『保元の乱』
上記の記事の続きだ。さて、ここまでの天皇を見てみよう。冷泉天皇時代に藤原実頼ら、藤原氏が摂関政治を行い、藤原氏がまた力を得て、『安和の変』で実頼(さねより)が他氏排斥を完了させ、その甥の道長が、
この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思へば
と歌うほど、藤原氏は全盛期を迎えた。よって、その冷泉天皇以降の天皇を見てみよう。
上記までの記事に、藤原頼通が、道長の死後、『宇治殿』を『平等院鳳凰堂』にしたと書いたが、その頼通が孫に恵まれず、藤原氏と外戚関係にない後三条天皇の即位を許すことになった。ここからあの藤原氏の権力の雲行きが怪しくなり、かつて道長が歌った『満月』の月には、文字通り雲がかかってしまうことになる。
後三条天皇は、まず藤原氏の財源であった『荘園』に目をつけた。上記の記事にあるように、寄進地系荘園は藤原氏の有力な財源となっていて、そこにメスを入れることは、すなわち藤原氏にメスを入れることでもあった。後三条天皇は、『延久の荘園整理令』を出し、記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)という役所で荘園を審査させ、野放しになっていた荘園の実態を整理した。
公領(こうりょう) | 国司がおさめる政府の収入源となる土地 |
荘園 | 貴族や大寺社がもつ私有地 |
まず、荘園をこの二つに分け、国民の納税責務を再認識させた。当時、
という考え方を持ち、何とかして納税の義務から逃れようとする人がいた。
大名田堵 | 広い土地の耕作を請け負った有力農民 |
開発領主 | 土地を開発した有力農民 |
この田堵たちは現在における『パラダイス文書』の例のように、土地の名義を有力貴族や寺社に寄進することで、不輸の権を得て納税を逃れるようになった。中でも、勢力を誇った藤原氏に荘園が集中し、藤原氏は財政面においても権力を得ていくのであった。これが『寄進地系荘園の誕生』の流れだ。
荘園が国家への租税の一部またはすべてが免除される権利。
国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)と加盟報道機関によって2017年11月5日一斉に公表された、タックス・ヘイヴン取引に関する約1340万件の電子文書群。
一定の課税が著しく軽減、ないしは完全に免除される国や地域のことであり、租税回避地(そぜいかいひち)とも、低課税地域(ていかぜいちいき)とも呼ばれる。
税を納めたくない開発領主や田堵(たと)たちは、この荘園システムを利用し、網をかいくぐって現在で言う『脱税』にも似た行為をしていたのだ。そこで荘園に『公領』という新たな仕分けを用意することで、荘園が無秩序に拡大しないようにし、納めるべき税は確実に納税させるよう仕組みを作ったのだ。
その後、いくつかの参考書のすべてにおいて記述はないが、後冷泉天皇の時代になる。彼の時代は23年、後三条天皇はたったの4,5年という中で、よほど何もなかったのか、省かれているようである。その理由としては、この時代の政治の中心が藤原道長、頼通だったからだろう。そして白河天皇の時代になった。
1086年、白河天皇が皇位を譲って8歳の堀河天皇が即位し、自身は上皇となる。天皇に代わり政務を執る『院政』を始めた。この意味は下記に書くが、『摂政』と似たような意味である。それの天皇と上皇版という形だ。
天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治のことである。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治の方針である。
天皇が幼少であるか女帝である場合、天皇に代わって政務を行なう職。
移り変わりが早いのでもう一度後三条天皇のところから歴任を見てみよう。
そんな8歳だった堀河天皇は、話の上ではもう亡くなる。事実、28歳の若さでこの世を去ってしまったのである。そして次の天皇は彼の子であった鳥羽天皇になり、その次はそのまた子である崇徳天皇(すとくてんのう)になる。こうして代々天皇の子孫がその座を受け継ぎ、『院政』が続いた。
[鳥羽法皇画像(安楽寿院所蔵)]
この院政期は、法や慣習に縛れることのない専制的な政治が行われた。上皇たちは権力を持ち、下級・中級の貴族たちを仕えて国司とさせ、彼らに支持させ、その収入を院の収入とした李、広大な荘園を持って力を得ていった。更に、仏教を篤く信仰し、出家して『法皇(ほうおう)』と名乗ることもあった。
といった力を得たからこそ、専制的な政治をしたのだ。
支配者が独断で思いのままに事を決する政治。
だが、多数の荘園を持つ大領主であった大寺院が僧兵を組織し、これに逆らう姿勢を見せたので、院は『北面の武士』という武士を置き、源氏や平氏らの武士団を仕えさせ、院の武力を強化。これにより、ますます武士は中央に進出するようになり、確実に重要な立ち位置を示すようになっていった。
後一条天皇の時代の1028年『平忠常の乱(たいらのただつねのらん)』が房総半島で起き、それを源頼信(よりのぶ)が鎮圧。それによって東国(東日本)に源氏が進出するきっかけとなった。また、先ほど何も記述がなかったと書いた後冷泉天皇の時代の1051年には、『前九年合戦』という、東北地方の反乱があった。これは、陸奥の国司に任命された源頼義(みなもとのよりよし)が、東北の豪族、清原氏の助けを得て、源義家(みなもとのよしいえ)が鎮圧し、源氏が確実にその基礎を固めていた。
