『新皇・平将門』
『他氏排斥』でライバルを蹴落としまくった藤原氏の権力が肥大化!そして『侍』が動き出す!
上記の記事の続きだ。こうした直営方式は律令のルールとかけ離れていたため、醍醐天皇はこれを中止させ、正当な班田収授に戻そうとする。そして『延喜の荘園整理令』を出し、土地の違法な運用を禁止した。しかし、結局これは問題解決の決定打にならなかった。902年、最後の口分田が配布され、律令国家の土地制度、班田収授はこの時代を最後に行われなくなった。
土地制度の変遷と寄進地系荘園
冒頭の記事に書いたのはこうだ。有力農民を直接指定して土地を耕作させ、そこから税を徴収するという『直営方式』に変更した。
金を持っている人から多く取ればいい。
これが『負名制度』である。9世紀〜10世紀頃には田堵(たと)と呼ばれる富豪農民が登場し、国衙(こくが)(国司の役所)が支配していた公田が、名田(みょうでん)という単位に再編された。国司は、田堵に名田を経営させ、名田からの租税納付を請け負わせることで、一定の租税額を確保するようになった(これを負名という)。
律令制下では、人民一人ひとりに租税が課せられていたため、人民の個別支配が必要とされていたが、10世紀ごろになると、上記のように名田、すつまり土地を対象に租税賦課する体制(名体制(みょうたいせい))が確立したのである。
ここで税がかけられる土地『名』を多く持った人、広い土地を持った人を『大名』と呼ぶようになり、後の権力を持った大名という名称の起源となった。
大名田堵 | 広い土地の耕作を請け負った有力農民 |
開発領主 | 土地を開発した有力農民 |
だが、この田堵たちは冒頭の記事に書いた『パラダイス文書』の例のように、土地の名義を有力貴族や寺社に寄進することで、不輸の権を得て納税を逃れるようになった。中でも、勢力を誇った藤原氏に荘園が集中し、藤原氏は財政面においても権力を得ていくのであった。これが『寄進地系荘園の誕生』の流れだ。
荘園が国家への租税の一部またはすべてが免除される権利。
例えば藤原氏で言うなら、この土地を国司の徴収から守り、土地の支配自体は農民が行うという、何かの組織や企業の『バック』のような、そういう存在になったわけだ。その『みかじめ料』のような収入源を得た藤原氏は、この寄進地系荘園によって財源を確保。そして、強力なバックがついた農民も力を得る。そして、国司から荘園を守るために武装をはじめ、武装集団が結成される。
武装集団が結成された理由
- 国司から荘園を守るため
- 逃亡した農民が盗賊になったため
- 朝廷が管理しきれなくなったため
その他にもこういう様々な理由から、田堵たちは武装して自衛するしかなかった。土地のあり方が変わり、国司も『公務員』から『その土地の支配者』という権力を持った存在となった。その方が国司たちのモチベーションも上がるし、納税の取りこぼしも無くなる。今で言う歩合制のようなもので、
政府
ということなのである。
受領(ずりょう) | 任命された場所へ赴任する国司 |
遙任(ようにん) | 任国にいかず代理を派遣して自らは都に留まる者 |
そして国司は、受領、遙任といった選択肢を持ち、更にそこで権力を得た。『納税の取りこぼし』という仕事を全うすると同時に、自分たちもそこからキャッシュバックを得たのだ。今で言う『債権回収』のようなものだろうか。債権回収とは、債務不良、つまり『お金を返せない状態』になってしまった債務者に、色々と迫って金を回収する立場だ。
債権回収業者
政府は、税の取りこぼしを回収したいがゆえに、苦肉の策として彼らに権力を与え、そして権力を得た国司たちがその力をいかんなく発揮させたのだ。そして『みかじめ料』を払って守ってもらう『企業と暴力団』の関係のように、荘園を有力貴族に保護してもらったのだ。この例えでは少し乱暴かもしれないが、軽いイメージとしてはこれがわかりやすい。現在の暴力団と、かつて『任侠』と言われた時代の昔気質のやくざでは毛色が違うように、刀を振り回した武士も、ドスを片手に持ったやくざも、似たようなものだからである。
仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す語。現代的にはヤクザと重複する面もあるが依拠する信念を違える。
