『室町幕府の最盛期』
上記の記事の続きだ。足利義詮から将軍の座を受け継いだ、三代将軍、足利義満。彼がやったことを先にまとめると、
まず彼がやったのは、日本60余州のうち6分の1にあたる11か国を支配下としていた山名氏を衰退させたことだ。冒頭の記事に書いたように、先代の義詮が『半済令』を出し、守護大名に強い権限を与えた。しかし、それによって逆に彼らが強い力を持ちすぎるようになり、幕府にとっての危険因子となっていたのだ。
当時、山名氏清(うじきよ)は中国・畿内に一族合わせてそれだけの領土を得ていて、『六分の一殿』と言われるほど権力を持っていた。しかし、家中の内部分裂があり、これを義光が利用し、『明徳の乱』を引き起こす。この反乱によって山名氏は、山陰の3か国に封じ込められた。
そうして山名氏を弱体化させ、敵を潰したところで、南北朝問題にとりかかる。大内義弘(よしひろ)を刺客として送り込み、和解を画策。この大内も、中国地方6か国の守護大名だった人物だ。南朝には天皇が代々受け継ぐはずの『神器』があるし、いつまでも朝廷が二つあることはよくない。そう考えた義光は、当面の敵を片付け、南朝が有力武将を戦死させて失ったこのタイミングで、南北朝合一を試みた。
[足利義満像(鹿苑寺蔵)]
1392年、もはや南朝には北朝に逆らう体力もなく、後醍醐天皇の孫、後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に天皇の位を譲り、これが実現された。かつて争った『足利尊氏、後醍醐天皇』はもうこの世にはいないし、それぞれがすべてを捨ててまでしてこの南北朝時代を死守する理由はなかったのだ。この合一があり得たのも、元々の原因である大元がいなかったことが大きく影響しているだろう。
そして義光は京都の室町に『花の御所』といわれる屋敷を建て、ここを幕府運営の中心にした。庭内には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を配置していたので、そう呼ばれていたのだ。
[六曲一双 狩野永徳筆 国宝『洛中洛外図屏風』・左隻(米沢市上杉博物館所蔵)。花の御所は中央左下に描かれている。右が北]
鎌倉幕府の時代はこういうシステムがあった。
鎌倉幕府
将軍 |
執権 | 連署 | 評定衆 |
政所 | 一般政務と財務 |
侍所 | 御家人の統率や軍事、警察 |
寒中所 | 訴訟・裁判を処理 |
これが室町幕府になると、こうなる。
室町幕府
将軍 |
管領(かんれい) |
侍所 | 政所 | 評定衆 | 問注所 |
将軍の補佐には『管領』という立場があり、足利氏と血縁関係がある、
の3家が交代でそれを務めた。そして京都の警備や裁判をつかさどる侍所の長官『所司』は、
の有力な守護大名から任命され、彼ら有力7家を『三管領・四職』といった。地方には、
鎌倉府 | 関東地方 |
九州探題 | 九州地方 |
奥州探題 | 東北太平洋側 |
羽州探題 | 東北日本海側 |
守護・地頭 | 各地方 |
として全国地方の統治システムを完成させた。そして関西である京から離れた関東、鎌倉府には、『鎌倉公方(かまくらくぼう)』という立場を足利一族から任命し、その補佐役に『関東管領』を置いて、さしずめ『関東版幕府』を作った。
鎌倉府
鎌倉公方 |
関東管領 |
侍所 | 政所 | 評定衆 | 問注所 |
つまり大きく分けるとこうなる。
関西 | 室町幕府 |
関東 | 鎌倉府 |
この2つの二大拠点を軸に、全国各地に統治システムを用意し、国の支配を進めたわけである。
そして『日明貿易』だが、これは『倭寇(わこう)』という当時勢いがあった海賊対策としての一面もあった。下記の記事に書いたように、当時明は『北虜南倭(ほくりょなんわ)』に苦しんでいた。
北慮 | 北のモンゴル系の異民族 |
南倭 | 南方海岸を荒らした海賊『倭寇(わこう)』 |
モンゴル系民族『オイラート』が北方を脅かし、明は再び万里の長城の重要性に気付く。そして、現在我々が知る今の万里の長城の形が作られていくようになる。また、倭寇も中国東海岸や朝鮮半島沿岸部で海賊行為を行い、明の頭を悩ませていた。
1402年、明の皇帝が義光を『日本国王』にしたのは、倭寇の取り締まりをしてもらいたかったからでもあった。よって、本来この時代は、明に貢物をして国際秩序を保つ『朝貢貿易』という特徴があったが、
