『他氏排斥(たしはいせき)、侍の登場』
『儒教、仏教、神道、アニミズム、御霊信仰』日本人の心に独特の精神世界が作り上げられていく
上記の記事の続きだ。藤原冬嗣は、『平城太上天皇の変(薬子の変)』の収拾にも大きな功績を残した人物だった。薬子の『式家(しきけ)』はこれによって衰退し、代わりに北家が主流となっていった。
式家 | 薬子等 |
北家 | 冬嗣等 |
そして藤原氏は豪族から『官僚』としての位置づけになり、国の重要な立ち位置を得るようになった。
かつて、力を持ったヤマト政権は、次に各地の豪族を政権内に組みこむための『氏姓制度(しせいせいど)』を考えた。豪族たちの『氏(うじ)』と言われた血縁関係を中心とするグループに、『姓(かばね)』といわれるその豪族の地位や政権内の立ち位置を示す称号を与えて統治しようとしたのだ。
ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族。
姓の一例
臣(おみ) | 中央の有力豪族 |
連(むらじ) | 軍事・物の生産など、特定の仕事を持つ豪族 |
君(きみ) | 地方の有力豪族 |
直(あたい) | 地方豪族 |
首(おびと) | 地方の小豪族 |
ヤマト政権(大王)
豪族(蘇我氏)
その中でも力を持ったのが『蘇我氏(そがうじ)』で、力を得て暴走した蘇我入鹿を『乙巳の変』で殺害し、権力を取り戻したのが中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原氏)だった。
古墳時代の倭国(日本)を支配したのは『ヤマト政権』!そして『氏姓制度』で蘇我氏の勢力拡大を許し、歴史が動く!
しかし、長くに渡って国の中心で貢献してきた藤原氏は、ついに『豪族』から『官僚』としての立ち位置を得たのだ。そしてその中でも『北家』が強い勢力を誇った。
北家は『他氏排斥(たしはいせき)』事件として、ライバルを政治の世界から追放・排除する自己防衛戦略も怠らなかった。藤原冬嗣の子、良房は、『承和の変(842年)』を端緒とし、藤原氏は次々とライバルたちを蹴落としていった。嵯峨上皇が亡くなったとき、上皇の甥と孫で後継者争いがあったのだが、皇位継承に関連した謀反の疑いがかかった伴健岑(とものこわみね)、橘逸勢(たちばなのはやなり)という、橘氏、伴氏のライバルたちを流刑に追い込んだのだ。
これによって良房は、妹の順子(じゅんし)の生んだ文徳天皇、娘の子の清和天皇と、血縁関係にあたる天皇を次々と即位させた。良房は、文徳天皇の代で人臣初の太政大臣となるが、在位8年で天皇が死去し、次に清和天皇が誕生した。そして良房は外祖父として政治をみる。つまり摂政としての立場を得た。
君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱であるなどの理由で政務を行うことが出来ない、あるいは君主が空位であるなどの場合に、君主に代わって政務を摂ること、またはその役職のこと。
しかし866年、『応天門の変』が起こる。平安宮にある応天門が焼け落ちたのだ。それは、大納言だった伴義男(とものよしお)がライバルの左大臣、源信(みなもとのまこと)に罪をかぶせようとして放火したというのである。だが、結局伴義男は流罪になった。
[伴大納言絵詞より、応天門炎上の場面]
この事件の処理に当たった藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功した。そして事件の最中に、良房は正式に摂政に任命され、皇族以外で最初の摂政が誕生したのであった。
- 橘氏
- 伴氏
- 紀氏
藤原氏は、次々とライバルたちを蹴落とし、その権力基盤を強固なものとしていった。
また、冬嗣の長子である長良(ながら)の三男だった藤原基経(もとつね)は、応天門の変で叔父である良房の命を助け、伴義男らを追放した張本人だった。その後、叔父の良房の養子となって北家の宗家を継ぐ。清和天皇の次に即位した陽生天皇(ようせいてんのう)は幼少だったため、基経はその摂政となった。
[藤原基経 菊池容斎『前賢故実』より]
だが、成長した天皇が暴力事件を起こしたので、彼を退位させ、55という高齢の光孝天皇を即位させ、光孝が死ぬと臣籍降下していた源定省(みなもとのさだみ)を擁立し、宇多天皇となった。基経は、宇多天皇の即位直後に関白となった。だが、この宇多天皇は21歳と若く、基経は彼から実権を奪いたかった。そこで、関白に任命した任命文書に難癖をつけ、任命文書を再提出させ、彼から政権を奪おうと政務を乱す。
