『北条氏得宗家』
上記の記事の続きだ。さて、京の治安維持や朝廷との交渉を行った『京都守護』は『六波羅探題(ろくはらたんだい)』へと改称され、これで西日本を統括し、朝廷を監視できるようになったのだ。それまでは、
東 | 将軍のいる鎌倉幕府 |
西 | 天皇のいる朝廷 |
という構図だったが、これで鎌倉幕府が全国を支配する流ほどの勢力を持つことになったのだ。その後義時が亡くなり、六波羅探題だった泰時が執権になる。北条政子も亡くなり、勢力の弱体化も疑われるような状況となるが、そこは承久の乱で総大将を務めた泰時。『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』などの新たな制度を作り、統治に勤しんだ。
連署 | 執権の補佐役 |
評定衆 | 有力御家人の話し合いの機関 |
御成敗式目 | 武士の慣例や規範のまとめ。武士の基本法 |
冒頭の記事に書いた後鳥羽上皇の『承久の乱(1221年)』では、全国3000余の荘園が没収された。そして、この地頭に御家人を配し、幕府の地頭制を全国に及ばせたが、この地頭たちが荘園をめぐって問題を起こすようになる。記事に書いたのはこうだ。
御家人 | 将軍の家臣。ここから地頭や守護が任命される。 |
地頭 | 各地の公領や荘園の治安維持を行う。 |
守護 | 御家人の指揮、総括。国内の軍事・警察を担う。 |
つまり、まだ現在の『警察官』にあたるような立場は存在していない。治安を守るのは共通するが、まだ地頭などは特定の地域だけの警備だし、守護は謀反人や殺害人などを逮捕するが、県の警察長官の立ち位置だから上の方にいて、細かい部分にまで目が行き届いていない。
ここから400年後ほどの1600年、江戸時代には警察に相当する役所として町奉行所があった。江戸には南北の町奉行が、諸国には地名を冠した遠国奉行があり、その職員である『与力、同心』といった存在が現在の警察官に相当する立場となる。
つまり、この『地頭』は『年貢徴収を行う警察官』という限定的な存在だった。しかし彼らは納めるべき年貢を着服したり、荘園領主が派遣した役人を追放したりする越権行為をよくしたので、およそ警察官とは言えない存在だった。そこで荘園領主は、
という約束『下地中分(したじちゅうぶん)』という考え方で、地頭に土地のいくつかを分割して差し出し、その代わりに残りの土地には手出ししないように求めて、和解した。まるでやり方は暴力団だ。例えば斎藤という暴力団がいたとして(お頭はいちいち出向かないから)、
とするのと同じだろう。
地頭請け | 決まった量の年貢と引き換えにその土地の支配をゆだねる |
下地中分 | 荘園領主と地頭が土地を分割し、地頭の欲求を満たす |
では、鎌倉幕府のここまでの執権を見てみよう。
泰時の後に北条経時が四代執権となったが、将軍藤原頼経が権力強化を図り、窮地となる。そこで1244年、彼の将軍職解任を強行し、1245年には彼を京へ追放しようとするが失敗し、1246年、23歳の若さで亡くなった。理由は心労による病気だったという。
そこで五代執権になったのが時頼だ。1243年、まだ四代執権:北条経時がいるときに藤原頼経と名越光時の陰謀を察知して鎮圧。また、摂家将軍の藤原頼嗣(よりつぐ)を京に送還し、『反北条勢力』を一層。そして、経時が死んだ翌年1247年には名族・三浦氏を滅ぼし、得宗専制を確固たるものにした。
[建長寺所蔵の北条時頼像(江戸時代)]
鎌倉幕府において執権を務める平氏一門の北条氏の惣領である得宗に幕府権力が集中して専制政治が行われたこと、またその時期。
北条時政から続く一家。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。
この三浦泰村(みうらやすむら)は『反北条勢力』だったわけだ。
こういった人物は皆『反北条勢力』で、五代執権の時頼はこういった危険因子を排除することに成功し、北条氏得宗家の一門に多大なる貢献をした。三浦氏繁栄の基礎を築いた『三浦義純(よしずみ)』は、鎌倉幕府創立者の立場にも等しい、初代征夷大将軍の源頼朝の盟友で、何度も頼朝と一緒に窮地を潜り抜け、頼朝の幕府創設を支えた重要人物だった。
