『国風文化の発展』
上記の記事の続きだ。さて、下記の記事に書いたようにヤマト政権は5世紀後半から6世紀頃にかけて勢力を伸ばした可能性が高い。その頃に、馬術だけではなく、朝鮮半島からの『渡来人』によって、大陸の技術や文化も取り入れた。
ヤマト政権は渡来人をグループ化して組織化し、日本の技術を進化させたようだ。
それから400、500年。894年に唐が衰退し、遣唐使が中止されると、日本独自の文化発展が行われる。冒頭の記事に、
実際にこの遣唐使を中止したのは、道真の提案が発端だった。宇多天皇はそれを受諾し、唐への派遣を中止。そして実際にその13年後には唐が滅亡し、以来、その後の『宋』とも特にやり取りすることはせず、ここから日本が『中国離れ』をし、独自のルートを進んでいくようになる。
と書いたが、菅原道真の時代に遣唐使が中止され、日本は独自のルートを進むようになる。
[菊池容斎による菅原道真像]
それは例えば、下記の記事に書いたようなこともである。日本は、
と、様々な『神仏習合』の発想があり、厳しく言えば『まとまりがない』。
生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、 もしくは霊が宿っているという考え方。例えば、風の神、水の神等。
日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。
現在でも人は結婚式をキリスト教式で行い、葬式は仏教にし、位牌を仏壇に供える道教のやり方を取り入れ、儒教思想を軸にした政治や経営が行われ、何かと『お参り』と称して神社に何らかの祈願をしに行く。これは神道の考え方だ。携帯電話の『ガラケー』だけじゃなく、陸の孤島現象の『ガラパゴス化』は、こうして中国、つまり大陸との通信、交流を途絶えたことで加速していくのである。
もちろんそれは日本だけではない。
といった地域では、独特の文化が生まれた。
メソポタミア文明で生まれた文化
エジプト文明で生まれた文化
メソアメリカ文明が繁栄した地域で興った文明
メキシコおよび中央アメリカ北西部とほぼ重複する地域において、共通的な特徴をもった農耕民文化ないし様々な高度文明(マヤ、テオティワカン、アステカなど)が繁栄した文化領域を指し、パウル・キルヒホフの文化要素の分布研究により定義された。
1532年のスペイン人によるインカ帝国征服以前に、現在の南米大陸、ペルーを中心とする太平洋沿岸地帯およびペルーからボリビアへつながるアンデス中央高地に存在した文明。
[『インカの失われた都』マチュ・ピチュの風景]
かつてこの世界にあった様々な文化や文明は、『陸の孤島化』していたからこそ独自のルートを歩いた。今、世界を見渡しても、『世界遺産』として遺されている様々な歴史的建造物の形やそこに秘められた考え方は、すべて異なっているのである。
だが、日本とこれらの文化の違いは、『日本が滅亡した国ではない』ということだ。前述した三つの文明は、すべて遠い昔に滅んでいる。一番近いマヤ、アステカ文明などのメソアメリカ文明も、500年前の大航海時代にスペイン人によって滅ぼされた。
例えば、『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』にはこうある。
日本が二千年以上国家を営んできたことは世界史の奇蹟に違いない。その歴史がいかに長いかは、他の国と比較するとわかりやすい。日本に次いで長い歴史を持つ国はデンマークである。デンマークは建国から千数十年が経過したが、それでも日本の半分以下である。第三位は英国で千年にも満たない。中国に至ってはまだ六十年程度の歴史しかない。ロシアはソ連邦崩壊でできた新しい国である。
この本の著者によると、最も長く国家を営んできた国のランキングはこうなる。
しかし、『中国三千年の歴史』の話を真剣にする中国人もいるし、『国がいつからできたか』という考え方は、人によって意見が分かれそうなところである。だが確かに、『倭国』や『大日本帝国』という名称時代もあったこの日本は、一度も『他国に侵略されて滅亡した』ということはない。
天皇が統治する国という意味で「皇国」、「スメラミクニ」(皇御国)が使われていた。これらは政治や思想、主義、規模等に基づく「Empire」(帝国)とは本来一線を画していたが、幕末以降に欧米列強の影響を受け、日本側も”Empire”の訳語としての「帝国」を意識するようになった。
例えば、マヤの遺跡やマチュピチュ等のアンデスの遺跡には人はもう住んでいないが、この国には人が住んでいる。確かに『平安京』などの城には人は住んでいないが、寺や神社は今でも人が管理していて、古からの文化は絶やされたわけではない。
さて、そんな独自のルートを進んだ日本は、藤原氏の栄光とともに『貴族文化』を生み出すようになる。ガラパゴス化現象を良く表現した『国風文化』である。日本の風土に合った独自の文化が育ったのだ。
国風文化
こういった優雅な文化が作られていった。下記の記事に、420年に中国の『宋(そう)』に『東晋』が滅ぼされ、中国は南北に分裂する『南北朝時代』に突入することについて書いた。
この南にあった南朝だが、北朝に広まった仏教文化とは違って『貴族文化』という優美な文化が栄えた。その理由の一つは、長江流域にあった豊かな稲作だったという。つまり、北朝よりも生産力があった。そうした事実が手伝って、南朝の人々は豊かな暮らしをしていたのである。
