『鎌倉時代のルネサンス』
上記の記事の続きだ。源頼朝が源氏由来の地、鎌倉に『鎌倉幕府』を作り、武家政権が始まった。かつて、武士上がりの平氏の時代が長く続かなかったのは、地方武士の支持を得られなかったからだという。色々な面から考えても、900年頃からこの世に誕生した武士の存在は、確実にこの国の軸になりつつあった。
622年に49歳で生涯を閉じた聖徳太子は、初めて『忍者』を使って情報を集め、政治を行った人物として知られているが、あれから600年。忍者と武士(侍)はもはや日本がガラパゴス(陸の孤島)だからこそ生まれた、オリジナルの文化。そこに、道元や栄西といった禅を組み、己の心と向きあう精神修行と宗教も相まって、日本人独特の命を大切にする厳かさが養われていった。
忍者 | 600年頃 |
武士、侍 | 900年頃 |
いつでも人を斬り殺せる道具を持ち歩き、自分がいつ死ぬか分からない。明日の命も知れぬ厳しい日々を送る武士たちは、感情を抑えるようしつけられた。
様々な考え方が入り混じり、彼らの心を作り上げた。いつ自分が死ぬか分からず、いつでも誰かを殺すかもしれないこの時代は、むしろ命を大切にしようとする。簡単に人が殺せるから、簡単には人を殺したくないと願う。人を殺すと自分の心は平常ではいられなくなるため、より命を粗末にしてはならないと考えるし、禅のような自分の心を整える考え方は、彼らの性分に合った。
さて、1180年、平氏がまだこの国で圧倒的な力を持っていたとき、それを良く思わなかった者は大勢いた。それは前述したように彼らが越権的であり、自分たちの利益だけを優先し、平氏以外の存在を軽く扱ったことも大きな理由の一つだった。『平氏追討』を命じる以仁王(もちひとおう)の意志は各地の武将に伝わった。この指令である『以仁王の令旨(りょうじ)』を読んで彼らは奮起する。
そして『打倒平氏』という目的を持って全国の武士や源氏たちはまとまった。この『源平合戦』は、源氏と平氏が戦ったわけではなく、各地で反乱を起こした武士たちが、リーダー格であった源氏とともに戦ったということでそう言われるが、現在は当時の元号から『治承・寿永の内乱(じしょう・じゅえいのないらん)』と呼ぶことが多い。
この戦によって平氏の時代は終わり、代わりに源氏が力を得るようになり、『鎌倉幕府』が作られるわけだ。しかし、平氏も平氏で黙ってはいなかった。治承4年、つまり1180年。『以仁王の令旨』が出されたその年の12月には、奈良が炎に包まれた。源氏と奈良寺社勢の結びつきを懸念した平清盛が、この重衡(しげひら)に焼き討ちを命じたのである。
そう。あの東大寺は、この時に一度燃やされてしまったのである。平重衡の兵火で大仏殿は焼失、大仏も台座や下半身の一部を残して焼け落ちた。世界遺産、『バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群』にある『バーミヤン渓谷の石仏と石窟』は、2001年、タリバンによって破壊されてしまったが、800年前の日本でも、世界遺産レベルの重要な美術品が、人災によって失われてしまったのだ
[バーミヤン渓谷の石仏と石窟(1976年)]
参考
バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群Wikipedia
[破壊後の石仏]
その後、大仏と大仏殿はその以仁王の父、後白河法皇の命を受けた重源(ちょうげん)の尽力により再興され、中国の『宋』から移入した『大仏様(だいぶつよう)』と呼ばれる技術を使い、素朴で豪壮な美しさを表現するようになった。
重源の工夫と対策
東大寺が燃える時、それを呆然と立ち尽くして見上げる仏師の中には、『運慶(うんけい)と快慶(かいけい)』がいた。彼らはまだ若く、ライバルに京の『円派、院派』がいて、うだつが上がらない日々を過ごしていた。彼ら慶派にはまだスポットライトが当たらない。そんな最中に東大寺が炎上したのである。
[運慶]
1185年、壇の浦の戦いで平氏は滅亡。そして、1193年には奈良の諸寺の復興を本格的に行うことになった。平氏を倒し、武士としてこの国の頂点に立った鎌倉幕府初代征夷大将軍、源頼朝は、東大寺の再建を計画し、1197年に慶派の仏師に東大寺の仏像製作を依頼する。ライバルだった円派、院派は、貴族や宮廷に所属していたため、勢いがなかった。時代の流れという『透明のドラゴン』を味方につけた慶派は、千載一遇のチャンスを得たのだ。
そして、1198年、運慶と快慶は、大仏殿を飾る仏像6体を完成させる。そして1203年には南大門の金剛力士像2体の政策に取り掛かり、わずか69日で『阿形・吽形(あぎょう・うんぎょう)』を完成させたのだ。
[阿形 著者撮影]
[吽形 著者撮影]
その年には運慶の長男である湛慶(たんけい)も東大寺や興福寺の復興造仏に携わり、運慶快慶が亡くなった後の慶派の棟梁として活躍した。こうして慶派は奈良・鎌倉を中心に活躍し、仏教美術史上で圧倒的な存在感を示し続けている。