しかし、源氏の血が絶えて北条氏になったからなのか、北条氏の独裁政権が気に入らなかったのか、三浦義純の意志が廃れてしまったのか、三浦氏は『源氏の跡を継いだはずの北条氏』の目の敵となり、北条氏を潰そうとし、逆に潰されてしまい、結果的に北条氏の座を確固たるものに変えてしまったのである。
ちなみにこの名越光時というのは、二代執権の北条義時の孫だった。
こう言った光時は、自分の血筋の方が優先されるべきだとして、権力を主張したのだろう。
三浦氏を破り、藤原将軍をおろしたことで天皇家から『宗孝親王(むねたかしんのう)』を迎え、将軍とする。これ以降、皇族将軍が続き、幕府の支配に天皇の権威が加わることになった。
幕府の支配+天皇の権威
時頼は、御家人に対して融和政策をとり、農民の救済にも努めた。『引付(ひきつけ)』という制度を設け、前述した『地頭と荘園領主』間のトラブルをスムーズに解決できるように対策をしたのだ。こうした彼の貢献から、彼は『歴代執権最高』の評価を得る名君となった。
この北条氏得宗家というのは賢い人間が多い。まずここまでに登場している得宗家の人物を簡単にまとめてみよう。
北条時政(初代執権) | 後妻と出会うまでは有能なリーダーだった |
北条政子 | 幕府創立者の源頼朝を支えた裏番長 |
北条義時(二代執権) | 執権体制を確立した軍政・軍略の天才 |
北条義時(三代執権) | 中国の伝説上の名君『堯・舜の再来』と言われた |
北条重時(義時の子) | 法律のエキスパート |
北条時氏(泰時の子) | 戦場で優れた演出を発揮 |
北条時頼(五代執権) | 歴代執権最高と言われた |
まず初代執権の北条時政は、1180年、頼朝の挙兵を積極的に後押しし、後白河法皇相手に1000騎の軍勢で威嚇し、総追捕使、地頭を置く権利を勝ち取り幕府設立の地盤固めに貢献する。後妻と出会ってからは妙な動きをし始め政子に幽閉されたが、『鎌倉幕府設立』という大きな夢と野望を実現する源頼朝勢力の、れっきとした長老だった。
[北条時政]
『尼将軍』と呼ばれが政子に関しては冒頭の記事にたっぷり書いたので割愛する。そして義時だが、彼は父時政に代わって執権という立場で幕府の実権を握り、侍所の長官だった和田義盛(よしもり)という人物を滅ぼしたことで、
という軍事と役所のトップを兼任し、執権の地位の向上に貢献した。義時は頼朝から信頼されていて、
『義時をもって家臣の最となす。』
と言われるほどだった。将軍の実朝や、姉の政子をきちんと立てながら、執権としての責務を粛々とこなし、『六波羅探題』を京に置いて、執権政治を確立した、軍政・軍略の天才と言われた。
執権政治
将軍 |
執権 | 連署 | 評定衆 |
政所 | 一般政務と財務 |
侍所 | 御家人の統率や軍事、警察 |
寒中所 | 訴訟・裁判を処理 |
六波羅探題 | 京の治安維持や朝廷との交渉、尾張国以西の御家人を統率 |
鎮西奉行 | 九州方面の御家人の統率と訴訟取次 |
奥州総奉行 | 奥州の御家人の統率と訴訟取次 |
守護 | 軍事、警察権の掌握 |
地頭 | 諸国の荘園や綱領に設置され、土地管理、納税、、治安維持を担当 |
また、その義時の子、重時は、『御成敗式目』制定の際に、三代執権泰時の相談相手となり、
を残すなど、法律作りのエキスパートと言われた。
では、その三代執権泰時は重時のような人間がいなければ何もできなかったのかというとそうではない。むしろ、中国の伝説上の名君『堯・舜(ぎょう・しゅん)の再来』と言われるほど、彼の時代の治世は評判が高かったのである。
[北条泰時]
その泰時の子、時氏は、『富士川の戦い(1180年)』で先頭を切って突っ込み、相手をびびらせて敗走させ、戦を優勢に運ぶ演出をしてみせ、大活躍した。そしてここで紹介した五代執権の時頼は、歴代執権最高と言われるほどの人物で、23歳の若さで亡くなった四代執権であった兄、経時ができなかったことを成し遂げ、兄の命と北条氏得宗家一門の基盤を守った。
そしてこの後、
が、六代、七代執権を執り、八代執権の『北条時宗』の時代になる時、鎌倉幕府は最盛期を迎えるのであった。
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