この『阿衡の紛議(あこうのふんぎ)』によって彼は半年もの間政務を放棄。結局、天皇が譲歩し火を認め、藤原氏の権力は天皇よりも強いことが強調されたのだ。
だが、そんな基経が死去すると、宇多天皇が息を吹き返した。彼は藤原氏に嫌悪感を抱いていたので、『菅原道真(すがわらのみちざね)』を重用し、蔵人頭に任命した。
[菊池容斎による菅原道真像]
ここまでの記事に、
遣唐使としての航海は常に遭難等のリスクと隣り合わせで危険だったが、それほどのリスクを負いながらも行く価値があるのが当時の唐だった。遣唐使は、唐が弱体化し、滅亡するまで続き、その衰退と共に廃止となっていった。
と書いていたが、実際にこの遣唐使を中止したのは、道真の提案が発端だった。宇多天皇はそれを受諾し、唐への派遣を中止。そして実際にその13年後には唐が滅亡し、以来、その後の『宋』とも特にやり取りすることはせず、ここから日本が『中国離れ』をし、独自のルートを進んでいくようになる。
『宗』の英雄『岳飛』と売国奴『秦檜』。だが、守った南は北よりも遥かに熱かった!
侍の登場
さて、これは900年頃の話だ。遣唐使の中止を主張したのが894年だから、ちょうどその頃の話。このあたりでようやくこの国に『武士』、『侍』といった存在が現れるようになる。
武士 | 武装化した有力農民、豪族、下級貴族の子孫 |
侍 | 貴族の身辺警備のための武士 |
滝口の武士 | 宮中の警護のための武士 |
622年に49歳で生涯を閉じた聖徳太子は、初めて『忍者』を使って情報を集め、政治を行った人物として知られているが、ここで現在でも世界中の人が『日本』と聞いて連想する『忍者、侍』といった役者が揃うのである。
忍者 | 600年頃 |
武士、侍 | 900年頃 |
蘇我氏と聖徳太子(厩戸王)が仏教を取り入れ、中国に初めて『対等な立場』を主張!そして『忍者』が動き出す!
ではここで、平安時代からの天皇をまとめてみよう。
平安時代以降の天皇
こうして次に醍醐天皇となるわけだ。この醍醐天皇と村上天皇の時代には天皇中心とした政治を行うが、藤原氏は皇族との外戚関係を結び付け、次の冷泉天皇(れいぜいてんのう)の治世で、実頼(さねより)が他氏排斥を完了させ、その甥の道長が、
この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思へば
と歌うほど、藤原氏は全盛期を迎えた。
では、醍醐天皇の時代から見てみよう。彼は父宇多天皇の意思を尊重し、菅原氏も藤原氏も重用した。
右大臣 | 菅原道真 |
左大臣 | 藤原時平(ときひら) |
だが道真は、901年に時平に無実の罪を着せられ、大宰府に左遷されてしまった。これも藤原氏の他氏排斥事件の一環だ。
- 橘氏
- 伴氏
- 紀氏
- 菅原氏
こうして確実に藤原氏は勢力を強固なものにしていく。
ただ、醍醐天皇は摂政、関白を置かずに自らが政治を行い『延喜の治(えんぎのち)』としてのちの天皇からも理想とされた。この時、すでに班田収授の仕組みは破綻同然だった。かつての中大兄皇子が『天皇を中心とした中央集権国家』づくりの為に『大化の改新(645年)』を行い、『改新の詔』で、この仕組みは作られた。
改新の詔(みことのり)
- 従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。
- 初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする。
- 初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする。
- 旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定することとする。
簡易版はこうだ。
第一条 | 公地公民制 | 民も土地も国のものであり、個人や豪族のものではない |
第二条 | 地方行政制度 | 中央から地方の間に道路を作る。地方行政をつかさどる役所を設ける |
第三条 | 班田収授法 | 戸籍を作り民を管理。民に農地(口分田)を貸し与える |
第四条 | 税制 | 口分田でできた稲をはじめとする納税義務 |
このような政策の根底にあるのは、『天皇を中心とした中央集権国家』の確立だった。
中大兄皇子が蘇我入鹿を倒して『大化の改新』が始まる!天皇を中心とした中央集権国家を作るのだ!
