臣に昇格したばかりの冬嗣は死去。良房は後ろ盾を失うが、のちの仁明天皇の后だった妹の順子が文徳天皇を産み、昇進への足掛かりとする。ほかの貴族を排斥し、初の皇族出身ではない摂政となった。更に、良房の子の基経は関白に上り詰めた。このように、平安中期は藤原氏が政治の実権を握り、中でも冬嗣の子孫である『北家(ほっけ)』が勢力を強めた。
皇帝、王の母親または妃の一族のこと。
君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱であるなどの理由で政務を行うことが出来ない、あるいは君主が空位であるなどの場合に、君主に代わって政務を摂ること、またはその役職のこと。
成人した天皇を支える役職。
冬嗣は、『平城太上天皇の変(薬子の変)』の収拾にも大きな功績を残した人物だった。薬子の『式家(しきけ)』はこれによって衰退し、代わりに北家が主流となっていったのだ。
式家 | 薬子等 |
北家 | 冬嗣等 |
上記の記事にあったように、これまで政治の中心軸となっていた、唐からヒントを得て作ったシステム、
だったが、飛鳥、奈良時代と時代が過ぎていくにつれ、徐々に『時代遅れ』となっていた。そこで、それらを強化するために『格式(きゃくしき)』という追加項目を付け足し、時代に合わせてバージョンアップ、アップデートしていった。
格 | 律令の補足や修正 |
式 | 具体的に国を動かす細目 |
この大宝律令も唐のシステムを真似たものだが、唐から学んだものはまだほかにもあった。遣唐使としての航海は常に遭難等のリスクと隣り合わせで危険だったが、それほどのリスクを負いながらも行く価値があるのが当時の唐だった。遣唐使は、唐が弱体化し、滅亡するまで続き、その衰退と共に廃止となっていった。
の記事に書いたが、804年に桓武天皇時代に遣唐使として唐に送られた最澄(天台宗)と空海(真言宗)。彼らが戻ってきてその宗派を開いたのは806年だった。
天台宗 | 真言宗 | |
最澄 | 開祖 | 空海 |
806年 | 開宗 | 806年 |
比叡山延暦寺 | 開山 | 高野山金剛峰寺 |
法華経 | 主な経典 | 大日経など |
仏の前での絶対平等、八宗兼学 | 教義 | 加持祈禱によって、現世で利益を得る |
円仁・円珍によって密教化 | 展開 | 貴族の支持を受け流行 |
教義に基づき、鎌倉新仏教が生まれる | 影響 | 祈祷の儀式が変化 |
日本の中心的な仏教の宗派
平安時代後半には末法思想が説かれ、『阿弥陀如来を信仰し、念仏を唱えれば誰でも来世で極楽往生できる』という浄土教が流行する。源信は『往生要集』で極楽浄土や地獄についてまとめ、空也は庶民の救済を願いの市で説いた。
『面白いほどよくわかる仏教のすべて』にはこうある。
”極楽”は、至れり尽くせりの理想郷なのです。遠く地平線を眺めれば後約億ものきゅでんや楼閣が祖伊部達、一日中、心地よい仏の声がどこからともなく響き渡り、辺り一面にはいい香りが漂っています。(中略)したがって、浄土というのは仏の世界、仏国土の相称のことであり、極楽にはそれぞれの浄土の、○○極楽浄土というように固有名詞があることになります。(中略)
なかでも死後の世界として最も人気が高いのが阿弥陀如来の極楽浄土でしょう。(中略)阿弥陀如来は、人々に対して死後の世界での幸福を約束してくれる仏なのです。その意味では阿弥陀如来は地獄の閻魔と同じように、死後の世界をつかさどるということができます。
[極楽を描いた絵]
この『極楽浄土』についての考え方は仏教の宗派で見解が異なる。彼らよりも300年後の法然は、
と説いた。この念仏の起因自体は素晴らしい。だが同時に、そこに依存することの愚かさも露呈している。つまり、それさえ唱えればそれでいいという『外部依存』の考え方が根付いてしまうからだ。
だが、
と考えたのは善き心からだ。しかしそれから100年後の道元の考え方はまた違う。彼の一生を描いた映画『禅 ZEN』で道元の母が、