記の記事に書いたが、
アッバース朝は、766年も新都バグダッドで繁栄を誇った。『タラス河畔の戦い』の後、ここを中継地に東西の交易や文化の交流が盛んになる。その交易路として活路を呈したのが『シルクロード』である。このシルクロードを使って、商品は『唐』から生糸や陶器、茶などを西方に運び、西からは金銀などの貴金属や毛織物を運び、利益を上げた。
東の唐王朝、西のアッバース朝を結んだ東西交易路
これによって唐とアッバース朝だけではなく、世界中の国々の貿易が盛んになった。
かつて、このシルクロードを通して東大寺正倉院には、様々な宝物が揃った。これを『天平文化』という。750年頃、つまりここから450年ほど前のこの時代、聖武天皇は、遣唐使船が持ち帰った、
唐のシルクロード周辺各地の文物を愛用した。彼の死後、皇后がこれを東大寺に寄進。そして、650に及ぶ世界の貴重な品々が東大寺の正倉院に収蔵された。また、奈良時代は飛鳥時代の主流だった金属製の金銅仏に代わり、加工しやすい粘土製の仏像製作が盛んになった。なかでも、
などが代表的となった。その後、奈良時代後期には鑑真によって木彫りの仏像が伝わり、日本の彫刻作品は木像が主流となる。平城京がシルクロードの東の終着地だったと言われている。
[興福寺阿修羅像(奈良時代)。国宝]
そしてそれから450年、東大寺は平氏によって焼かれ、重源や慶派一門たちによって再建された。この『復興』は、ヨーロッパでいうところの『ルネサンス』である。『ルネサンス』とは、フランス語で『再生』を意味する言葉で、ギリシャやローマといった古典時代の文化の復興を現している。
ルネサンスの3巨匠
ルネサンスの3巨匠をはじめとして、彼らは14~16世紀のヨーロッパで『ルネサンス(再生・復興)』させた。では、何をルネサンスしたのか。それは、キリスト教会の権力によって抑えられていたものだった。
中世ヨーロッパの1000年間の暗黒時代というのは、哲学というものは大した発展がなく、すべては神の為にあった1000年間で、その時代が『暗黒時代』と呼ばれるようになった。それは哲学というような思想面だけではなく、全体的に見てもそうだった。キリスト教が腐敗し、権力が低下し始めた14世紀頃、ヨーロッパはその時代の殻を破ろうと『ルネサンス時代』に突入したのだ。
[ヴィーナスの誕生(1485年頃、ウフィツィ美術館)]
つまり、彼らの場合は『芸術品が炎上した』わけではなく、『盲目的になり、見失っていた人間本来の着眼点を取り戻そう』という意味で『ルネサンス(再生・復興)』を掲げた。だから少しだけ様相が違うが、面白いのはイタリア=ルネサンスの扉を最初に開けたのは、詩人ダンテ(1265年 – 1321年9月14日)だということだ。
つまり、1200年と1300年。交流もない日本とヨーロッパで、ほぼ同時期に芸術方面で『ルネサンス(再生・復興)』の動きが存在していたのである。そして日本はもちろん『燃えた物を戻す』という意味でのそれだった。しかし、実はもう一つ意味があった。それは先ほどのヨーロッパにおける『盲目的になり、見失っていた人間本来の着眼点を取り戻す』ということだが、その言い方を変えると『まだ見ぬ世界へ行こう』、あるいは『新境地に達しよう』ということにもなる。
この時、重源が宗から持ってきた大仏様という技術は、まさに仏教美術におけるルネサンスであり、運慶や快慶が取り入れたリアリズム重視の文化は、まさに新しい風だったのだ。彼らがこの金剛力士像のような写実的で力強い作品を生み出したのは、
が関係しているという。つまり、この日本という国で『武家政権』という新しい時代が幕開けし、その余波を受けて慶派が龍の背に乗って活躍できたように、1200年のこの時代の日本では、そこかしこで『新しい風』が巻き起こったのだ。『平家物語』などの軍記物語が編まれ、絵巻物制作は最盛期を迎えた。
[『平治物語絵巻』三条殿焼討(ボストン美術館所蔵)]
ヨーロッパより少しだけ早めにこの国に登場したルネサンスの背景には『武士』がいて、彼らが多方面でこの国に新しい風を巻き起こした。そういう側面を知っておきたいのである。
アメリカの文化人類学者ルーズ・ベネディクトは、『菊と刀』という著書の中で、『欧米の文化=罪の文化。日本の文化=恥の文化』という表現をしている。日本人が失敗し、恥をかき、誇りを失う結果になるぐらいなら、切腹によって自ら自決する。そういう思想と行動は、欧米人から見て不気味の一言だったわけだ。
しかし、『日本=武士の国』、『日本=恥の文化』として外国人が我々を一辺倒に見てしまうのもうなづけるほど、かつてこの国の確固たる根幹に、武士の存在と、それを支える様々な精神体系があったのだ。
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