口分田とは、民衆へ一律に支給された農地である。農地を支給し、そこで収穫することを許可し、その代わりに一部を税金として納めるというシステムだったわけだ。だが、この表を見ても分かるように民衆に課せられた納税の義務はその他にもいくつもあって、彼らの肩の荷は重かった。したがって彼らは、
- 土地を捨てて逃げる
- 有力者の小作人になる
- 戸籍の年齢や性別をごまかす
- 勝手に僧侶になる
等の行動を取り、なんとかその責務から逃れようとしたのだ。
日本最古の歴史書『古事記』と『日本書紀』、そして日本初の流通貨幣『和同開珎(わどうかいちん)』が発効!
そこで天皇や為政者は、様々な対策を打ち出してこれに対応する。
百万町歩の開墾計画 | 農民に食糧、道具を渡して開墾作業を行わせる |
三世一身の方 | 土地を開いた者に三代(一代)に渡り私有を認める |
墾田永年私財法 | 自分で開墾した土地は永久に私有を認める |
墾田永年私財法で、確かに『祖』として納税した後の取り分が増え、民衆は『副収入』が増えた。だが、土地の開墾ができる余裕があったのは貴族や豪族などの豊かな階層だった。マルクスの言う『ブルジョワジー』だけが開墾できたのだ。更に、土地を捨てて逃げた農民を小作人として使役し、そこに上下関係(主従関係)ができれば、ますます貧しい『プロレタリアート』との格差が開く一方になる。(下記の記事参照)
このように、公地公民の枠から外れた私有地を『荘園(しょうえん)』といい、奈良時代から平安時代初期の荘園は『初期荘園』と呼ばれている。このような予期せぬ問題が起きたことにより、墾田永年私財法も結局は問題解決の決定打とはならなかった。そして、公地公民と班田収授は次第に崩れることになった。
土地と人民はすべて国家の所有とし、私有を認めないこと。
公民に一定額の田地を分け与え、収穫した稲を徴収する(納税させる)こと。
宇佐八幡宮で『神託』を受け喜ぶ『仏教』の最高位にいた道鏡!日本の神仏習合はこの時から根強かった
墾田永年私財法(743年)から150年。すでにこの班田収授の仕組みは破綻同然だった。戸籍をごまかし、重い負担から逃れようとして、
と偽り、負担の少ない女性にその身を隠したのだ。
すると、税金が集まらなくなる。集まらないと財政難に陥り、国家の運営ができない。そこで政府は、有力農民を直接指定して土地を耕作させ、そこから税を徴収するという『直営方式』に変更したのだ。
金を持っている人から多く取ればいい。
現在でも富裕層は高額の税金を負担する仕組みがあり、脱税の罪で多くの人が逮捕されている。また、少しでもその税を軽減させようと、税金の低いシンガポールに法人を置くなど、負担から逃れようとするのはいつの世も同じことある。
国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)と加盟報道機関によって2017年11月5日一斉に公表された、タックス・ヘイヴン取引に関する約1340万件の電子文書群。
一定の課税が著しく軽減、ないしは完全に免除される国や地域のことであり、租税回避地(そぜいかいひち)とも、低課税地域(ていかぜいちいき)とも呼ばれる。
だが、こうした直営方式は律令のルールとかけ離れていたため、醍醐天皇はこれを中止させ、正当な班田収授に戻そうとする。そして『延喜の荘園整理令』を出し、土地の違法な運用を禁止した。しかし、結局これは問題解決の決定打にならなかった。902年、最後の口分田が配布され、律令国家の土地制度、班田収授はこの時代を最後に行われなくなった。
次の記事
該当する年表
SNS
参考文献