『鎌倉幕府の滅亡』
結局、北条時宗の時代が北条氏得宗家のピークだったことは確かだ。彼は兼ねてからの積み上げた得宗家の基礎・土台の中で、モンゴル帝国という世界帝国を追い払うことに成功し、圧倒的な力を得ていた。だが、彼が元寇の件で御家人たちに報酬を渡せなかったことは大きな問題で、そのシーンの絵巻物まで存在するくらいである。
[『蒙古襲来絵詞』より鎌倉の安達泰盛邸で先駆けの功を訴える季長(右)]
これは、恩賞支給の是非を判断する御恩奉行、安達泰盛に訴える鎌倉幕府の御家人、竹崎季長(すえなが)である。確かに時宗は日本最大の危機を救った。だが、救ったのは彼だけじゃなく、現場で働いた御家人たちだったのである。
元寇で活躍した武士
竹崎季長 | 先駆けの功を挙げた九州武士 |
宗 助国(そうすけくに) | 死して軍神となった対馬の名族 |
少弐経資(しょうにつねすけ) | 蒙古襲来を阻止した合戦の名手 |
[「元寇防塁」と思しき石築地とその上に陣取る御家人たち 中央の赤い扇を仰ぐ人物は肥後の御家人・菊池武房。石築地の前を肥後の御家人・竹崎季長一行が移動する。『蒙古襲来絵詞』後巻・絵12・第7紙]
もちろん彼らだけじゃなく、戦いには大勢の人が巻き込まれた。かつて中国には『三国志』と言われる日本でも大変人気のある時代の戦士たちが活躍した時代があった。その中で、
そして、
といった様々なキーパーソンはとても有名である。だが実際、この『三国時代』というのは多くの兵士、農民といった『重要ではない人物』たちにとっては、辛い歴史となった。後漢末には5650万人以上いた中国の人口は、この三国時代で800万人にまで減ってしまったという。
魏:443万人、呉:230万人、蜀:95万人。合わせても768万人。
派手な戦と、無理な戦いに知恵で勝つ、下剋上的なシナリオにロマンを感じる人のおかげで、この『三国志』は歴史に名を刻み続ける。だが、戦争とは起こすべきものではない、という事実を、同時に理解する必要があるのだ。
周瑜は言った。
この時代に限らずいつの時代でも、どんな人であっても、そこに人がいるならそれは重要人物なのだ。
そうして『国の基礎』である人間をぞんざいに扱うなら、どうなるだろうか。組織も建造物も、基礎が壊れれば転落するのは相場だ。時宗は確かにピークだが、ピークというのは同時に斜陽を迎える時期でもあるのだ。
例えば、インドにできたイスラムの国『ムガル帝国』だ。ムガル帝国の初代皇帝はバーブル(在位:1526年 – 1530年)だ。彼が作ったこの帝国は、5代目皇帝のシャー・ジャハーンあたりから雲行きが怪しくなってくる。彼の時代は、ムガル帝国の最盛期でもあり、同時に斜陽の始まりでもあった。折れ線グラフで言えば『ピーク』だ。そこからは徐々に下り坂になるわけである。
[シャー・ジャハーン]
同じことだ。時宗が北条氏得宗家のピークであり、それは同時にそこから下降していくことを意味していた。しかし、彼らはまだまだこの英知が続いていくと考えた。次の九代執権:北条貞時(さだとき)は、この『得宗専制政治』ともいわれる圧倒的な権力を手にした。
鎌倉幕府において執権を務める平氏一門の北条氏の惣領である得宗に幕府権力が集中して専制政治が行われたこと、またその時期。
北条時政から続く一家。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。
『御内人(みうちびと)』と言われる『スネ夫』のような人間も多く現れた。
しかし、人はもちろん北条氏だけではない。むしろそれ以外の人が9.9割だ。その中には『反北条思想』を持った人間とて大勢いる。とりわけ、この御内人に関しては御家人たちが腹を立てた。
御家人 | 将軍の家臣 |
御内人 | 得宗家の家臣 |
この時の将軍は天皇家の『宗孝新皇』だが、この時はすでに、『天皇の権力、幕府の支配』という大きな力が出来上がっていて、執権の座に就くということは、ほぼこの国のトップに等しかった。
執権政治
将軍 |
執権 | 連署 | 評定衆 |
政所 | 一般政務と財務 |
侍所 | 御家人の統率や軍事、警察 |
寒中所 | 訴訟・裁判を処理 |
だがこのようにしてとにかく『執権の上には将軍がいる』という事実があった。鎌倉幕府を作った源頼朝は初代征夷大将軍だが、源氏がいなくなった後、北条氏が将軍の代わりに『執権』という立場で権力を握り、この国を操ってきた。しかし、やはり将軍側にも一定の権力と勢力があり、ここが衝突する危険性は常に存在していたのである。
だが、九代執権の貞時は、まだ北条氏得宗家のピークから考えても上の方だったわけだ。折れ線グラフで急にストンと彼らの権力が転落するわけじゃなかったわけで、貞時あたりまではまだ根幹を揺るがすほどの問題には発展しなかった。