『世間では、阿弥陀様にお願いをすれば死んで浄土に行けるという教えが流行っているようですが、本当にそうでしょうか。浄土とは今ここ。生きているこの世こそが浄土でなければならないのです。』
と言うシーンがあり、この道元とその母の考え方は無宗教者として様々な宗教を見て回った私にとって、腑に落ちる。
『より大勢の人の気持ちに寄り添えば、より多くの人の支持を得る』のは当然だ。例えば、キリスト教がここまでの世界宗教になったのもそれが理由である。例えばローマ帝国は紀元前800年頃から作られ始めるわけだが、その帝国の中には様々な国家や民族があるわけである。そうなると当然、それぞれが持っている宗教観に違いが出てくる。
上記の記事に書いたように、各地域には様々な神話や宗教があった。したがって、一つにまとまらない。最初は力づくでまとめていたがそれには限界があり、どうしても帝国をまとめるために『優秀な宗教』の存在が必要だった。この時代も、宗教の存在は政治や経済よりもはるかに重要な位置づけにあったので、それを見つけて人間をまとめることは、必要不可欠なことだった。そこで、帝国のすべての人々が納得するような『優秀な宗教』を探した。
このような条件をクリアした『優秀な宗教』を探し、そしてたどり着いたのが『キリスト教』だった。これによってキリスト教はローマ帝国の国教となり、多くの人に受け入れられ、世界宗教へと発展していった。
聖武天皇は鎮護国家の思想を取り入れ国家の窮地を脱し、奈良の東大寺に大仏を作り、行基を日本初の最高層位『大僧正(だいそうじょう)』にして仏教を信頼した。だが、それから50年経った後の桓武天皇は、仏教の布教が『過ぎる』と判断して、それを『仏教の腐敗』と判断し、真の仏教を求めて最澄や空海を信頼した。
このように、『国の治世』によって『その時に流行している、基盤となっている宗教や宗派』に責任が押し付けられ、新たな宗教や宗派を求める姿勢がなければ、仏教にこれだけ多くの宗派は生まれなかったかもしれない。
キリスト教の歴史を見てみよう。
ローマ帝国の分離によって分離したキリスト教
西ローマ帝国(神聖ローマ帝国) | カトリック |
東ローマ帝国(ビザンツ帝国) | 東方正教(ギリシャ正教、オーソドックス教会) |
ローマ帝国が東西に分かれたときに、キリスト教の解釈も変わったわけである。
そして更に、ルターら『プロテスタント(抗議する者)』の登場によって『プロテスタント』という新しい一派が誕生した。これでキリスト教は大きく分けて、
の3つに分かれることになる。また、英国では女性問題から宗教改革が行われた。ローマ法王から『カトリックの守護者』と称えられたヘンリー8世は、アン・ブーリンを愛するようになり、妻と離婚したかったが、カトリックでは離婚が認められなかった。そこでヘンリー8世は、ローマカトリックから分離し、『英国国教会(イギリス国教会)』を作ったのだ。
キリスト教も、最初は一つだった。だが、キリスト教が力を持ちすぎて越権行為に走り、腐敗。そして大元を『カトリック(普遍)』とし、そこに逆らう形で『プロテスタント(抗議する者)』が登場したりして、様々な宗派が作られた。キリスト教も多くの宗派があるが、そのほとんどが、カトリックに逆らう形で分派したものだ。
あの『西遊記』のモデルともなった『玄奘』という僧侶は、幼くして聡明であり、13歳で出家。その後、仏教を学ぶにつれ、様々な解釈があることを知る。
うーむ。一体どの解釈が正しいのだろうか。
そう考えた玄奘は、本場のインドの教えを求めて、インドへの旅を決意。しかし、唐王朝は異国人の出入国は許していたが、唐の人々の国外への旅行を禁じていた。彼は数名とともに嘆願書を提出するが、朝廷は却下。だが、彼は違反をしてでもいいから、と、629年8月、インドへ旅に出てしまうのである。
結局彼は旅先でも、帰国しても受け入れられ、真の仏教を伝えようとした。彼もまた『真の仏教』を探し求めた探求者であり、宗教家だった。
