『末法思想』
上記の記事の続きだ。醍醐天皇の後の天皇をもう一度見てみよう。
そして時代は村上天皇の時代になった。彼は醍醐天皇同様、摂政・関白を置かずに自らが政治を行う『親政』をしてみせた。そのため、醍醐天皇の『延喜の治』同様『天暦の治(てんりゃくのち)』と言われ、これらをまとめて『延喜・天暦の治』と呼ばれ、その後の天皇に一目置かれる時代となった。
彼のやったことと言えば、『本朝十二銭』の最後となる『乾元大宝(かんげんたいほう)』という貨幣を作ったことだ。下記の記事に書いたように、日本で最初の流通貨幣と言われるのが『和同開珎(わどうかいちん)』だ。そのモデルになったのは天武天皇の時代に作られた富本銭で、和同開珎以前にあった通貨は、
の2つである。ここから平安中期まで12種類の波形が作られ、それらをまとめて『本朝十二銭』と呼ぶ。その最後の貨幣がこの『乾元大宝』である。だが、結局この貨幣は質が低く、流通が広がらず、これ以降豊臣秀吉が発効する金貨まで、貨幣が作られることはなく、中国から輸入したものを使用していた。
下記の記事に、の醍醐天皇と村上天皇の時代には天皇中心とした政治を行うが、藤原氏は皇族との外戚関係を結び付け、次の冷泉天皇(れいぜいてんのう)の治世で、実頼(さねより)が他氏排斥を完了させ、その甥の道長が、
この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思へば
と歌うほど、藤原氏は全盛期を迎えた。と書いた。これは『満月のように、自分は今大変満ち足りていて、満足している』という意味である。
冷泉天皇の時代は藤原実頼が摂政となり、天皇の代わりに政治をして実権を握る。醍醐天皇の子である左大臣の源高明(たかあきら)がライバルだったが、『安和の変(あんなのへん)』として、彼を大宰府に左遷。謀反の疑いをかけ、これを潰したのだ。この安和の変が他氏排斥を完成させ、藤原氏にライバルがいなくなったのである。その後、
と藤原北家から摂政・関白が常に就任し、藤原北家の権力は確固たるものとなっていった。先ほど登場した道長は、兼家の息子であり、道隆らの兄弟だった。
彼は『内覧』という、天皇が決裁する文章に先に目を通す役職で、大きな権力を持っていた。それだけではなく、摂関政治の代表格と言われた彼は、4人の娘を産み、それを天皇に嫁がせ、3人の天皇の祖父として背後から政治を支配した。
平安時代中期に、藤原氏の者が摂政・関白となって行った政治。
だが、彼ら一族にも一応の問題はあった。他氏排斥を完了した藤原氏は、敵は一族以外になく、『内輪揉め』をしたのだ。兼家は、伊伊が死んだ後に、関白の座を兼通に奪われる。しかも、兼通は死ぬ間際にその後継者を兼家ではなく、いとこの頼忠に譲った。関白となった頼忠は兼家に同情し、彼を右大臣に承認させる。その後、兼家は花山天皇をだまして退位に追い込み、外孫の一条天皇を即位させることに成功し、摂政、氏の長者となって政治の実権を掌握し、右大臣を辞した。
[菊池容斎『前賢故実』]
989年に太政大臣となり、990年には念願の関白となるが、病気のため、すぐに息子の道隆に譲った。こういう藤原家内の内輪揉めがあったのである。では、ここで出てきた新しい天皇の名前も踏まえ、醍醐天皇以降の天皇の歴史を見てみよう。
『承平・天慶の乱』は朱雀天皇の時代にあり、村上天皇の時代は醍醐天皇の時代と同じく天皇自らが政治を行う『親政』で、『延喜・天暦の治』として尊敬された。その後、冷泉天皇時代には、藤原実頼ら、藤原氏が摂関政治を行い、こうして藤原氏がまた力を得たわけだ。そして安和の変が他氏排斥を完成させ、藤原氏にライバルがいなくなり、あったとしても藤原氏内のこうした内輪揉め程度だった。
円融天皇の時代が過ぎ、兼家が花山天皇をだまして退位に追い込み、外孫の一条天皇を即位させることに成功し、摂政、氏の長者となった。だが、990年に関白になった兼家は病気のため、すぐに息子の道隆に譲った。しかしその道隆もわずか数日間関白を務めて、すぐに死去してしまった。そうして次の関白には、
といった人物の名が挙がった。伊周は道長の甥だが、内大臣を務める実力者で、天皇周辺の権力ともつながっていて、優勢だった。だが、一条天皇の母東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)が道長の姉であり、終始道長に味方をした。彼女の後押しもあって、ついに道長は内覧の地位になったのだ。
その後、伊周は詮子を恨んで、火山法皇に矢を射たり、呪い殺そうとする(長徳の変)。しかし、これによって伊周が大宰府に流され、伊周一族は衰退。藤原氏があの歌を歌ったのは1018年のこと。敵という敵がいなくなり、娘の威子(いし)が後一条天皇のもとに入内し、中宮となる儀式を終えた日の、祝宴でのことだった。
