『元寇(蒙古襲来)』
上記の記事の続きだ。下の方の記事で、五代執権の時頼は、歴代執権最高と言われるほどの人物で、23歳の若さで亡くなった四代執権であった兄、経時ができなかったことを成し遂げ、兄の命と北条氏得宗家一門の基盤を守ったと書いた。そしてこの後、
が、六代、七代執権を執り、八代執権の『北条時宗』の時代になる時、鎌倉幕府は最盛期を迎えると。今回がその北条時宗の話だ。長時たちは、この時宗が成長するまでの『中継ぎ』だった。1264年、長時が死去したことにより後任となった政村は、すでに60歳。そして五代執権の時頼が三浦氏を滅ぼし、北条氏得宗家の基盤を盤石にしてから20年。1268年にようやく時宗は18歳になり、満を持して執権の座に就いたのである。
[北条時宗 江戸時代『前賢故実』より。画:菊池容斎]
だが、それでもまだまだ18歳だ。普通ならこんな青二才、どこの世界でもそうは通用しない。ここから多くの失敗を経て強くなり、一人前、そして一流になっていくわけだ。だが、この時宗という男、幸か不幸か、『蒙古襲来』という国家の危機を体験した男だ。それがその国の正月、そして執権になったのが3月と言われている。
蒙古襲来。つまり、フビライ・ハンがこの国を襲撃し、世界を統一しようとしていたのだ。
モンゴル帝国の重要人物
初代モンゴル帝国のハン | チンギス=ハン |
2代目 | オゴタイ=ハン |
4代目 | モンケ=ハン |
モンケ=ハンの弟 | フラグ |
5代目 | フビライ=ハン |
初代モンゴル帝国のハン、チンギス=ハンが死んだ後も、彼の子孫たちは活躍し続けた。
そして、5代皇帝のフビライ=ハンの時代へと続いていく。
まさにフビライ=ハン、国号を『大元(元朝)』と改称する手前の1268年に、中国全土を統一する直前に、彼らはこの国に来ていたのだ。だが、時宗が執権に就いた後に来たならわかるが、順番が逆だった。『蒙古襲来があってから執権に就いた』のだ。これは一体何を意味するのか。北条時宗というたった18歳の青年に、この国家の危機を乗り越えるだけのリーダーとしての器があると判断したのか。
では、この時代までのヨーロッパの覇権の推移を見てみよう。
ヨーロッパの覇権の推移
モンゴル帝国というのは、ローマ帝国よりも勢いがあり、史上最も『世界統一』に近づいた帝国だと言われている。そんな帝国をたった18歳の、しかも執権としての経験がゼロに等しい時宗に任せるのは何事なのか。きっと多くの人がそう考えることだろう。
しかし、これにはやはり戦略があったようだ。六代、七代が『中継ぎ』だったのは、彼らが『北条氏得宗家』ではなかったからだ。長時の家系、赤橋流は義宗、久時、守時といずれも昇進が早く、引付を経由することなく評定衆に選出されており、家格の高さは北条氏の中でも得宗に次ぐものであった。しかし、長時も政村も、北条氏の嫡流ではなかった。つまり、『純血の北条氏』ではなかったのだ。
蒙古襲来があったとき、国書にあった『兵をもちふる』という言葉を威嚇と受け取った朝廷は、臨戦態勢に入り、九州方面の兵日を整えた。そして、このタイミングで北条氏嫡流である『純血の北条氏』、北条時宗(18歳)を執権に据え、御家人の統制を強化しようと考えたのだ。
[東大寺宗性筆『蒙古國牒状』『調伏異朝怨敵抄』所収 東大寺尊勝院所蔵]
こうして人々を精神的に鼓舞し、支えるための戦略だったのである。かつて弥生時代、この国がまだ『倭(わ)』と呼ばれていた時、『巫女(シャーマン)』の地位が高まり、豊作を祈る祭礼が重要視され、卑弥呼が30ほどの諸国の連合体の長にたてられ、当時倭で起こっていた騒乱を、呪術を用いておさめたと記述されている。
卑弥呼は240~249年頃に死んだとされていて、その後『男子の王』が立てられたが、国内がそれでは納得しなかった。そこで卑弥呼の親族だった13歳の『壱与(いよ)』を女王にすると、国が治まったという。これが群集心理だ。つまりその時の人々も、
