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『史上最低の将軍』八代将軍足利義政は、ある分野では足利一族で最も多大な貢献をした人物でもあった!

『北山文化』

日本史の表舞台に初めて『庶民』が登場!だが、高利貸しが幕府の保護を受けて成長するとどうなる?

 

上記の記事の続きだ。室町時代は歴史として初めて『庶民』にスポットライトが当たるほど、彼らや商業が活躍した時代だった。また、足利義満の時代は別宅『北山殿(きたやまどの)』にちなんで『北山文化』と言われ、公武統一政権にふさわしい特徴を持つ。公武とは、『公家、武家』のことだ。公家はもともと『天皇と朝廷』を意味する言葉だったが、朝廷に仕える身分の高い者のことだ。

 

公家 貴族
武家 武士

 

1397年(応永4年)には西園寺家から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(しゃりでん、金閣)を中心とする山荘(「北山第」(きたやまてい)または「北山殿」(きたやまどの)、後の鹿苑寺(ろくおんじ))を造営した。鹿苑寺(というのは、つまり『金閣寺』のことだ。言い方としては、『鹿苑寺の舎利殿=金閣寺』ということになる。

 

[金閣寺 筆者撮影]

 

金閣寺というのは足利義満の別荘(山荘)であり、文化の発信地でもあった北山弟の遺産だ。義光が亡くなった後は移築・破壊され、金閣のみが残った。1950年には火災で焼失したが再建し、現在では世界遺産として登録されている。

 

金閣の折衷様式
一層 公家風の寝殿造(しんでんづくり)
二層 和様(仏堂)
三層 唐様(からよう、禅宗様)

 

金閣はこのように、公武統一政権を象徴した建造物となった。様々な要素が取り入れらた『折衷』様式だったのである。

 

唐様(からよう)

)美術工芸用語としては中国的様式の美術工芸品。

折衷(せっちゅう)

)いくつかの異なった考え方のよいところをとり合わせて、一つにまとめ上げること。

 

足利義満

公家、武家、大陸(中国)には、それぞれに良いところがあるからのう!

 

そうして大陸文化の『水墨画』や『文学』も発達することになった。また北山文化の芸能である猿楽では、義満は観阿弥・世阿弥(かんあみ・ぜあみ)父子を庇護した。猿楽とは現在で言う『能、狂言』のことである。

 

[厳島神社の能舞台]

猿楽(さるがく)

)室町時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。

 

『能、狂言』といった猿楽は7世紀頃の奈良時代からあったが、しっかりと確立したのがこの室町時代だ。そしてその中心にいたのが観阿弥と世阿弥の親子だ。室町時代からの伝統を持つ狂言の世界を軸に、20世紀発の映像の世界をも行き来し活動してきた狂言師、野村萬斎は、2020年には東京五輪・パラリンピック開閉会式の演出を総合統括することが決まり、こう言った。

 

五輪・パラリンピックの開閉会式をやるなんて、昔でいうと『勧進能』をやるみたいなもんかなあ(笑)。だって政府から頼まれて何かするなんて、将軍・足利義満が世阿弥に何かしろっていうのと似た状況かな、って思ったりします。

野村萬斎

 

勧進能(かんじんのう)

)寺社の建立、改築などの際に寄付を募るために、入場料を取って行われた田楽や猿楽の公演。

 

彼らの一族はほとんどが『人間国宝』の扱いで、彼もいずれそうなるだろうが、そんな彼がその舞台の歴史を振り返ったとき、そこにいるのがこの観阿弥・世阿弥親子なのである。彼らは生涯を通じて足利義満にあつい庇護を受けた。そして、義満に取り入る諸大名にも受けいれられ、盛大な勧進能楽を開き、猿楽はこの頃、全盛を迎えるのである。

 

今は『守るべき伝統』であり『国宝』という位置づけだ。人々は今、あまりこういった伝統を見て大騒ぎすることはない。だが、知る人ぞ知るだ。歴史とその価値を知る識者からすればこうした文芸は国宝で、世界遺産そのもの。しかしこと『全盛期』というならば、この時期だったのである。

 

義満のあとの義持は、能楽より『田楽』を好み、六代義教(よしのり)の時代には礼遇される。そして世阿弥は結局最後に不遇の晩年を迎えた。そういった意味でも、ここが全盛期だったのである。

 

[東京・王子田楽(2014年)]

 

田楽(でんがく)

平安時代中期に成立した日本の伝統芸能。楽と躍りなどから成る。「田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達した」「渡来のものである」などの説があり、その由来には未解明の部分が多い。

 

また、先ほども『禅宗様』という形式が金閣寺に取り入れられたと書いたが、鎌倉時代から室町時代にかけて、『禅仏教』が武士に受け入れられ、仏教美術にも変化が訪れた。下記の記事に書いたように、『鎌倉仏教』としてこういうものが加わり、仏教世界にも様々な変化があったわけだ。

 

宗派 開祖 教義
浄土宗 法然 念仏を唱えれば極楽に行ける
浄土真宗 親鸞 仏を信じ、念仏を唱えれば悪人も往生できる
時宗 一遍 踊り念仏で救いを得る
臨済宗 栄西 座禅によって悟りを得る
曹洞宗 道元 ひたすら座禅を組み悟りを得る
日蓮宗 日蓮 法華経を重視する

 