外位の者が内位に転ずること。
長女 | 彰子(しょうし) | 一条天皇に入内 |
次女 | 妍子(けんし) | 三条天皇に入内 |
三女 | 威子(いし) | 後一条天皇に入内 |
歌が歌われた一年前の1017年、52歳の道長は病気の為に摂政の位を長男の頼道に譲った。しかし太政大臣として権力を持ち、また冒頭の記事に書いたように『寄進地系荘園』によって多くの荘園を持って多大なる財力を得た。
頼通が建てたのが有名な京都の世界遺産『平等院鳳凰堂』だ。これは、元は道長の別荘『宇治殿』で、それを寺に改め、浄土宗の中心として阿弥陀如来を本尊として、極楽浄土を表現した建物だ。このとき、仏教の流行は法然が開いた『浄土宗』だった。
日本の中心的な仏教の宗派
下記の記事にも極楽浄土についての様々な見解は書いたが、最澄や空海の300年後に登場したこの法然の考え方はこうだった。
考え方はその記事に詳細を書いたが、とにかくこのようにして日本に浄土信仰たる思想も根付いていた。
阿弥陀仏を対象とする信仰のことで、阿弥陀信仰とも言われる。
だが、法然が開く『浄土宗』とは違い、『浄土教』はもっと前の7世紀前半からあった。そのとき浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる。先ほどの記事に、
平安時代後半には末法思想が説かれ、『阿弥陀如来を信仰し、念仏を唱えれば誰でも来世で極楽往生できる』という浄土教が流行する。源信は『往生要集』で極楽浄土や地獄についてまとめ、空也は庶民の救済を願いの市で説いた。
と書いたが、浄土教はその空也が広めていたものだった。なぜこの道長、頼通の時代にこの浄土教が流行していたのかというと、ここに出てきている『末法思想』という言葉がキーワードだった。仏教の開祖、釈迦(ブッダ)が亡くなった後2000年間の後に『末法』という世がやってきて、世が乱れると信じられていたのだ。その時代がまさに、この頼通の時代だった。
こういう話は世界各地の神話や宗教にも存在する。
上記の記事に書いたように、イラクとイランでは、大元になる神が違う。
各地域の神話と神
イラク | メソポタミア神話 | マルドゥク |
イラン | ペルシャ神話 | アフラ・マツダ |
下記の記事で、民族のルーツに神がいるという話をしたが、イラクとイランはこのようにしてルーツとなる神が違うので、現在でも仲が悪いのである。
では、このアフラ・マツダの話をまとめてみよう。
これらの神話は、徐々にユダヤ神話へと影響を与えていくことになる。
ゾロアスターの死後1000年毎に救世主が出現し、最後の救世主は『乙女』から生まれると予言された。そしてこの乙女こそが、イエス・キリストのことなのである。『処女』ではなく『乙女』だ。翻訳ミスから生まれた神話が、キリスト教なのである。
『天国と地獄』の発想の大元はゾロアスター教で、それがユダヤ教、キリスト教らに影響した。終末論(最後の審判)、救世主論(キリスト等のメシア(救世主)が現われる)という発想も、ゾロアスター教が最初である。ゾロアスター教の創始者ゾロアスター(ツラトゥストラ)は紀元前1600年頃を生きたとされていて、モーセが紀元前1250年頃、ヘブル人をエジプトから脱出させ、シナイ山で神ヤハウェと契約を結んで『十戒』を作ったことがユダヤ教の最初だから、ゾロアスター教の方が最初に存在しているという見方が出来る。
このようにして、『末法』たる『終末』的な話は世界的なシナリオの相場だ。しかし当然この時期は、本も豊富になければ、テレビもネットも電話もない。わざわざ『遣唐使』として、リスクの高い航海をしてまでして情報を得なければならない時代に、世界の情報も、研ぎ澄まされた知識もない。特に島国としてガラパゴス化したこの日本では、先ほどの記事のタイトルのように独自のルートで考え方が根付いていき、やがて『神道』をルーツとした民族国家、天皇崇拝国家へと作られていった。
そしてこの時、11世紀、1000年代前半は浄土教たる仏教の思想が蔓延。そこにあったのが末法思想で、それを無視するわけにはいかなかったのである。そして彼らは阿弥陀仏を安置するために積極的に阿弥陀堂を建設し、この宇治堂も鳳凰堂へと作り替えられたのであった。
道長は54歳の時に浄土宗に深く帰依(きえ)し、62歳でこの世を去るまで、念仏三昧の時を過ごしたという。そして、そのための場として道長が建立したのは『法成寺(ほうじょうじ)』だった。
拠り所にすること。
次の記事
該当する年表
SNS
参考文献