『鎌倉仏教』
上記の記事の続きだ。鎌倉幕府が最盛期を迎える八代執権の『北条時宗』の話をする前に、当時広がった宗教や文化についてまとめておこう。『鎌倉仏教』である。下記の記事にあったように、平安末期、まだ藤原氏が京で政権を握っているとき、道長、頼通の時代には、『浄土教』が流行していた。
なぜこの浄土教が流行していたのかというと、『末法思想』という言葉がキーワードだった。仏教の開祖、釈迦(ブッダ)が亡くなった後2000年間の後に『末法』という世がやってきて、世が乱れると信じられていたのだ。その時代がまさに、この頼通の時代だった。
[平等院鳳凰堂 筆者撮影]
頼通が建てたのが有名な京都の世界遺産『平等院鳳凰堂』だ。これは、元は道長の別荘『宇治殿』で、それを寺に改め、浄土宗の中心として阿弥陀如来を本尊として、極楽浄土を表現した建物だ。このとき、仏教の流行は法然が開いた『浄土宗』だった。
[法然]
下記の記事にも極楽浄土についての様々な見解は書いたが、最澄や空海の300年後に登場したこの法然の考え方はこうだった。
考え方はその記事に詳細を書いたが、とにかくこのようにして日本に浄土信仰たる思想も根付いていた。しかし頼通の時代にはまだ法然は存在しておらず、その当時にあった浄土信仰は、法然が開く『浄土宗』とは違う、7世紀前半からあった『浄土教』だった。
浄土信仰 | 阿弥陀仏を対象とする信仰のことで、阿弥陀信仰とも言われる |
浄土教 | 空也が広めた浄土信仰 |
浄土宗 | 法然が開いた浄土信仰 |
更に、『悪人も往生できる』と説いた親鸞や、様々な宗派が作られ、新しい時代の風を吹き荒らした。
[親鸞]
宗派 | 開祖 | 教義 |
浄土宗 | 法然 | 念仏を唱えれば極楽に行ける |
浄土真宗 | 親鸞 | 仏を信じ、念仏を唱えれば悪人も往生できる |
時宗 | 一遍 | 踊り念仏で救いを得る |
臨済宗 | 栄西 | 座禅によって悟りを得る |
曹洞宗 | 道元 | ひたすら座禅を組み悟りを得る |
日蓮宗 | 日蓮 | 法華経を重視する |
日本の中心的な仏教の宗派
このような動きがあった理由は、
等が挙げられた。まず末法思想だが、やはり平安末期の『保元の乱』以降、相次ぐ戦乱があり、飢餓もあった。
そういった人々の不安が、仏教にある末法思想に現実味を帯びせ、より一層信心深くなったわけだ。
そして下記の記事に書いたように、鎌倉幕府の登場によって日本の舞台の中心は東国、つまり東日本の武家に移り、日本人の内面的な問題にも大きな変化があった。例えば生活に余裕のある公卿たちのように、優雅な貴族文化や思想を持って生きるのではなく、『武士道精神』の根幹となる考え方が生み出された。
貴族たちと違って武士は、『人を斬り殺す道具』を持ち歩き、自分もいつその刃を向けられるかわからない、そういう緊張感の中で生きることを強いられたわけだ。すると、そういう人たちに備わる精神というものは、自然と自分に厳しいものになる。これにこたえるように道元や栄西といった名僧が現れ、武士道精神を助けた。
道元や栄西の教えで共通するのは『座禅』である。武士が座禅を組み、精神統一をする印象がないだろうか。武士道精神を持った彼らには、己と向き合い、命の集中力を高めるこうした教えがひどく性にあったのである。
そして『旧仏教の腐敗』だ。これに関しては、下記の記事に書いたような『称徳天皇・道鏡』時代の腐敗とは少し違うが、ある程度は同じである。聖武天皇時代から鎮護国家の思想があり、仏教の真理の力を借りるのまではよかった。
仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想。
だが、それによって記事にあるように、道鏡のような僧侶が天皇の座を狙うような事態を招いてしまった。こういうことが問題となり、桓武天皇はこれを『仏教の腐敗』と考えた。この時、
といった仏教の重要人物が現れるようになる。彼らもまた真の仏教を求めて中国に留学し、空海は密教という新しい風を日本に持ち込んだ。こうして皇室や貴族層に加持祈禱(かじきとう)を中心とする密教が流行し、平安時代の主流となった。その密教の広まりと共に、曼荼羅などの仏画や不動明王像など特有の密教芸術が発展するのである。
神仏の加護を求める行法を修し、病気平癒や災いの除去などの現世利益を祈ること
秘密の教えを意味し、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し、秘密仏教の略称とも言われる。
道鏡は『殺生の禁止』をしたことから、一概に彼が腐敗しきっていたとは言い切れないが、『仏に関わる人間が権力を持って暴走した』という考え方において、あれから400年以上経ったこの時も、同じような現象は起きていた。仏教の担い手だった大きな寺院は荘園領主となったり、上皇のような巨大な権力と結びつき、財力や権力にまみれて堕落していたのだ。
[空海]
そこで、かつて最澄、空海が登場し、
と考えたように、法然、親鸞、一遍、日蓮、栄西、道元といった人物たちが、その時代に適した仏教の宗派を作り上げ、人々の精神面を支えようとしたのである。
坂本龍馬が『日本を洗濯したい!』と姉に手紙で書いた言葉。
彼らに共通するのは、
人々を助けたい!