は明が負担し、貿易自体は輸出品に対して数倍の輸入品が得られるという日本に有利なものだった。この『倭寇』とは、『倭』というぐらいだから初期のグループは日本人だと思われていた。そして後半が中国人グループになったと考えれていたが、近年これは『朝鮮人グループ』だということがわかってきた。
[倭寇図巻 明軍と戦う後期倭寇を描いたもので、倭寇を描いた唯一の絵画資料]
当時、これらの国の境界領域に、民族的な出自と言語・服装が一致しない人々『マージナル・マン(境界人)』が存在していたという。彼らはどの国家にも属さず、彼らのような人物がこの倭寇として行動したと考えられている。
さて、実はこの日明貿易の前に、義光はちょっとした危機に直面していた。1399年にあった『応永の乱』である。先ほどからちょくちょく『守護大名』という地方で力を持った人物の名前が挙がっているが、そのうち、南朝に刺客として送られた大内義弘が、すでに始まっていた明との貿易で力をつけ、反乱を起こしたのだ。だが、これも結局義光が冷静に挑発し、鎮圧。大内はこの世を去った。
このようにして、国内、国外における問題を次々と解決していくクレバーな立ち回りが、足利義満が室町幕府の絶頂期を築けた理由だ。その意味で、彼は『足利家最高の名将軍』と言っていいだろう。更に彼には『太政大臣』という肩書も得ていて、朝廷から上皇に匹敵する礼遇を受け、一時は彼が『皇位簒奪』の意図もあった野心家と噂されたこともあった。
だが、それは現代人の噂話だ。最近になって彼にそこまでの意図はなく、彼が優遇されたのも、他の者の忖度だったとわかり、逆に彼が周囲の者から手厚く敬われる実力者だったことを裏付けた形になった。義満の死後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られるが、4代将軍となった子の義持(よしもち)は斯波義将らの反対もあり辞退している(その一方で相国寺は受け入れたらしく、過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記されている)。
[大日本名将鑑 足利義満公(月岡芳年画、ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵)]
1408年、室町幕府を飛躍させた名将軍、義光はこの世を去った。四代将軍は彼の子である義持だったが、9歳で将軍になった彼だが、裏で操っていたのが義光だった。異母弟の義嗣(よしつぐ)ばかり優遇されたこともあり、義持は父、義光と確執があった。その称号を断ったのも、そうした不和があったことも一因と考えられている。
実は、倭寇対策の件で明の皇帝、永楽帝からは労いの手紙を得ていた義満だったが、形式的には日本は明の『属国』となってしまっていた。それでも貿易、つまり利益を優先して日明貿易を続けていたわけだが、義光を嫌った四代将軍義持は、これを廃止することを決断。
義持がやったこと
しかしさすが義満の息子ということもあるのか、有能だった彼は守護大名たちとの関係も安定化させ、次の五代将軍義量(よしかず)へバトンタッチする。そして父同様、裏で彼を指示して政権を握ろうとしたのだ。しかし、義量はすぐに死去してしまい、義持も倒れた。予期せぬ要人の不幸に対応できず、次の将軍はなんと『くじ引き』で決めたという。
[紙本著色足利義教像]
そして六代将軍に選ばれたのが義教(よしのり)だ。しかし彼は『くじ引き将軍』と揶揄され、嘲笑されてしまった。だが、その流れが彼の心の形を歪めた。
そして彼は『万人恐怖』と史料に載せられるほどの恐怖政治を行ったのだ。
足利義教がやったこと
最後に『日明貿易の再開』とあるが、それ以外の項目が強烈すぎて、彼の印象は恐怖の独裁将軍となってしまった。しかし、そうした義教の行動に対し、東日本のトップ、鎌倉公方の足方持氏(もちうじ)はよく思わなかった。
元々鎌倉府と幕府はあまり仲が良くなく、鎌倉公方の補佐、関東管領との間でいざこざがあった。1438年、そうした状況の中この『永享の乱(えいきょうのらん)』は起こり、義教がこれを鎮圧し、持氏は自害して騒ぎは収まった。
だが、義教は依然『恐怖将軍』のままだ。多くの有力者が殺され、排除されていく中で、窮鼠が猫を噛む。つまり、あまりにも追い込みすぎたので鼠(ねずみ)たちは牙をむき始めた。立ち上がったのは播磨の守護大名、赤松満祐(あかまつみつすけ)だ。
1441年、こうして『嘉吉の変(かきつのへん)』は起きた。赤松が義教を自宅の宴会に招き、そこで殺害したのだ。急な展開で七代将軍になったのは、義教の息子の義勝。しかしかれは在任8か月で急死。10歳のことだった。
次の記事
該当する年表
SNS
参考文献