そう考えると、今の世がどれだけ恵まれているかがわかる。私も『真の教え』、つまり『真理』を求める探求者の一人だ。私は無宗教の立場で、様々な宗教の教えの根幹にあるものを、ネットで簡単に検索できるし、本屋で簡単に専門書を読むことができる。だが、当時の時代の人からすれば、このような探求は命がけ。あるいは、度が過ぎた崇拝信仰があるエリアにおいてそれを批判することは、かつての『大逆罪』のように、死刑もあり得たのである。
大逆罪とは、
『天皇や皇太子などに対し危害を加えわるいは加えようとしたものは死刑』
というもので、証拠調べの一切ない、非公開の裁判で裁かれるしかも1回のみの公判で、上告なしである。社会主義者たちの一掃をはかった権力により、幸徳らは大逆罪に問われ、処刑された。
明治13年(1880年)に公布され、2年後に施行された旧刑法において導入された。
そう考えると今の私は多くのことに感謝しなければならない。そしてそれと同時に、『過去にさかのぼるほど、そこにあるのは無知と無力である』という事実に直面することになる。
もちろん、そこには『真剣度、覚悟』といった要素が深くかかわるが、もし同じ要素を持っていた者が過去と現在にいた場合、やはり真理に近づけるのは現代人なのである。私は下記で儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦』、古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』の、四名の歴史的賢人について学び、
以下のような仮説を見出し、
こういう一つの結論を出したが、
これができたのは『時代のおかげ』だ。こうして世界中の探求者が『試行錯誤』しながら見つけ出した『英知』があるからこその、私の答えなのである。
ソクラテスは言った。
さて、先ほどの最澄たちの記事で長岡京に都を作ろうとしたとき、『親王の祟り』にあって平安京に移した話を書いた。長岡京で藤原種次が暗殺されたとき、皇太子の早良親王の関与が疑われ、天皇は彼を配流。親王は無実を訴えたが、無念のまま命を絶った。
流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である
すると、天皇の夫人や生母、皇后らが相次いで死去し、疫病、洪水といった不幸が続き、明らかに『親王の祟り』としか思えない出来事が頻発。それに怯えた天皇が、長岡京から平安京へと移したのである。
この時、桓武天皇があまりにも祟りを恐れたので、怨霊を鎮め奉る『御霊信仰(みたましんこう)』が広まり、その儀式を行う『陰陽師』が仏教徒同様にこの平安京で重用された。記事には『風水思想』を基に平安京が作られた可能性について書いたが、その風水を源流とし、天文学や暦をもとに吉凶を占う御霊信仰は、貴族から絶対的な信頼を得た。特に有名なのが安倍晴明(あべのせいめい)が式神(職神)と呼ばれた鬼神を使い、多くの怪奇現象を起こしたという。
[安倍晴明]
人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のこと。
このあたりは多神教ゆえの『乱れ』だと言えるだろう。例えばアブラハムの宗教は、『一神教』である。
前者は『唯一神』であり、後者は『様々な神々』である。つまり、アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)が前者で、ヒンズー教やギリシャ神話等に出てくる神々は、後者ということになる。
各宗教における唯一神の呼称
ユダヤ教 | エホバ、ヤハウェ(ヘブライ語) |
キリスト教 | ゴッド(英語) |
イスラム教 | アラー(アラビア語) |
呼び方は違うがすべて同じ神を指す。
多神教の例(ヒンズー教)
破壊神 | シヴァ |
創造神 | ブラマ |
維持神 | ビシュヌ |