だが、この御内人と御家人はやはり揉めてしまった。御内人の平頼綱(よりつな)が有力御家人の安達泰盛を滅ぼしてしまったのだ。先ほど絵巻物にあったあの人物である。これに関しては貞時が、
として滅ぼして収めたが、この『霜月騒動(しもつきそうどう)(1285年12月14日)』は北条氏得宗家以外の人間の不満が表面化した一つの事件であり、これを端緒としてここから北条氏に亀裂が入るようになるのだ。
安達泰盛も、北条貞時も、御家人の保護策を求めていた人物だとされていた。蒙古襲来による御家人の困窮を救おうとして奮闘していたというわけだ。事実、貞時は1293年になって頼綱を誅殺し、実権を握った後、1297年には御家人の救済策として『永仁の徳政令』を出し、御家人が質入れした土地を無償で返させるシステムを導入した。
例えば現在の質入れのシーンを考えてみよう。
お金を借りる代わりに、時計を質入れする。そしてもしお金が用意できなくなれば時計を持っていかれるわけだ。質屋は客が帰ってこないことを前提として貸せる額を算出し、客に提供するが、『利息』がある。
などということになるわけだ。このやり取りの『土地』版。そして『利息なし』の返却だったということだ。お金さえ用意できれば、預かった土地は無償で返却できるから、確かにありがたいシステムである。だが、実はこれによって逆に借金がしづらくなる結果となり、逆に御家人が苦しんでしまったのである。
だが、これは実は参考書の理解で、Wikipediaには『それは古い解釈』としてこうある。
永仁の徳政令
元寇での戦役や異国警護の負担から没落した無足御家人の借入地や沽却地を無償で取り戻すことが目的と理解されてきたが、現在ではむしろ御家人所領の質入れ、売買の禁止、つまり3ヶ条の(2-a)所領処分権の抑圧が主であり、(2-b)はその前提として失った所領を回復させておくといった二次的な措置であり、それによる幕府の基盤御家人体制の維持に力点があったと理解されている。
つまり、貞時らは『御家人を守る』といよりは『御家人を維持する』考え方があった可能性が高いとされている。
更にはこうある。
貞時の政策は幕府の基盤である御家人体制の崩壊を強制的に堰き止めようとするものであったが、御家人の凋落は、元寇時の負担だけではなく、惣領制=分割相続制による中小御家人の零細化、そして貨幣経済の進展に翻弄された結果であり、そうした大きな流れを止めることは出来なかった。
冒頭の記事に、
この時代の相続方法が親の所領(持っていた領土)を子が分割する『分割相続』だったため、所領は徐々に小さくなり、御家人たちは窮屈な思いをするようになった。
と書いたが、御家人たちが揺らいでいた理由は蒙古襲来の問題だけじゃなく、
といういくつもの問題が積み重なっていたからだ。つまり、この『永仁の徳政令(1297年)』はそのうちの『所領の分割相続制』に対する対策であり、その他の対策に関しては特にして返すことができず、こうした対策はあまり決定的な打開策とはならなかった。
[北条高時像/宝戒寺所蔵]
そして14代執権となる北条高時(たかとき)(在職:1316年 – 1326年)の時代になる。永仁の徳政令から20年ほど経ったわけだ。そうした『北条氏得宗家以外の人々』の扱いが満足にできていない状態の中、天皇家が2つに分かれて対立するという問題が発生する。
という2つの家系に分かれて対立し、幕府にこれが持ち込まれて『両統迭立(りょうとうてつりつ)』という和解のルールができるほどだった。
その後、1318年から、後醍醐天皇(大覚寺統)の時代になった。実はこの頃、北条高時の下で御内人の長崎高資(たかすけ)が権力をふるっていて、更には北条高時も遊興にふけって政治を放棄していた。まさに斜陽だ。これは世界的に見ても、転落の兆しである。
中国の『宗』は、『西夏(さいか)』や契丹族の『遼(りょう)』相手に、防衛費たる『荒い金遣い』で、財政難を招くことになる。
そして、茶番のように権力に溺れては政治をおろそかにし、破綻していく皇帝たち。
女性に溺れて王朝を滅亡させた皇帝たち
殷(紂王) | 妲己に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 |
周(赧王) | 美女に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 |
晋(司馬炎) | 美女に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 |