[女史箴図]
南朝の宮廷生活の様子を伝える絵画。
このように、貧しく、追い詰められると仏教のような『救済』に目が行くようになり、豊かになり、楽しい人生が送られると人々はより人生が豊かになるように『快楽』を求める。それは、かつて人間が『水』を求めて大河のほとりで文明を作った、紀元前5000年頃から変わらない習性だった。
さて、そんな流れで生まれた国風文化で、日本は『漢字』以外の文字を見出すようになる。それが『かな文字』である。それまでは、日本語を表記する際は日本語の音に漢字を当てはめる『借字(しゃくじ)』という方法をとっていて、『万葉仮名(まんようがな)』と呼ばれ、『万葉集』などはこれで記された。
その後、この万葉仮名の一部を使用して、字形を簡略化し、すばやく書くために崩して文字を通しながら『かな文字』が生み出されたのである。そのかな文字が初めて公文書として使用されたのが、905年の『古今和歌集』だった。
[「古今和歌集仮名序」(巻子本) 仮名序の冒頭。「古今倭歌集序」と最初に書くが、通常の『古今和歌集』の伝本にはこの題はない。12世紀ごろの書写で国宝に指定されている。大倉集古館蔵。]
その後、
とかな文字が使われ、この時代に豊かな文章表現が誕生した。
『源氏物語』に「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」とあるように、日本最古の物語といわれる。『かぐや姫』としても有名である。
紫式部の『源氏物語』について、『ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
日本文学の最高峰として君臨し、世界最古といわれる長編小説としても有名である。光源氏を中心とした人々の愛の遍歴を通じ、人間が純粋に生きることの哀しみと美しさを、雅やかな文体と豊かな想像力で描き上げたのである。
この光源氏とは、冒頭の記事で書いた『平等院鳳凰堂』に関係がある。記事に、鳳凰堂の元は藤原道長の別荘『宇治殿』で、それを寺に改め、浄土宗の中心として阿弥陀如来を本尊として、極楽浄土を表現した建物だと記載した。
[世界遺産『古都京都の文化財』平等院鳳凰堂 筆者撮影]
しかし実際には、この光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信(しげのぶ)を経て、998年に摂政藤原道長の別荘『宇治殿』となり、それが頼通の手で『平等院鳳凰堂』となったのである。
源融が死去したのは895年だから、このすぐ後の905年にかな文字で『古今和歌集』が出て、そして100年ほど経った後、紫式部が息をする時代になる。彼女の本名や生没年は不詳だ。ただ、活躍した年代はわかっている。偶然にもその源融の別荘が『宇治殿』となった998年、彼女は20歳ほど年上だった藤原宣孝(のぶたか)と結婚した。
彼女と宣孝は、子が生まれた後に冷たい関係となった。しかし、それでも宣孝が死ぬと寂しくなり、その穴埋めをするために筆を取っているうちに、この『源氏物語』が生まれたとも言われている。
上記の記事で、藤原道長の娘のうち三人が天皇の妻、つまり皇后となったと書いたが、文才が認められた紫式部は、そのうち彰子(しょうし)の女房として、道長に取り立てられた。
[紫式部(菊池容斎『前賢故実』)]
平安時代から江戸時代頃までの貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女性使用人。女房の名称は、仕える宮廷や貴族の邸宅で彼女らにあてがわれた専用の部屋に由来する。
長女 | 彰子(しょうし) | 一条天皇に入内 |
次女 | 妍子(けんし) | 三条天皇に入内 |
三女 | 威子(いし) | 後一条天皇に入内 |
彰子の女房は40人いたと言われているが、その中には藤原道隆の娘の藤原定子(ていし)に仕えた『清少納言』の存在もあった。彼女らは直接交流したことはないという。しかしライバル同士だったのか、
と日記に書いていたという。彰子がいたような後宮は『サロン』とでもいうのか、このサロンの女房には、高い知識や教養などが求められたという。それゆえに紫式部がここに配属されたわけだが、才能があったからこそプライドもあったのか、そうしてライバルを意識したことを書いたり、他の女房同士でも女同士の戦いを行っていたという。
しかし、彼女は全然控えめな方だったという。それとは正反対だったのが清少納言だ。彼女が紫式部を直接罵ったとかそういう話はないが、貴族の男たちや女房たちともよく議論をかわし、何を見ても黙っていられない性質だったという。文才もあり、『枕草子』という名作を生み出した彼女には、紫式部にない男勝りな勝気な性質があった。もしかしたら紫式部は、彼女にある種の嫉妬をして、そうしたためたのかもしれない。
『世の中に なほいと心憂きものは、人ににくまれんこと ことあるべけれ』
彼女が言ったこの意味は、『世の中で最も辛いことは、人から憎まれ、誤解されることだ』ということ。勝気な性質と同時に持っていたこの繊細さが、彼女を稀代の文筆家として歴史に名を遺す要因となったのである。
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