Contents|目次

室町幕府に不穏な動きが!高師直『天皇なんて単なる飾りよ!俺は元々婆娑羅(ばさら)だからなぁ!』

『室町幕府創立兄弟の最期』

武士代表!足利尊氏が『建武の新政』をわずか3年で滅ぼし、日本の朝廷が2つに分裂した!(南北朝時代の到来)

 

上記の記事の続きだ。『建武の新政(けんむのしんせい)』時代はあっという間に終わった。1333年 – 1336年の3年間だった。それを終わらせたのは足利尊氏で、原因は後醍醐天皇が『天皇を中心にしすぎたから』だった。足利尊氏は、

 

  1. 北条高時(幕府の執権)
  2. 後醍醐天皇(天皇)

 

というあまりにも大きな二大巨頭に逆らい、裏切り、謀反を起こした人物だが、彼の信頼は厚かった内容的にも彼は『裏切り者』ではなく『革命家』という扱いを受けていたのだろう。

 

二大巨頭が敵視された理由

北条高時 遊興にふけって政治を怠った
後醍醐天皇 自分本位になり、武士たちを軽く扱った

 

そして時代は『室町時代』に突入する。足利尊氏が京の後醍醐天皇を奈良の吉野に追い出し、京の室町に幕府を開いたからだ。

 

建武の新政 1333年 – 1336年
室町時代 1336年 – 1573年
 南北朝時代 1336年 – 1392年
 戦国時代 1467年(1493年)– 1590年

 

かつて源頼朝が『1192作ろう鎌倉幕府』のとして1192年に鎌倉幕府を開いてから140年。この国に作られた『幕府』という軍事・警察的にこの国の治安を守る期間は、京都の室町に移されたのである。だが、この時はまだ大カテゴリーである室町時代の中の小カテゴリーである『南北朝時代』でもあった。

 

足利尊氏がやったこと

  1. 室町に北朝を開いた(光明天皇)
  2. 建武式目という政治方針を発表
  3. 征夷大将軍となる
  4. 幕府を開く

 

後醍醐天皇がやったこと

  1. 吉野に南朝を開いた(後醍醐天皇)

 

足利尊氏、醍醐天皇はそれぞれ関西の『北と南』に朝廷を作ったので、この朝廷が二つ存在する60年近い時期のことを『南北朝時代』という。『室町時代の南北朝時代』とか、『室町・南北朝時代』と覚えるのがいいだろう。彼らは常にいがみあい、抗争を繰り広げてしまった。

 

そして、南朝側の後醍醐天皇はその抗争の初期段階で死去。また北朝でも仲間割れが起き、事態はこじれていた。かつて、足利尊氏を支えた男たち、

 

  • 足利直義(ただよし、弟)
  • 高師直(こうのもろなお、腹心)

 

が問題を起こしたのだ。1歳違いの弟として常に兄、尊氏を支えて共にやってきたはずの直義が、なぜここで反乱を起こしてしまったのか。実際の原因は彼というより、高師直だった。彼も共にやってきた有能な人材だ。だが、彼は『婆娑羅(ばさら)』の武将だった。

 

[『絵本忠経』より]


参考
高師直Wikipedia

婆娑羅(ばさら)

伝統的権威を無視し、傍若無人なふるまいをする人。

 

山賊とか、海賊のような神経を持った人間というのか、例えば天皇や上皇について、

 

高師直

木か金で作って、生身の院や国王は流して捨ててしまえばいい。

 

と、『あんなもんお飾りだろ』と吐き捨てたこともあるという。こういう『下剋上』的で『成り上がり』的な考え方を持った荒くれ者の師直は、足利尊氏が『二度謀反を起こした』時には賛同して一緒に行動したわけだ。しかし彼は尊氏が前述したような『善意ある革命家』というよりは、『下剋上をしてみせる面白い野心家』とでも考えたのだろうか。それで馬が合い、共に行動したのかもしれない。

 

そもそも、冒頭の記事に書いたようにかつて後醍醐天皇側で活躍した武士、楠木正成も、『悪党』的な武士だった。この場合の悪党とは、『武力に訴えて荘園領主や幕府に対抗する武士』のことだ。奇抜な格好をしている者も多く、『悪人』とは紙一重の存在だったのである。

 

当時、衣服や髪形は身分や職業を表す標識であり、これを自在に変える行為は『権力への反抗』を意味した。しかし、よく考えればわかるが彼らがやっていることは『抗争』であり、それは『暴力団同士の抗争』とも紙一重のこと。そういう争いの中に、荒くれ者の一人や二人がいることは当然なのである。

 

[楠木正成]

 

しかし、そうした改革的な考え方を持つ師直と、直義の保守的な考え方は、馬が合わなかった。

 

足利尊氏 軍事面を掌握
足利直義 財務を担当
高師直 ばさらの武士としてリスキーな因子

 

そしてその2人の構図で言うと、

 

考え方 味方
足利直義 保守的 鎌倉以来の有力御家人、寺社勢力
高師直 革命的 新興武士

 