[稲荷山 小鍛冶。刀匠・宗近が稲荷の使いに相づちを打たせ、小狐丸という名刀を作り上げた。]
だが、例えば藤原北家といった藤原氏のトップがこれに名乗り出るわけではなかった。
藤原北家
しかし、そんな藤原氏の中にも上下関係があった。冒頭の記事までに『北家』が特に力を持ったと書いたが、そのようにして藤原氏にも大勢いて、中でも下っ端にいる貴族たちが、その国司や盗賊たちを鎮圧・逮捕する役職である、
- 押領使(おうりょうし)
- 追捕使(ついぶし)
という職に就き、これらの武装集団と結びついた。そして生まれたのが『武士団』である。彼らは紛争の中で統合を繰り返し、より強大な棟梁のもとへ結集。なかでも、祖が天皇家の、
- 桓武平氏(かんむへいし)
- 清和源氏(せいわげんじ)
が勢力を持っていた。『平氏、源氏』である。では、醍醐天皇の後の天皇をもう一度見てみよう。
こうして時代は朱雀天皇の時代に入った。この時、摂政と関白に続けて任じられたのは藤原忠平だ。だが、939年に朝廷を揺るがす大事件が2つも起きてしまう。それが『承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)』だ。
[豊原国周「前太平記擬玉殿 平親王将門」]
承平・天慶の乱
- 平将門(たいらのまさかど)の乱
- 藤原純友(すみとも)の乱
承平・天慶の乱は、この2つの反乱を合わせた名称である。桓武平氏の祖とされる平高望(たいらのたかもち)の孫が、平将門である。つまり、桓武天皇の5世だ。しかし彼は、その身分でありながら『滝口の武者』という低い地位に立たされ、在京12年で帰郷し、下総国猿島(しものうさくにさしま)を拠点として、勢力を拡大。現在の茨城県である。
平将門は平氏一族の争いに勝利し、関東で勢力を誇った。その後、国司や豪族の争いの調停依頼が持ち込まれるようになるわけだ。
田堵
平将門
そうして勢いに乗った平将門は、常陸国の国府を襲撃するようになる。
平将門
この『新皇(しんのう)』とは、939年12月に平将門が「新しい天皇」の意味で作った言葉だ。以後、将門は平氏出身であることから「平新皇」と呼ばれたとされている。このように、『新しい国を作ってそのトップの座に就く』という意思を持った人間は世界にもいる。
例えば、『中国史上唯一の女帝』である『則天武后(そくてんぶこう)』である。時は690年、則天武后は『唐』の帝位を引き継ぎ、国号も『周』へと改変させる。自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。
[則天武后]】
中国史上唯一の女帝『則天武后』と、世界三大美女『楊貴妃』がいた『唐』の盛衰
また、『皇帝』という名前を作り上げた『始皇帝』もそうだ。古代から、中国の神話時代の理想の君主とされたのが、『三皇五帝』と呼ばれた8人の帝王だった。始皇帝は、
始皇帝
として、皇と帝を組み合わせ『皇帝』という新しい称号を生み出したのだ。単なる国のトップではなく、天命によって地上世界を支配する高潔な存在だと自称し、自らを鼓舞し、神格化したのである。
始皇帝 | 皇帝 |
則天武后 | 聖神皇帝 |
平将門 | 新皇 |
始皇帝は偉大だったが、『夏、殷、周』の王同様、黄金律には逆らえなかった
それだけの勢いがあったのが平将門だ。事実、彼の勢いは激しく、関東一円を制覇。親類や従者たちをそのエリアの国司に任命し、確実に勢力を伸ばした。だが、結局彼は従妹の『平貞盛』と『藤原秀郷(ひでさと)』に討たれ、死去する。なぜ従妹の貞盛は彼を討ったのか。それは、平将門が野心家になった原因が関係している。
平将門は、父の良将(よしまさ)の残した領地を守っていくため、朝廷の保証付きの官位が必要で、上京していた。だが、扱いは低く、13年で帰郷したわけだ。すると、留守中に伯父の国香(くにか)が土地を勝手に自分のものにしていた。だが、ここではまだ将門は動き出さない。
平将門
そして将門は猿島郡石井に移るのだが、ここでも国香が将門を圧迫したのだ。
平将門
そして彼らは対立し、武力闘争にまで発展したのだ。935年。平将門の乱の4年前に国香の連合軍は奇襲され、苦戦を強いられるが、逆転させて戦死させる。更には『叔父』の良正(よしまさ)も常陸国で破り、このエリアで力を得たのだ。平貞盛は、この国香の息子だった。そして、新皇を名乗った50日後、彼は平貞盛らに復讐され、この世を去ったのである。
