『北条政子の実力』
上記の記事の続きだ。さて、時代は頼朝の息子、頼家(よりいえ)の時代になった。つまり、鎌倉幕府二代将軍が彼だ。頼朝にとっては、36歳で初めて得た男子であり、待望の後継者だった。だが、そうした期待も手伝ったのか、彼はよくある『馬鹿セレブ』か『金持ちのせがれ』に成り下がってしまった。彼は越権行為をしたいがために特権を乱用し、『自分の思い通りになる側近』を重用し、御家人たちの反発を招いて、外戚である比企(ひき)一族ともども政治の舞台から退けられた。
こういう話はよくあることだ。例えば現在でも大企業の息子がラスベガスのカジノで100億円もの大金をすったという事件があったが、そのお金がどれだけの大金なのかわかっていなかったのだ。つまり、下記の記事に書いたように『足るを知る者は富む』。そしてその意味とは、『無駄に自分を満たすことは贅沢。人は満足できればそれでよい』ということ。
つまり、彼らに最初からお金も権力もなければ、当時、貧乏を強いられたはずの多くの人々の気持ちと同じ心境で、厳かに、謙虚に、慎ましく生きた。もちろんどんな環境でも転倒する人はするし、しない人はしないが、とりわけ、生まれつき力を備わり、そして過保護気味に育てられた人物は『愚者』になるのが相場なのである。それは、下記の記事に書いたように、『基礎』を積まずして上に立ったからだ。その基礎こそがすべてなのだ。
そうした黄金律を知っている人はいる。例えば、後に登場する皇族一家でもある岩倉具視だが、タレントで活躍する加山雄三の高祖父にあたる人物である。ある時加山は、バブル時の選択肢を誤り、23億円の負債を抱え倒産。何とか運営したホテルが18億円で売却されたが、5億円もの借金が残っってしまった。1969年の『フレッシュマン若大将』以降低迷した同シリーズが1971年に終了、映画出演の減少もあいまって、かつてない不遇の時代を迎え、ナイトクラブ、キャバレー回りをするも、ギャラはほぼ全額借金の返済に充てられ質素な生活へと追い込まれた。
当時は夫婦で卵かけご飯だけ食べて生活したという加山だが、10年かけてこれを完済。その時、加山雄三が言ったのはこうだ。
つまり、彼ら家系にあったのは『本物の教え』。私の好きな言葉にも、
三流は金を残し、二流は事業を残し、一流は人を残す。
という言葉があるが、彼らにあったのは間違いなく『一流の家訓』であり、これを理解できない人間は一流の素質はない。今からでも遅くはないので、意味を熟考し、安易で軽率な判断をやめるようにするべきである。
頼朝がどれだけ頼家を溺愛したかということが、後に源氏に代わって幕府のリーダーとなる北条家の『北条政子』とのシーンでも見て取れる。ある時、頼家が鹿を射止めたとして、父、頼朝はお喜びし、使者を立てて政子にその旨を伝えた。しかし政子は、
と使者を追いかえしたという。この話だけで登場人物たちの性格がよく見えてくるはずである。彼女は頼朝の妻だった。
彼女は上の絵のような長い髪ではなく、僧として髪を剃り、厳かに生きた人物だった。しかし、そんな彼女も夫と結ばれたときは、情熱的だった。当時、彼らの縁談は当時認められず、平氏の流れを優先して他の縁談を取り決める。しかし政子は雨が降る夜道を頼朝のもとへ走り、『駆け落ち』したのであった。
私もいくつか思い出があるが、大体雨の中道を歩くことができるのは、 『そのほかのことで頭がいっぱい』の時だ。しかも『嬉しいこと』であることが多い。みじめな時に雨にあたり、余計みじめな思いをするパターンもあるが、往々にして非日常的なそういうシーンが、状況をよりドラマチックにさせるのである。その後彼女は頼朝のよき相談相手として、政治を支えていったのだった。
父が溺愛し、母が厳格に育てた。だとしたらバランスはあったはずだが、『力』がありすぎたのだろう。彼は暗殺され、次は弟の実頼(さねより)が鎌倉幕府三代将軍となった。実頼はなかなか優秀な政治家となったが、子がいなかった彼は、兄、頼家の子を養子として迎える。しかしそれを斜に構えて解釈した頼家の息子、公卿(くぎょう)が、
として雪の積もった鶴岡八幡宮で、彼を殺してしまったのだった。1219年正月のことだった。この公卿というのが、実頼が養子にした、その子供だった。
実は、その前に政子が、病気になったタイミングで、子である頼家を将軍職から遠ざけ、修善寺に幽閉していた。比企一族を誅殺したのも彼女だ。このあたりでは参考書によって見解が異なっている。ある参考書では、
政子の父、北条時政が、祖父である立場を利用して頼家を退かせ、実朝を将軍にした
とあるが、ある参考書では、
頼家を退かせたのは政子である
とある。それも、その参考書の続きとして、こうあるのだ。
2年後には、後妻と共謀して政権奪取をもくらんだ、父である執権北条時政を伊豆に幽閉する。
政子の上に時政がいたのではなく、かつての『駆け落ち』を考えるからにして、政子の方が意志が固く、主導権争いに勝ちやすい性格だったと考えられるため、おそらくはこの話の中心にいたのは政子だったと考えられる。彼女は『尼将軍』と呼ばれ、大きな影響力を持っていた。時政は、この結婚を『平氏から滅亡されるのを覚悟で最後には承認した』と一目置かれる面もあるが、後妻に操られ、老害と化した彼のその後を見ると、
政子には逆らえないなぁ…
という考え方があったと考えるのが自然である。
[北条時政]
