『源平合戦』
源氏の英雄『源義家』!平氏の実力者『平清盛』!そこへかつての巨大勢力『藤原氏』が乱入!
上記の記事の続きだ。後白河法皇が保元の乱の後、二条天皇に位を譲る。ここで政治の主導権を握るのは『信西(しんぜい)』という僧としても知られる藤原通憲(みちのり)だ。彼が出家していたのは自分に政治的な権力がないと考えたからだが、しかし彼の妻が後白河法皇の乳母をしていたので、力を得ていった。
そこに、平清盛が近づく。彼は後白河法皇サイドについていた人間だ。
保元の乱で分かれた人間
崇徳上皇サイド | 藤原頼長、平忠正、源為義、源為朝 |
後白河天皇サイド | 藤原忠通、平清盛、源義朝 |
播摩、大宰府でめきめきと頭角を現し、力を得ていった。しかし、信西のような『下級貴族』の出世を嫌がったのが、藤原信頼(のぶより)と、同じ後白河法皇サイドであった源義朝だ。更に、かつての同士平清盛だけが力を得ていくのも面白くなかった。そしてこの『信西、平清盛』を倒す勢力が動き出す。彼らは挙兵し、信西を捕らえて自殺に追い込んだのだ。
[『平治物語絵巻』三条殿焼討(ボストン美術館所蔵)]
この1159年『平治の乱』の仕返しに、平清盛は反撃をする。そして、信頼を斬首し、義朝を殺害し、義朝の子を伊豆の国に流す等して、またしても『武士』である平氏が活躍し、貴族や皇族といった存在に並ぶ存在感を示していったのだ。
当時の立場・役職の例
皇族 | 二条天皇 |
貴族 | 藤原通憲、藤原信頼 |
武士 | 平清盛、源義朝 |
だが、京の都が兵火に巻き込まれる等、何かと武力で問題を解決するのが問題だったのか、その身分が問題だったのか、保元の乱以降、合戦で敗れた武士には死刑が適用されるようになり、『武者の世』の到来と言われた。
平氏、平清盛は確実に力をつけていき、貴族的な性格を持つようになっていった。権力、財力ともに備わっていた彼だが、更に昇進を重ね、1160年、正三位となる。参議兼右兵衛督となり、さらに官途を重ねて最終的に1167年には、朝廷の最高位である従一位太政大臣となった。
彼だけじゃなく、彼の一族にも恩恵はあり、彼には66国のうち30国を平氏が支配し、荘園(不動産収入のようなもの)は全国に500か所以上もあったという。それだけではなく、『日宋貿易』という中国の『宋』との貿易でも大きく稼いだ。現在の神戸港にあたる『大輪田泊(おおわだのとまり)』という港を修築して管理し、中国ともビジネスを行ったのだ。
武家の棟梁としても実欲があり、全国の武士を『地頭(じとう)』に任命し、土地の管理と治安維持を行わせ、平氏一門を国司として全国に配置し、東日本にまで勢力を伸ばした。
『宗』の英雄『岳飛』と売国奴『秦檜』。だが、守った南は北よりも遥かに熱かった!
かつては藤原氏の、特に北家が繁栄を極め、道長が、
この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思へば
と歌うほど、藤原氏は全盛期を迎えた。と書いた。これは『満月のように、自分は今大変満ち足りていて、満足している』という意味である。
『他氏排斥』でライバルを蹴落としまくった藤原氏の権力が肥大化!そして『侍』が動き出す!
だがこの頃はの勢いは平氏にあったわけだ。この時清盛の妻の弟、平時忠(ときただ)は、
『平家にあらずんは、人にあらず』
と誇ったという。まさに、平氏の時代がやってきたのである。また、清盛の庇護を受けて反転したのは広島の『厳島神社』だ。太政大臣になった翌年の1168年、平清盛が社殿を造営し、厳島神社は現在と同程度の大規模な社殿が整えられた。平家一門の隆盛とともに厳島神社も栄えて平家の氏神となった。
[厳島神社(筆者撮影)]
[厳島神社(筆者撮影)]
その後、清盛は娘の徳子(とくこ)を高倉天皇に嫁がせ、その子を安徳天皇として即位させる。そして、兼ねてから多くの人がそうしたように、清盛はその祖父として藤原氏がやってきたように、摂関政治を行った。裏で糸を引き、政治を操ったのだ。そして平清盛は『武家政治の創始者』と言われた。
だが、かつて清盛が支援した後白河法皇は、これを面白く思わなかった。その後、対立が次第に激化し、1177年、平氏を追討する計画が作られる。しかし未然にそれを察知した清盛は、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、院政をやめさせる等して、多数の貴族を処分した。
この時、後白河法皇にまだ恩義があったのか、最初、清盛はこの中心であるはずの後白河法皇は追及しなかった。しかし、1179年にまたもや後白河法皇が嫌がらせを続けたので、ついに幽閉をしたという。
Contents|目次
源平合戦
だが、徐々に平氏の勢力に対抗する意識を持つ人間が出始める。後白河法皇の子、『以仁王(もちひとおう)』が、この平氏全盛の中で唯一源氏として政界に生き残っていた源氏の一族の源頼政(よりまさ)を味方につけ、1180年には『平氏追討』を命じる以仁王の意志は各地の武将に伝わった。この指令である『以仁王の令旨(りょうじ)』を読んで彼らは奮起する。
武士