と考えた。彼らは心底で信仰、尊敬、恐怖している存在を神輿にかつぐと、潜在能力が引きあがるか、得体の知れない安心感を得られ、とにかく精神面が強化されるのである。
マキャベリ、韓非子、ナポレオンといった人物は似た発想をしている。
群集心理をいかに理解しているかどうかが、国家の舵取りをする立場にいる人間に求められるのだ。また、時宗は決して一人でその座に立つわけではなかった。それまで築いてきた、確固たる土台と基礎があるのだ。例えば先代である政村も、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処にあたり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。
執権政治
将軍 |
執権 | 連署 | 評定衆 |
政所 | 一般政務と財務 |
侍所 | 御家人の統率や軍事、警察 |
寒中所 | 訴訟・裁判を処理 |
この時の将軍は天皇家の『宗孝新皇』だが、この時はすでに、『天皇の権力、幕府の支配』という大きな力が出来上がっていて、執権の座に就くということは、ほぼこの国のトップに等しかった。
そして、連署である政村は、その豊富な経験を生かし、執権の時宗をバックアップしたのだ。
更にそのあと、国内の危険因子、不穏分子を一掃するべく、『反鎌倉派』の名越時章(ときあき)とその弟を誅殺し、時宗の執権に文句があった北条時輔も殺し、余計な内乱が起きないように前始末をした。
フビライ・ハンは初代皇帝のチンギス・ハン同様、味方には優しく、敵になったものには容赦ない対応で臨む人間だった。この時、彼らは使者を送って貢物を要求し、外交関係を結ぶことを求めた。しかし、『兵をもちふる』という字に敵対心を持ち、この国書を退け、使者を斬ってしまう。すると彼らはこの国を敵国と定め、日本とモンゴル帝国は戦争状態に突入するのである。
[クビライ・カアンの狩猟図]
このように、元寇(蒙古襲来)は二度あった。
日本の鎌倉時代中期に、当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称。1度目を文永の役、2度目を弘安の役という。蒙古襲来とも。
一度目の『文永の役』では、3万を超える蒙古軍が対馬を襲い博多に上陸。彼らの集団戦法は、日本人がやってきた一騎打ちの戦い方とは違うし、新兵器に苦戦を強いられるが、日本軍はしぶとかった。そこに暴風雨などの天災が重なり、敵が撤退して危機を脱する。
[騎兵を密集させて集団で突撃する日本軍。クビライに仕えた王惲も武士の様子を「騎兵は結束す」と記している。
『蒙古襲来絵詞』前巻・絵5・第17紙]
[蒙古襲来絵詞前巻、絵七。【文永の役】矢・槍・てつはうの飛び交う中、馬を射られながら蒙古軍に突撃する竹崎季長と、応戦・逃亡する蒙古兵。]
だが、1274年に中国の南宋を滅ぼし、中国全土の統一を成し遂げたモンゴルは、国号を『元』と改め、もう一度日本へ襲来したのだ。この『弘安の役』では、なんと10万を超える兵士(14万人とも)が、3500艘を超える大船団とともにやってきて、あわや日本と元は、全面戦争に突入しかけていた。
だが、なんとこの時も『風が舟を破る』ほどの暴風雨が来て、蒙古軍は逃げ帰ったという。以来、この『元寇』の話は、
この時、日本に『神風』が吹き、元軍は日本を侵略することができなかった。
と語り継がれるが、実際には大風が戦局に影響を与えたわけではなく、これは国民の国防意識を高めるために創作されたものだったという。しかし、
ということは確かで、これによって北条家は最盛期を迎え、外圧という国難を乗り切ったことでこの国は一つにまとまり、北条氏得宗家は圧倒的な力を得た。
日本と宋は長い間有効な関係があったため、蒙古壊滅後に捕らえられた蒙古軍で、蒙古兵と高麗兵は首を斬られたが、唐人(元南宋の兵)だけは許されたという。