平安末期にあった反乱とそれを治めた武士
平忠常の乱(1028年) | 源頼信 |
前九年合戦(1051年) | 源頼義、源義家、清原氏 |
更に、白河天皇の時代1083年には、その東北の豪族、清原氏が内部分裂を起こし、一緒に『前九年合戦』で戦った源義家がこれに介入して鎮圧する『後三年合戦』があった。
[後三年の役]
ただ、この義家の行為は朝廷からは認められなかった。
しかし、義家は自分の家来にポケットマネーで報酬を出し、武士の結束が固まったという。そして、義家が一躍『源氏の英雄』となり、源氏の鼻息は確実に荒くなっていった。
内乱に勝利した清原清衡(きよひら)は、『藤原清衡』を名乗り、奥州藤原氏の祖となった。
この構図はかつてのローマ帝国が作られた紀元前にあった話によく似ている。アウグストゥスはカエサルの養子だった。紀元前27年に元老院から国家のあらゆる権力を付与され、ローマは『帝政ローマ』となったのである。アウグストゥスは広場や神殿、公共施設を建設し、人口120万人の国際都市ローマを造営した。しかし、彼自身は皇帝の宮殿とは程遠い質素な家に住み、更には自分のお金を使って市民に食料を配ったりして、国と国民に尽くした。
[オクタウィアヌス(アウグストゥス)]
政治用語を見てみよう。
支配者が独断で思いのままに事を決する政治。
君主を持たない政体、君主制ではない政治体制。
皇帝が支配・統治・君臨する国家。君主制国家の一種で、統治者が皇帝を君主号とする場合を指す。
貴族の特権があった『専制政治』のような社会に反発し、『共和制』となったローマ。カエサルが王になろうとしたときは、元老院から反発され、何者かに暗殺されることになった。しかし、結局彼の養子であるオクタウィアヌスは、その元老院から『アウグストゥス(尊敬すべき人)』の称号を得て、あらゆる権利を付与され、『帝政』となった。
つまり、まず『朝廷』や『暴君』のような圧倒的な権力を持った人物がいて、それに逆らうように律儀で義理堅い人間が現れる。
だ。カエサルや朝廷という『悪役』がいるから、コントラストの原理でアウグストゥスたちがより際立った『白』に見える。現在、歴史の中を旅している私からすると、ここに共通点が見えるのである。
白の隣に黒を置けば、より白が際立って見える現象。
実は、『後三年合戦』の2年前の1081年12月4日。白河天皇の春日社行幸に際して義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した100名の兵を率いて白河天皇を警護する。これが後の『北面の武士』の下地にもなった出来事である。この頃から義家・義綱兄弟は白河帝に近侍することになる。前述した大寺院の件で白河天皇は義家たちを都に呼び寄せ、これを鎮圧させようとする。つまり、その北面の武士にいたのが、源義家だったのである。こうして『源氏』と『武士』は、確実にその地位を上げていったのだ。
だが、義家の子である義親(よしちか)が荒くれ者だった。九州で略奪をし、隠岐に流されるが、そこを抜け出して出雲国で大きな反乱を起こす。これを鎮圧するために平氏として立ったのが、『平清盛(たいらのきよもり)』だ。『源義親の乱(1107年)』である。これによって、武士の中心が源氏から平氏に代わってしまった。
1107年というのは、鳥羽天皇が即位した年だ。それから天皇は上皇となり、崇徳天皇の時代になる。だが、鳥羽上皇と崇徳天皇は仲が悪かった。鳥羽上皇は、崇徳天皇の弟の近衛天皇に皇位を譲らせ、彼が亡くなると、もう一人の弟である後白河法皇に皇位を与えた。
[崇徳上皇像(『天子摂関御影』より)]
この野郎、弟ばかりひいきしやがって…。
崇徳天皇は確実に鳥羽上皇を忌み嫌うようになった。そこに入り混じるのが、3つの巨大勢力だ。
平氏 | 平忠盛、平清盛が海賊討伐で更に地位を上げていた |
源氏 | 源為義(ためよし)が源氏の再興を目論んでいた |
藤原氏 | かつての栄光を取り戻そうと画策していた |
つまり、鳥羽上皇と崇徳上皇に、これらの勢力が枝分かれして対立し、国の中央内で大きな勢力争いが起きようとしていたのだ。だが、当の鳥羽上皇は亡くなってしまう。するとそこに残ったのは、単なる権力争いに躍起になる、3大エネルギーである。だが、上皇となった崇徳上皇の怒りは弟の後白河天皇に向いた。そして、『崇徳上皇』VS『後白河天皇』の勢力争いが始まるのである。
崇徳上皇サイド | 藤原頼長、平忠正、源為義、源為朝 |
後白河天皇サイド | 藤原忠通、平清盛、源義朝 |
流れ的に考えると、この三勢力が衝突するのが普通だが、そうはならずにバラバラになったのは、ただ彼らが兄弟喧嘩をしていたり、血縁関係上、どうしても片側につかなければならなかったりしたからだ。しかし、こうして1156年『保元の乱(ほうげんのらん)』が起き、崇徳上皇サイドは敗北。源為義は子である源義朝の手で処刑され、平忠正は甥の平清盛によって処刑されるという、悲惨な結果となった。
[『保元・平治の乱合戦図屏風』「白河殿夜討」
(江戸時代)メトロポリタン美術館所蔵]
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