[歌川国芳 「相馬の古内裏」]
そう考えると、平将門はただ父親の土地を守りたかっただけなのに、この国香一族に振り回され、生涯を終えてしまったのである。彼が支配したのは関東エリア(東国、坂東)だ。現在、国の中心となっている東京都があるエリアで、彼は勢力を誇った。
そんな彼は、世に受け入れられない者の代弁に努めたという点で、その壮絶で悲劇的な死とも相まって、長い間逸話や伝説として人々に語り継がれてきた。これは、将門が重い負担を強いられ続けた東国の人々の代弁者として捉えられたためだと考えられる。
彼は、東国を独立させ、そこに『西の天皇』とは違う『東の新皇』として君臨しようとした。彼が東国だけを独立しようとしたのか、そのまま全国を支配しようとしたかは定かではないが、どちらにせよこの勢力が残っていたら西の天皇と衝突し、どちらかが勝ち残り、どちらかが全国の掌握権を握っただろう。
これは有名な『平将門の首』だ。京都でさらし首になった将門は、首だけで東国まで戻ったと伝わる。また、平将門を葬った墳墓『将門塚』の周辺で天変地異が頻繁に起こり、これを『将門の祟り』と恐れた当時の民衆を静めるために時宗の遊行僧・真教(他阿)によって神と祀られ、1309年には神田明神に合祀されることとなった。
こうして『祟り』という概念を思いついたのも、日本のガラパゴス現象の一つだと言えるだろう。しかしあの絵のように、人間の首だけが野ざらしにされて遺棄されるのが常識だった時代からすれば、今の考え方は通用しないのだ。
親王の祟り | 天皇の夫人や生母、皇后らが相次いで死去し、疫病、洪水といった不幸が続いた |
長屋王の祟り | 天然痘の流行で『藤原四子』の全員が亡くなってしまった |
将門の祟り | 『将門塚』の周辺で天変地異が起こった |
桓武天皇はなぜ『仏教の腐敗』として称徳天皇と道鏡の『鎮護国家』時代を批判したのか?
一方、藤原純友はどうか。こちらは関東ではなく関西で、『四国、中部、九州』といったエリアで反乱を起こした。彼は伊予国の国司であり、任期が終わっても伊予にとどまり、1000隻をも動かす海賊の親分となっていた。
西は九州の太宰府、東は淡路島まで襲撃し、勢力を伸ばした純友は、瀬戸内周辺を支配。つまりこのとき、朝廷がある京都は、
西(瀬戸内エリア) | 藤原純友 |
東(東国エリア) | 平将門 |
に大きな2大勢力の台頭を許し、驚愕としたのである。結局これも、清和源氏の祖、清和天皇の孫の源経基(つねもと)と、追捕使に任命されていた小野好古(おののよしはる)によって鎮圧された。しかし、この『承平・天慶の乱』は、『武士』なる存在の初の大規模な反乱となり、これを鎮圧するために朝廷は『武士団』を頼るしかなく、どちらにせよ『武士』たる存在が大きくこの世界に産声を上げた事件となったのだ。
承平・天慶の乱の首謀者を鎮圧した者
平将門 | 平貞盛、藤原秀郷 |
藤原純友 | 源経基、小野好古 |
武士が大きな産声を上げるまで
任侠の話は書いたが、もしかしたらこの『武士』が産声を上げた900年代の乱で、初めて『自警団』的な、『政府が黙認する、反乱軍とは違う、力を持った勢力』が現れ、そしてそれが任侠、用心棒へとつながり、現在のやくざのような荒んだ実態へと変化していったのかもしれない。
その後、1019年に『刀伊の入寇(といのにゅうこう)』という、外国人の襲来があった。満州に勢力を張っていた女真族(じょしんぞく)が北九州沿岸を襲い、刀伊と呼ばれる海賊と化して、突如襲ってきたのである。これは、大宰府に左遷されていた藤原隆家(たかいえ)が九州の武士団を率いて撃退。使者365人、捕虜1289人という甚大な被害を出してしまったが、確実に武士の頭角が現れ始めていた。
1127年。中国は『宋』の弱体化に付け込んだのが、北方のツングース系民族である、『女真族』だった。彼らは『金』という国家を建立し、瞬く間に前述した契丹族の『遼(りょう)』を飲み込み、北宗に乗り込み、皇帝一家をとらえた。これを『靖康の変(せいこうのへん)』という。
『宗』の英雄『岳飛』と売国奴『秦檜』。だが、守った南は北よりも遥かに熱かった!
次の記事
該当する年表
SNS
参考文献