下の方の記事に書いたように、ローマ帝国は最終的にはキリスト教を国教とするのだが、その過程で一度、『宗教の自由』を用意し、『ローマ皇帝も神とする』という決まりを作った。しかし、自由な宗教観によって帝国がまとまらないので、最終的にはキリスト教で一つにまとめたわけだ。そしてユダヤ人たちは、『ローマ皇帝も神とする』という話があったとき、それを断固として拒絶した。
このような忠誠心があるがゆえに様々な問題を引き起こすのだが、その代わり、その唯一神が説く以外のことは軽視された。つまり彼らから言わせれば、このような新しい発想は『気の迷い』であり、幾多にも分派する宗教の宗派は『誤謬』だ。
判断ミス。
この時点で日本は、
と、様々な『神仏習合』の発想があり、厳しく言えば『まとまりがない』。
生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、 もしくは霊が宿っているという考え方。例えば、風の神、水の神等。
日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。
今、この陰陽師はどれだけこの世界で活躍しているだろうか。今、この式神なるものはどこまで通用するだろうか。未来永劫に通用するものだけが『真理』。後のことはすべて一時的な気の迷いなのである。
例えば『世界がわかる宗教社会学 入門』にはこうある。
タントリズムの世界
密教はその後、ヒンズー教と混淆して、インドから仏教は消えてしまいます。密教の流れをくむタントリズムは、『しりん』(墓地の裏手の荒れ地)で男女抱合の儀式を行いサンヴァラ(性的合一による至高の快楽)を得る、という怪しげなものでした。地面の上に曼荼羅を描き、般若=女性、方便=男性、菩提心=男女の抱合という象徴方程式を立てて、集団的に男女が抱合します。この儀式専門の、『だきに』という秘教集団の女性もいました。このように、性的快楽を、密教にいう『成仏を確信する方法』に採用したのがタントリズムです。そのほかに、
- 殺生
- 妄語
- 盗
- 淫
- 糞尿食
など、仏教の戒と反対のことを故意に行う修行法まで現われました。
このタントリズムを見て、どれだけの人がここに『真理』を見出すだろうか。
と思うのであれば、病院に入院することを推奨する。これらはまさに『排除される対象』。つまり、真理とは全く関係のない『人間が勝手に作り出したもの』なのである。人間というのは、殺人も盗みも平気でやる。狩猟採集時代では、食べ物がなかったら人を襲い略奪し、その過程で人を死なすこともあった。一夫一妻が当たり前になるまでは、そこら中で性行為も行われた。
人間は動物や昆虫と違って元々高い知能を持って生まれている。その知能を使いこなして真理ではないものを排除していき、真理の輪郭を見つけていくことが求められている。しかし、初期の人間は、その知能を使いこなせず、『暴走』させてしまっていた。さしずめ、身分不相応に大金を持った愚かな金持ちの二代目のようなものである。力を使いこなすことができないから、その力を持っている意味を過信、かつ盲信し、人の道に逸れた行為をしても大丈夫だと判断してしまうのである。
タントリズムも、御霊信仰も、そのほかの少数派の信仰も、マイノリティ(少数派)の中で信仰するのはいいが、それ以上の域を出ないのであれば、そこにあるのは偏った思想。往々にしてこの『偏り』というのは、『真理から開いた距離』を意味する。真理から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。私が前述した記事のタイトルには、そういう意味が込められているのである。
しかし、そこは当時の人間。私とて、生まれる時代が違えば思想を乗っ取られたのかもしれない。とりわけ、桓武天皇は祟りを恐れ、御霊信仰を重用し、
といった様々な思想家の活躍を後押ししたのである。
次の記事
該当する年表
SNS
参考文献