こういう図式が出来上がっていた。足利兄弟が上手に二頭政治をやっていたのだが、ばさらである高師直が邪魔をして、その状況をややこしくしたのだ。1349年、師直は直義を襲い、出家・引退させた。だが、そのまま黙っているほどおとなしくない直義は、京を脱出し、1350年に師直党と全面戦争を起こした。この『観応の擾乱(かんのんのじょうらん)』の結果は、直義側の勝利だった。

 

しかし、実は直義は負けそうになっていて、後醍醐天皇の南朝に助けを求めていたのだ。静観していた足利尊氏は、これでやむを得ず師直側につくしかなくなるが、なんとか師直を出家させ、命を守る約束をすることで和解の話でまとめた。

 

だが、あろうことか直義側の人間だった上杉能憲(よしのり)が、京に護送中であった師直を一族もろとも抹殺。これを許せなかった尊氏は、ついに弟、直義と兄弟の縁を切ったといえるほどの兄弟喧嘩をしてしまうのである。

 

 

直義は尊氏に追われ、鎌倉に入り、敗れて和解する。しかし直義は急死し、これが尊氏による『毒殺』ではないかといわれているという。これが『兄弟の縁を切ったといえるほどの兄弟喧嘩』だ。普通、数々の修羅場を共にくぐった弟を毒殺などしない。しかし、もし兄弟の縁を切るほどの確執があれば、それはあり得なくもないからだ。

 

その後、尊氏は京から追われたり、自殺を考えたり、仏事に心を傾けたりと色々あったが、1358年、病気によって死亡。結局彼ら『室町時代の3トップ』は、1350年代に全員亡くなってしまう事態になったのだ。

 

高師直 1351年 暗殺
足利直義 1352年 毒殺(諸説あり)
足利尊氏 1358年 病死

 

ちなみに室町幕府は、かつて警察権のみの権力だった『守護』に対し、

 

  1. 年貢の一部を徴収する権限
  2. 幕府の判決の執行権

 

といった地域の支配権を与え、『守護大名』という位に引き上げた。それは、まとまりのなかった彼らにモチベーションを与え、主体性を引き出すことが狙いだ。

 

例えば、傲岸不遜に成り下がり、大企業病に陥ったJAL(日本航空)は、2010年1月に破綻した。それを再建したのは、経営の神、松下幸之助からその肩書を受け継いだに等しい、稲盛和夫だ。稲盛が参加した最初の役員会議では、稲盛を歓迎しない不穏なムードが漂っていた。しかし、稲盛はそれを一喝したのだ。

 

あなたたちがそのような態度だから、破綻したのではないのか!?

 

 

その後、稲盛がやったのは、

 

  1. 『アメーバ経営』
  2. 『京セラフィロソフィ』

 

の導入だった。稲盛は、腐敗して、血の巡りが滞った会社の『細部』に、命を吹き込み、責任を持たせ、そして結果的に全体を躍動させることに成功したのだ。『人』だ。間違いなく彼がやったことは、『人間の重視』だった。

 

アメーバ経営

組織内で5人程度のグループを作り、そのグループ単位ですべてを評価する方法。アメーバのような小さいレベルに息を吹き込む経営手法。

京セラフィロソフィ

稲盛和夫が京セラで培ってきた経営哲学。

 

つまりこの2つの手法を取り入れることによって、それまではこう考えていたのが、

 

別に俺がさぼっても問題ないだろう。他に数万人もいるし、JALは大企業だからな。

 

こう考えるようになったのだ。

 

これからは自分たち一人一人が社長だ!主体性を持ってやればやるほど評価されるし、やらないと自分の首が飛ぶ!

 

だから国を一つの組織として考えたとき、部下にそうして主体性を求められる仕事を与えるのは正しい。ただ、彼らに与えられたのが『主体性』なのか『単なる権利』なのかは、この後の歴史を見れば分かることだ。もちろん後者なのであればそれは腐敗の原因となるだろう。

 

これを行ったのは室町幕府二代将軍、足利義詮(よしあきら)だ。1358~1367年まで将軍を務めた彼は、尊氏の長男で、地味ではあるが、確実に有能な仕事ぶりを発揮した。

 

[神護寺蔵。藤原光能像と伝わるが義詮像とする説が有力となっている]

 

  1. 近江、美濃、尾張を確保するため『半済令(はんぜいれい)』を企画
  2. 南朝勢力を弱体化させて幕府を安定化させる
  3. 大内弘世と山名時氏(ときうじ)を従わせ中国地方を統一

 

この義詮がやった『半済令』というのが、前述した『守護に与えた権利』のことである。

 

半済

室町幕府が荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めたこと。

 

足利将軍はここから1573年まで15代続くが、

 

  1. 足利尊氏
  2. 足利義詮
  3. 足利義満(よしみつ)

 

といった三代将軍が抜きんでて有能であり、特に、次の三代将軍、足利義満の時代は、室町時代の最盛期と言われた。

 

[天龍寺 筆者撮影]

[天龍寺 筆者撮影]

MEMO

1339年、後醍醐天皇を弔うために足利尊氏、直義が建立した京都の『天龍寺』。

 

 

次の記事

該当する年表

SNS

参考文献