その後、時政の後は、政子の弟、北条義時(よしとき)になる。彼は父に代わって『執権』という立場で幕府の実権を握り、侍所の長官だった和田義盛(よしもり)という人物を滅ぼしたことで、
という軍事と役所のトップを兼任し、執権の地位の向上に貢献した。義時は頼朝から信頼されていて、
『義時をもって家臣の最となす。』
と言われるほどだった。
だがその後、三代将軍実頼も亡くなり、彼を殺した公卿も殺された。実頼の後の幕府の実権は源氏との血のつながりがある藤原氏の藤原頼経(よりつね)が候補に挙がるが、彼は2歳であり、現実的ではなかった。そこで政治の実権は北条氏に移り、北条義時が指揮を執った。しかし、これでついに頼朝直系の男子がいなくなってしまった。それをチャンスだと思ったが、後鳥羽上皇である。
[後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)]
では、ここまでの天皇の歴任を見てみよう。
実頼が亡くなった1219年は、順徳天皇の時代だった。そして、後鳥羽天皇は上皇となり、後鳥羽上皇となっていた。ここまでの話に天皇の話があまり出てこないのは、もはや国の中央が『鎌倉』に移ったも同然だったからだったが、後鳥羽上皇はそういう状況を面白く思わなかったのだ。彼は、朝廷の所有する領地の拡大を考えるが、
『御家人が所有する土地は、大罪を犯さない限り没収されない。』
という幕府の原則によって、打ち砕かれていた。後鳥羽上皇は、実頼を優遇し、手なづけようとするが、実頼は暗殺される。その後、義時が実権を握ると、御家人の立場はより強く保護されるようになり、『将軍と御家人』の強固な関係を崩すことは容易ではなくなった。しかし、
として後鳥羽上皇は討幕の兵を挙げ、北条一族の主義、伊賀光季(みつすえ)を襲う『承久の乱(1221年)』を起こす。御家人、つまり武士たちが自分の側につくと見誤ったのだ。上皇は、挙兵前に家臣の三浦胤吉(たねよし)とこうやり取りしたという。
だが、彼らの読みもあながち的を射る部分もあった。だが、読み間違えてもいた。北条氏にはあの『尼将軍』北条政子がいたのだ。一方、その裏では北条政子が動いていた。政子邸には大勢の御家人が終結。しかし、多くの武士は朝廷の読み通り、朝廷に歯向かうことを恐れていたのである。それに対し政子は『最期の詞(ことば)』として、
などを中心として彼らを鼓舞したのだ。
彼らは政子の『魂のスピーチ』によって決起し、涙ながらに忠誠を誓い、結束が固まった。そう。上皇が読み間違えたのは、北条政子という人物の潜在能力だったのだ。
[北条政子(菊池容斎画、江戸時代)]
北条泰時(やすとき)とは、義時の息子だ。この承久の乱があったのは1221年で、この時義時は還暦同然だったので、血気盛んな39歳の息子の泰時を将軍としたのだろう。
こうして総数19万もの大軍を率いて、幕府は朝廷に圧勝。後鳥羽は、
として食い下がるが許されず、隠岐へ流された。この時、もはや朝廷の力は幕府にとって代わられたことが証明されたのである。全国3000余の荘園が没収され、幕府側は大きな力を得た。
かつて、世界三大美女に数えられるクレオパトラはこう言った。
確かに彼女は側近たちの陰謀により、追放の窮地から脱することができ、更には、ローマ最高権力者の愛人となったことで豪邸に住むことができた。彼女がどんな野望を抱いてこの言葉を言ったかはわからないが、もしかしたらその美貌を利用して、世界中の女性が目をくぎ付けにする『女性としての最強の処世術』を繰り広げて見せたのかもしれない。
しかし、カエサルの暗殺によって、彼女の野望も終わってしまった。レオパトラは、カエサルとの子供、カエサリオンを、弟のプトレマイオス14世の死後、王に即位させたが、彼女の死後、オクタウィアヌスによって処刑されてしまうのだ。
だとするとどうだ。彼女ほどの美貌がなくても、美しい生き方をしたのは政子だ。そして、彼女ほどの戦略家を自負する言葉を残さずとも、彼女が我が子頼家に対して接した母としての対応。そして、かつて駆け落ちまでして愛した夫が作った鎌倉幕府の運命を背負った『最期の詞(ことば)』として武士たちを奮起させたその魂のスピーチにあったのは、知性と人間味が溢れる真実の言葉だったに違いない。
クレオパトラも彼女も、同じように裏から男たちを援護したかもしれない。だが、その援護を自分でどう解釈するかで、その人間の価値が決まるのではないだろうか。
[クレオパトラ]
その他にも、
といった女性たちは、日本中世前期のこの時代、男勝りに活躍した。下記の記事に書いたように、義経というのは圧倒的なカリスマ性と潜在能力を持ち合わせていて、ローマ帝国の後にこの世界を支配した『チンギス=ハン』と本気で信じられたほどの軍才を持っていた。その義経は、兄である頼朝、つまり北条政子の夫であり、後に鎌倉幕府の創始者となる男と不仲になり、追われる身となったが、静御前は、あろうことかその頼朝の前で、義経を慕う舞『白拍子』を舞ったという。
[肉筆画で描写された白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵、文政3年(1820年)頃)]
女は女で、戦ではない場所で行われた戦があった。そして彼女らは、そこで慕う人の為に命を懸けたのである。
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