ただ、この暴風雨、二度目は可能性があるが、一度目の襲来の時には台風があった可能性は時期的に低いと言われている。最初は威嚇だったが、『二度の神風』という印象を使った方が国民の民族意識も士気も高まる。このような事情が少なからずあったことは考慮すべきである。
[『蒙古襲来絵詞』後巻、絵十六【弘安の役】敵船に乗り込む竹崎季長と大矢野三兄弟、応戦する敵船。]
また、実は元軍は同じころ、北海道の樺太(からふと、サハリン)に押し寄せ、アイヌ人と交戦している。更に、琉球にも来て多数の島民をさらったという。つまり、
の3地点に元軍は攻めてきていたのだ。しかし、チンギス・ハンの記事に書いたように、大きくなりすぎて反乱もあり、国力が衰退していた。そういう事情も手伝って、彼らはフビライ・ハンの時代以上にその領土を拡大することはできなかった。
とにかくこうして日本はその領土を守った。後で分かることだが、
この二つの脅威から身を守れた理由には、『敵国内で反乱・内乱があった』という、内部からの切り崩し、弱体化による『ラッキー』があった。また、日本が第二次世界大戦後に敗戦国なのにかつてのヴァイマル共和国(ドイツ)のような目に遭わなかったのは、
という2つの大きな条件があったからであり、これもかなり第三者的に、語弊を恐れず言えば『ラッキー』だった。基地があるとか、そういうことがあるからこれ以上は言えないが、しかし、戦後の復興も『東洋の奇跡』と言われたように、確かにこの国には『神風』という『神がかり的な奇跡』が起こってもおかしくはないという気運が漂っている国である。
だが、問題はあった。この元寇はあくまでも『防衛戦』、つまりただ領土を守るだけであり、彼らを追い払ったところで彼らの領地や財源を得られるわけではなく、ただただ命をすり減らしながらこの国を死守しただけ。つまり、戦った御家人たちには十分な恩賞も与えられないし、むしろこの時代の相続方法が親の所領(持っていた領土)を子が分割する『分割相続』だったため、所領は徐々に小さくなり、御家人たちは窮屈な思いをするようになった。
例えば、フランク国に多大なる貢献をし、800年のクリスマス、カール大帝はローマ教皇レオ3世より、継承者不在だった西ローマ帝国の帝冠を授与された(カールの戴冠)。これによってカール大帝率いるフランク王国は、新しい西ローマ帝国として公認された。彼の時代に、キリスト教の価値観とゲルマンの文化が融合し、西ヨーロッパ世界の原型が完成した。
[ジャン・フーケ「カールの戴冠」 (1455年-1460年)]
だが、そのカール大帝が死ぬと、フランク王国での相続争いによって、
の3つに領土が分けられた。それがその後の、『フランス、イタリア、ドイツ』の原型となる。そして西フランク王国は、987年カペー朝が成立し、『フランス王国』となった。イタリアでは小王国や都市の分裂状態が続き、東フランクでは、国王のオットー1世が戦功を挙げ、962年にローマ教皇よりローマ帝国の帝冠を授けられた。一つの解釈では、これが1806年まで続く『神聖ローマ帝国』の始まりである。
強大な力や大きな力が、その『力の分割・分散』によって徐々に力を失い、新たな時代が始まる。こういうことは世界の例にもあったことだった。蒙古襲来がまた来ないとも限らない中、彼ら御家人たちの不満は高まり、そこに荘園を侵略する悪党が横行するトラブルが重なる。九死に一生を得た日本は、一難去ってまた一難。時宗が作った北条氏得宗家の勢いは、一時的なものになる不穏な空気がはびこっていた。
オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこの時代までの日本史をまとめた人気動画があります。
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