その中には、伊豆に流されていた源頼朝もいた。彼は関東で勢力を強めるが、『石橋山の戦い』で平氏に敗北。しかし、同志たる武士たちと繋がりながら態勢を立て直し、何度も平氏に挑む。鎌倉を本拠地にした頼朝に、清盛は軍を出すが富士川を挟んだ戦い、『富士川の戦い』で平氏はついに敗北してしまう。この時、
『平氏軍は水鳥の羽音を敵の襲撃だと思い、戦わずに敗北した』
と言われ、平氏が『貴族化』し、軟弱になったことと語られたという。また違う参考書には、『源氏の盛んな勢いを見た平氏は、戦わずして敗走した』ともあり、どちらにせよハングリー精神と革命的な覚悟を持った『野良の武士連合』と『貴族化して軟弱化した平氏』では、前者に分があったということなのである。
『人間が転落するタイミングは決まっている。「得意時代」だ。』
清盛のもとへ届くのは、平氏への反乱の報告ばかり。清盛はもちろんこの状況を打開しようと努力するが、1181年3月20日、その翌年には高熱にもだえながら、病死してしまった。
1183年、『倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い』は、現在の富山県付近で起きた。源頼朝の許系の一か月後、信濃国で彼の従妹だった源義仲(よしなか)が挙兵し、彼がこの戦いで平氏軍を破り、京都も奪っていた。しかし、勢い余って乱暴者と化し、逆に『邪魔な存在』に成り下がってしまっていた。
『源平盛衰記』には、義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという、源平合戦の中でも有名な一場面があるが、この戦術が実際に使われたのかどうかについては古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。画像はゲーム『隻狼』のワンシーン。
後白河法皇は、彼を潰すべく頼朝に指示を出す。そして、源義経(よしつね)を大将にし、彼の兄でもある源範頼(のりより)と共に、義仲を討たせた。無事に義仲の勢力が鎮圧され、後白河法皇は源氏に、再び『平氏打倒』を命令。
- 一の谷の戦い
- 屋島の戦い
- 壇の浦の戦い
と戦を続け、最後の壇の浦の戦いで平氏は滅ぼされた。1185年のことだった。時代的には、ここからが『鎌倉時代』へと突入するタイミングである。この『源平合戦』は、源氏と平氏が戦ったわけではなく、各地で反乱を起こした武士たちが、リーダー格であった源氏とともに戦ったということでそう言われるが、現在は当時の元号から『治承・寿永の内乱(じしょう・じゅえいのないらん)』と呼ぶことが多い。
[『月百姿』の内「五条橋の月」。弁慶と戦う遮那王。月岡芳年作。]
遮那王は、義経の少年期の名前である。
鎌倉時代
しかし、後白河法皇が今度は源氏が邪魔になる。
うーむ。平氏は鎮圧したが、だからといって源氏が力を持ちすぎても困る。
そう考えた後白河法皇は、源氏に『仲間割れ』させようとし、義経をひいきし、頼朝に嫉妬か、対抗させるつもりだったのだ。具体的には、後白河法皇が彼に『検非違使(けびいし)・左衛門少将(さえもんのしょうじょう)』の官職を義経に与える。
結局義経には誰もつかず、結局義経が孤立化。義経は奥州藤原に身を寄せるが、1189年、藤原泰衡(やすひら)によって殺害され、『源平争乱の時代』は終わった。
泰衡の父は、かつて『後三年合戦』で『藤原清衡』を名乗り、奥州藤原氏の祖となったかつての清原清衡(きよひら)だ。実は、彼は義経の味方をしていたという。平氏が滅ぶと、もはや頼朝に対抗できる勢力は彼率いる奥州藤原しか残っていなかった。鎌倉と平泉(岩手県)が一触即発の中、1187年に秀衡は死去していた。しかし彼は、
『義経を主君(大将軍)として、兄弟の和融を保ち、頼朝にあたるべし』
という遺言を残していたのだ。だから、違う参考書にはこうある。
秀衡の子、泰衡は、鎌倉幕府を恐れ、星常の居館・衣川館を襲う。義経を護る兵はごくわずか、義経は覚悟を決め、自害して果てた。
つまり、秀衡は義経の味方になろうとしたが死んでしまい、息子の泰衡が跡を継いだ。しかし彼が頼朝率いる鎌倉幕府を恐れ、義経を襲撃する判断をしてしまうわけだ。そして最期は、武士らしく自害し、義経は家来『弁慶』と共に、そこで生涯を終えたのである。
その翌年の1190年、つまり『1192作ろう鎌倉幕府』の2年前だ。頼朝は大軍を率いて上洛。後白河法皇に対面する。そして、朝廷のもとで頼朝が武士を率いて国家の守護にあたる朝廷・幕府の体制、幕府が日本の軍事、警察的な立場を担当する体制が確立する。
地方から京都へ行くこと。『上京』が地方から東京へ行くこと。
[『芳年武者無類』の内「九郎判官源義経 武蔵坊弁慶」。源義経(奥)とその家来である武蔵坊弁慶(手前)。1885年(明治18年)刊。月岡芳年作。]
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オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこの時代あたりまでの日本史をまとめた人気動画があります。
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