人の心を支えたい!
ブッダの教えを正確に説きたい!
ということだろう。だが、それぞれがその媒介者となり、『ブッダ→彼ら→教えの形』という構図ができることで、やはりその教えの形は変わってしまう。下記の記事を書いた私からすれば、ブッダの教えに一番近いのは『栄西、道元』が説いた『座禅によて悟りを得る』教えである。
道元の一生を描いた映画『禅 ZEN』には、道元が北条時頼にこう言うシーンがある。
『万巻の経典を読み、呪文を唱え、仏の名を念じても、釈尊の教えを得ることはできません。只管打坐(しかんたざ)。ただひたすら座ります。あるがままの真実を観ることこそ悟りなのです。』
これこそがブッダがやった『ヴィパッサナー瞑想』である。『ヴィパッサナー』とは、『あるがままを観る』という意味だ。釈迦は29歳までありとあらゆる快楽を味わい、35歳までの6年間でありとあらゆる苦行を味わった。しかし、釈迦が『苦しみからの解放』を見極めた『ブッダ(悟りを開いた者)』になったのは、快楽も苦行も関係なく、それが終わった後の『瞑想(内観)』による、自分の心と向き合う時間が決め手だった。その瞑想の期間は『一週間』だった。
もちろん法然が言った、
という考え方はいい。そして、こうして簡略化したからこそ多くの人に受け入れられ、多くの共感を得るのは、この世界においてよくある現象だ。先ほどの記事でもキリスト教が世界宗教になった理由について書いたが、また下記の記事に書いたことも再確認してみよう。
寿命が短く、奴隷や生贄として命を『消耗』させられていた当時の時代は、ファラオ以外の人間の命は動物と同じように扱われていて、『消耗品』として考えられていた。ちょうど、我々が今、鶏、豚、牛の肉を食べるが『当たり前』だと思っているように、当時の人々の命も扱われていたのである。
しかしその後は、
のような人間が現れ、『王や貴族や中産階級のみならず、もっとも地位の低い平民や奴隷たちの来世をも保証する』という考え方が生まれた。バックミンスター・フラーの著書、『クリティカル・パス―宇宙船地球号のデザインサイエンス革命 』にはこうある。
いまや誰でも来世に逝けて、この世で信心深い行いや考えをして認められればそこで歓迎されるということが、口伝えにまたたく間に広まっていった。この世の中で公式に神の代理として認められた人たちは、天国、あるいは地獄へ行くための資格を説き、それを認めることで莫大な力を得た。この力はすぐに神聖ローマ皇帝のものとなり、すでに述べてきたように、巨大なヨーロッパ教会支配体制と1500年にわたる暗黒時代とを生み出したのであった。
注目したいのはここだ。
いつの世も『簡略化し、大勢に受け入れやすい規格を用意した者』は多くの支持を得て、莫大な力を得るのだ。2019年、現在の日本で言えば『youtuber』がわかりやすい対象だろう。
http://www.biz-hacks.com/work/081031.html[qoute]
史上において圧倒的なシェアを占めるのは、『キャズム』から右である。キャズムというのは、何でもない。絵の通りの、単なる『溝』の名前だ。『マジョリティ』というのは『多数派』で『マイノリティ』が『少数派』だからこの『アーリー、レイト』のマジョリティ総が、全体の7割を占める。『ラガード(遅延者)』を入れたら、8割だ。つまりここで言う、
のような先駆者や物好きは、物が一般化する前に商品を買う。ちょうど、iPhoneの新型を買うために並ぶようなイメージだ。このような人の動きのイメージは、インターネットが世に浸透するまでの流れを考えるときにも参考になる。
『キャズム』を飛び越え、全体の8割を占める市場を取るには、『ホールプロダクト(それに必要な製品・サービスの用意)』が必要である。例えば『マウス』だ。
グラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)の環境を持つパソコンを登場させたスティーブ・ジョブズが率いたアップル社の『マックOS』、ビル・ゲイツ率いるマイクロソフト社の『ウィンドウズ』がそうだ。マウスで簡単に複雑なパソコンを操作できるようにした、この二人の名前を知らない人はいないだろう。彼らによってパソコンは、『使いこなす』必要がなくなったのだ。一家に一台が当たり前の時代を築き上げた。つまり、『マジョリティ層』にパソコンを受け入れさせたのである。
徳川家康は言った。
これによって彼らがどれだけの人物となったかは、周知のとおり。最も多くの人間を喜ばせることに成功し、最も大きく栄えることに成功したのである。だが、
という図式は成り立たない。例えば前者だが、もしそこに『ジャンクなものを食べたい』という人間の欲求を突いて大勢力を得たジャンクフードやスナック菓子の販売会社はどうだろうか。
『最後に読む育毛の本』にはこうある。
面白いのは、薄毛人口率の高い国は、ファーストフードをはじめとした便利食が多い先進国に共通しているという点でしょう。安いファーストフードのハンバーガーなどは、塩分やうまみを感じさせるための添加物がてんこ盛りで、安価な肉が原料となっています。知り合いの栄養士は、つきあいでハンバーガーをどうしても食べなければいけない状況でない限り、絶対に食べないと語っていました。本人は、ファーストフードの肉はゴミの塊だと認識しているのです。『あんなものは毒以外のなにものでもない』と。
ハンバーガー等に使われる肉は、栄養士から言わせれば『ゴミの塊』であり、『有害物質』だ。いくら人間が欲するものだからといって、その欲望に付け込み、ゴミの塊と有害物質を売って大金と多くの支持を得るそれらの企業が本当に『成功』しているのかどうか、首をかしげざるを得ない。
そう考えると、彼らが『やさしさ』で用意した教えにあるのは『易しさ』であり『優しさ』ではない。優れた教えというものは、必ずしも多くの人が容易に習得できるものではないのだ。一流のアスリートや技術者たちが、何年も基礎を積み、多くの試行錯誤、あるいはPDCAサイクルを回すことを繰り返して磨き上げ、ようやく優れた結果を捻出できるようになるように、そう簡単に得られないからこそ『極意』であり、それを習得したときにそれを大事にするのだ。
フランスの小説家、プレヴォは言った。
私はプレヴォの言ったように、仏教やキリスト教の宗派がこうも分派し、まるで伝言ゲームのように源泉から離れれば離れるほど汚染している現状に憤りを覚えた人間の一人だ。それは、クリスチャンである私の両親が行った『精神的虐待』とも言える宗教の強要が、私をこういう考え方にした原因なのである。
我々は双方に愛していたからこそ、お互いがこれを虐待と捉えなかった。だが、冷静な第三者が見ればこれをそう表現することになるだろう。宗教の元祖、つまりブッダやキリストといった人物は、本当に『宗教の強要』をした人物だったのか。ここに登場する『元祖以外の人物』には、もちろん悪気はない。対象を愛しているし、救いたいし、守りたいし、理解してもらいたい。そういう思いがあったに違いない。
だが、神(真理)は厳かだが、人間は間違える。そういうことなのである。私はこうして宗派が生まれるという話を聞くといつも、プレヴォの言葉、そして自身の体験を思い出し、複雑な心境になるのである。
だが、確かに彼ら『仲介者』の歴史をひも解くと、彼らがオリジナルの宗派を作った理由もうなづける。先ほど『選ばれた人間しか救われなかった』というヨーロッパの宗教事情について書いたが、この日本でも全く同じ構図が作り上げられていた。法然は、比叡山に上り修行を積むが、