貴族たちと違って武士は、『人を斬り殺す道具』を持ち歩き、自分もいつその刃を向けられるかわからない、そういう緊張感の中で生きることを強いられたわけだ。すると、そういう人たちに備わる精神というものは、自然と自分に厳しいものになる。これにこたえるように道元や栄西といった名僧が現れ、武士道精神を助けた。

 

 

道元や栄西の教えで共通するのは『座禅』である。武士が座禅を組み、精神統一をする印象がないだろうか。武士道精神を持った彼らには、己と向き合い、命の集中力を高めるこうした教えがひどく性にあったのである。

 

己に厳しい武士は道元や栄西と座禅を組み、『大勢』の者たちは親鸞や法然の『やさしい』教えに耳を傾けた

 

だから『禅仏教が武士に受け入れられた』のだ。そして仏教美術にも変化があった。その中で、吉山明兆(きちざんみんちょう、きつさんみんちょう)という偉人も誕生した。

 

[左:吉山明兆 右:渓陰小築図(部分)]

 

禅機図(ぜんきず) 禅における心の動きを主題にした絵画
道釈人物画(どうしゃくじんぶつが) 道教と仏教に関する人物画、肖像画

 

この後に起こる『応仁の乱』が11年も続いたのは、

 

  1. 単独相続の一般化
  2. 義政の政治放棄

 

といった事情が絡んでいた。鎌倉時代は、親の領地は子たちに分け与えられるが、室町時代以降は『後継ぎの長男がすべてを相続する』という話になったため、これだけ躍起になったのだ。義政はこうして『史上最低の将軍』と言われ、寺社詣や酒宴に明け暮れたのであった。

 

[伝足利義政像。(伝土佐光信画、東京国立博物館蔵)]

 

足利義政

勝手にしやがれ!俺ぁよぉ、じいちゃん(義満)の作った北山文化の方に興味があるのよ!

 

実は、彼は確かに将軍としては最低だが、唯一足利15代将軍の中で群を抜いて活躍した部隊がある。それが『文化・教養』面である。さしずめ、評価するとこうなる。

 

足利義政の貢献
政治・外交
(2.0)
文化・教養
(5.0)
政策・実績
(3.0)

 

ここまで文化・教養面が高い評価をつけられる人はいないのだ。室町幕府の最盛期を築いた、彼の祖父、足利義満の場合がこうなる。

 

足利義満の貢献
政治・外交
(5.0)
文化・教養
(4.0)
政策・実績
(5.0)

 

つまり、足利義満が作った北山文化は、義政の時代に『東山文化』として成熟した。義政が引退したあと、東山に山荘を建てたので、そう呼ばれるようになった。『銀閣寺』である。

 

[銀閣寺 筆者撮影]

 

1489年、義政は義満にならい、東山弟(とうざんてい)、つまり、、京都府京都市左京区銀閣寺町に慈照寺(じしょうじ)として、この銀閣寺を作ったのだ。また、彼は生涯を通して『築庭』に情熱を注いだ。それを担当したのが天才庭師、善阿弥(ぜんあみ)である。そのほかにも山荘には、茶道、華道ら当代一流の文化人が集まり、文化的にこの地を大いに盛り上げた。

 

[銀閣寺の庭園 筆者撮影]

 

この時は、すでに大陸(中国)の文化よりも『禅』の精神、つまり『わび、さび』といった簡潔さ、奥深さが好まれた。例えば、その30年以上前の1450年には、先ほどの大名、細川勝元が京都に『龍安寺(りょうあんじ)』を創建。ここは石庭で有名で、外国人が『鳥居』と聞くと厳島神社を連想するが、

 

[厳島神社 筆者撮影]

 

日本の庭園をイメージするとき、真っ先にここが思い出されるくらいである。

 

[龍安寺 筆者撮影]

 

ちなみに、その細川のライバルの山名宗全は、兵庫県に『竹田城』を作った。現在この城跡は『天空の城』、『日本のマチュピチュ』と噂され、名所となっている。

 



参考
竹田城Wikipedia

 

中心人物 庇護した人物
北山文化 足利義満(在職:1368年 – 1394年) 観阿弥・世阿弥(猿楽)
東山文化 足利義政(在職:1449年 – 1473年) 善阿弥(庭師)

 

  • 狩野流の始祖、狩野正信(かのうまさのぶ)
  • 雪舟(せっしゅう)

 

という文化人も、この東山文化にいた。狩野派は、日本の美術史上長く命脈を保ち、華々しい活躍をした画派であり、正信はその開祖で、義政の御用絵師だった。

 

[周茂叔愛蓮図 九州国立博物館蔵 国宝]

 

雪舟も、将軍家御用絵師だった周文(しゅうぶん)に師事し、水墨画を学んだが、水墨画と禅の共通点を見つけ、本場、明へ渡海することになる。そして滞在3年、その本場の明で認められ、中国五山の一つ、天童山景徳寺から第一座を与えられた。

 

第一座

禅宗の寺院で、座禅のとき第一位に座る僧。

 

彼も義政にふすまを飾る絵を依頼されるが、

 

男性

一介の僧が金殿に描くのは恐れ多い。

 

と辞退。まるで、現在我々が天皇に感じる『距離』のように、彼らもまた当時の将軍を敬うのだった。しかしここにある『距離』が、この後に巻き起こる『応仁の乱』とその後に続く『戦国時代』の一因となってしまうのである。

 

中田敦彦のyoutube大学

オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこの時代の日本史をまとめた人気動画があります。

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