唐(玄宗) | 楊貴妃に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 |
ムガル帝国の転落もそうだが、北条高時も同じような転落コースをひた走っていたのだ。そして下では『御内人VS御家人』というまたもや例の対立構造が作られていた。そこで後醍醐天皇は、
この両方を抑え、すべての面において権力を持つ野望(天皇親政)を抱く。1321年には院政も停止させ、
と奮起した。彼の息のかかった同志たちは、裸同然の姿で酒をくみかわし、女性をはべらせながら『うつけ』のふりをしたという。しかし実際にはそこで倒幕の密議が交わされていて、幕府方の目を欺きながらこうして彼らは結束を固めたという。
今考えれば興味深い『策』に見えるが、これは単なる時代だろう。現代人がやる策略を当時の人が見ても、驚くことはたくさんある。当時、電話もテレビもネットも車もない時代にあって、忍者や武士といった『アナログ人間』が活躍する時代、こうした方法『しかなかった』のだ。
もちろん、現代人とてこうした彼らの戦略すら思いつかない者もいるので、彼らが賢い人間だったことは確か。何しろ、『国のトップ』である幕府を倒すということは、現在で言う『政治家本部』、あるいは『皇居』を襲撃することに等しいのである。しかし国会議事堂は単なる会議場だし、一政党が襲撃されたところで他にも大勢政治家はいるから、どちらとも言えないが、『襲撃されるのは大ごとだ』というのはどちらかというと皇居の方である。
そんなことを本気でしようと思うならそれくらいの対策は練るだろうし、そして、本気でそれをやるような人々はもちろん、死を覚悟してのことだっただろう。
だが、二度の幕府打倒計画も虚しく、それは失敗。天皇は隠岐に流された。そして反対勢力の持明院統、光厳天皇(こうごんてんのう)が新たな天皇となった。しかし、後醍醐天皇の燃やした火種は完全には消えていなかった。彼の子である護良親王(もりよししんのう)、河内国の楠木正成(くすのきまさしげ)などが鎌倉幕府に対抗。
[楠木正成]
1331年9月、数万にも及ぶ幕府軍は後醍醐天皇を落とした後、楠木正成の守る下赤坂の砦に攻めかかる。わずか数百人しかいない楠木は、
を城内から投げつけ、城の外では野山に潜伏した兵が幕府軍を襲撃した。楠木側は結果的には負けるが、彼のこの気概が伝わったのか、討幕の火種は一層強く燃え上がった。すると、『御内人VS御家人』の構図の中で、
と奮起し始めた。そこへ、隠岐から脱出した後醍醐天皇が加わり、その火を再度大きく燃え上がらせる。
しかしもちろん幕府も黙ってはいない。有力御家人の足利高氏(のちに尊氏。(あしかがたかうじ)を京都に派遣し、後醍醐天皇を倒そうとする。だが、なんとこの足利高氏が幕府を裏切り、後醍醐天皇サイドについて鎌倉幕府の西日本の本拠地、『六波羅探題』を攻撃してしまったのである。
[足利尊氏像( 浄土寺蔵)]
高氏は、腐敗する北条高時、北条氏、鎌倉幕府に嫌気がさしていた。京都に出向いたときにはすでに離反を考えていて、そこにちょうど後醍醐天皇の北条氏追討の話が舞い込んでくる。そして彼は倒幕を決意したのだ。彼は『躁うつ病』のような体質だったらしく、急に誰も予測できないことをしたらしく、今回の寝返りもその態度の一つでもあったが、次の記事で書くようにもちろん彼がこう行動したのは、それだけが理由じゃなかった。
その後、出家を宣言したり、自殺をほのめかしたりしたという。
更に同じ頃、関東では新田義貞(にったよしさだ)が関東の武士を率いて鎌倉を攻略していた。高氏が寝返ったとき、
として、足利氏に従った方が勝ち馬に乗れるという流れがあったが、新田は足利氏ばかりが重宝されることが気に食わず、楠木戦のときにも仮病を使って帰国し、幕府の怒りを買っていた。莫大な税金を強要された新田はついに堪忍袋の緒が切れて、使いの者を斬り、北条へ不満を持つ武者たちと一緒に、鎌倉幕府を襲撃したのだ。
1333年5月、鎌倉幕府はついに滅亡してしまった。1185年(1192年)から源頼朝が作り上げた東日本の一大勢力は、およそ150年の寿命となったのである。後醍醐天皇を中心としたこの鎌倉幕府倒幕運動は『元弘の乱(変)』と呼ばれた。
[新田義貞像(藤島神社蔵)]
ちなみにこの楠木だが、荘園へ侵略し、物資を奪うこともある『悪党』としての一面もあったという。それはその籠城戦のための食糧の確保が目的だったというが、謎が多い男だという。
オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこの時代までの日本史をまとめた人気動画があります。
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