という教えに疑問を抱き、山を下降り、浄土宗を開いた。そして、『念仏を唱えれば誰もが救われる』と考えた。これは『優しさ』から来ていることだ。そして『易しさ』に甘んじていたのは比叡山だった。
例えば『面白いほどよくわかる聖書のすべて』にはこうある。
神の奴隷となったユダヤ人の前に、紀元前後、イエスが現われて神の言葉を伝えます。律法に縛られて神の奴隷にならなくてもよい、神はあまねく広く人間を愛してくれている、律法に縛られることはない、というものです。つまりイエスは『自由』ということを謳いました。
(中略)『旧約聖書』のなかにあるように、人は神との契約で律法を守ることになりました。ところが、その律法さえ守ればあとは何をやってもいいのだ、という考え方にしだいになってきます。ある意味ではマニュアル人間、管理された人間になってしまう。そのような時代のなかで、イエスは自由な生き方を主張しました。これは保守的なユダヤ教徒にいわせると、由々しき問題でした。
その当時は、ただひたすら決まりを守っていれば、あとは何をしてもよかった。金、金、金と追い求めてもよかった。また、律法さえ守っていれば、必ずご褒美を貰えたのです。お金持ちになれたのです。律法に逆らわなければ病気にもおかされない。そのような時代に、そのような考え方をする人々に向かい、自由になりなさいとイエスは言いました。『幸いなるかな貧しいもの』と説いたからです。
それまでは、まず最初に契約に忠実であることが求められていました。これに対し、神のほうから先に愛してくれるーはじめに愛があるのがイエスの出発点です。そういう意味では、あまねく慈悲をかける仏教の出発点もここにあると見られます。(中略)イエスは、ユダヤ人だけでなく、敵であり、外国人であるサマリア人を含むすべての人々、つまり人種や宗教を超えたすべての人々が隣人であるとしている。イエスの教えが後に全世界に広がるのは、ユダヤ人だけが救われるというユダヤの常識と訣別していた点にある。頑迷に隣人を限定するものではないとイエスは指摘しているのだ。
イエスが息をした時代にはユダヤ教が蔓延していて、物心がついたときにはイエスもユダヤ人だった。だが、ユダヤ人のこの『律法さえ守っていれば後は何をしてもいい』という考え方や、『ユダヤ人だけが救われる』という考え方に疑問を覚え、この教えを『更新』しようとした。そして、
などを織り交ぜながら、人々が理解しやすいように、カスタマイズして説いた。
[『山上の垂訓』カール・ハインリッヒ・ブロッホ画]
法然がやったことは、まさにイエスと同じことだったのだ。彼らにあったのは『優しさ』。つまり優れていなければできない。何しろ、そうした改革を行えば、出る杭として打たれることはやむを得ない。彼らはその後ユダヤ人、旧仏教から反発され、弾圧されるが、それらの人々が『易しさ』に甘んじたというのはつまり、
ということだったのである。
また親鸞はどうだ。彼が考えた、『悪人こそが往生にふさわしい資格を持つ』という考え方は、悪人を切り捨てず、すべての人が罪を認め、悔い改めれば許されると考えたキリストと同じだ。彼らは決して『宗教の元祖』となるような人物と比べても、引けを取らない高潔な心構えを持った人物だったのである。
彼ら、特に法華経中心の国づくりを説いた日蓮は幕府からも迫害され、何度も流罪となるが、そういった新仏教の流れを受け、旧仏教の中からも変革者が現れる。
宗派 | 開祖 | 変革 |
法相宗 | 貞慶(じょうけい) | 戒律を重んじ、教養を刷新 |
華厳宗 | 明恵(みょうえ) | 戒律を重んじ、教養を刷新 |
律宗 | 叡尊(えいぞん)、忍性(にんしょう) | 貧民救済、架橋工事に取り組む |
新仏教が巻き起こした風は、間違いなく『腐敗と混沌』に傾きつつあった日本の風向きを変えたのである。
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