『琉球王国』
上記の記事の続きだ。その頃、沖縄には『琉球王国』があった。この国は、1429年から1879年の450年間に沖縄に存在した国だが、10~13世紀の間に各地の領主が『グスク』という城塞を築いて割拠していた。14世紀半ば、
の三山が台頭して勢力を競い合い、明との朝貢貿易で独自の発展を遂げていた。その中でも南山の尚巴志(しょうはし)が勢力を強め、他の二山を併合。1429年に、この尚巴志王(第一尚氏王統)の三山統一によって琉球國が成立したと見なされている。
琉球最初の統一王朝をつくりあげた王家およびその姓の通称。正式には尚氏だが、第二尚氏と区別するために、一般には第一尚氏と呼ばれる。
また、下記の写真は筆者が撮影したお気に入りの『勝連城跡(かつれんじょうあと)』のものだが、これは、14世紀初頭に英祖王統(えいそおうとう)の第二代国王・大成の五男、勝連按司によって築城されたと考えられている。この英祖王統は実在した可能性が高い、沖縄で生まれた最初の王統で、5代90年の王統である。
[勝連城跡 筆者撮影]
英祖王統、中期山北(北山)の初代国王帕尼芝(はにじ)は英祖の次男の湧川王子(わくがわおうじ)のひ孫、山南の初代国王承察度(しょうさっと)は英祖の五男の大里按司の孫であると言われ、後の三山時代の基礎となった王統とも言われている。
[勝連城跡 筆者撮影]
しかし最初にこの地で頭角を現したのは舜天(しゅんてん)だった。舜天王統の開祖とされる人物で、琉球の正史では初代琉球国王と位置づけられているが、彼は伝説上の人物であると考えられている。舜天は15歳で浦添按司(うらぞえあじ)となり、その後、天孫氏を滅ぼした逆臣・利勇を討ち、22歳で琉球国中山王に即位したとされる。
那覇市、沖縄市、うるま市に次ぐ、沖縄県第4の都市。
琉球諸島に存在した称号および位階の一つ。
[按司。右が大礼服、左が通常服の姿。]
しかし実際には、この天孫氏も、利勇も、伝説上のものとされている。
[『椿説弓張月』の利勇(左)。弓使いに長け、農民を的にして射ていた。画・葛飾北斎]
であるからして、英祖王統は実在した可能性が高い、沖縄で生まれた最初の王統ということなのである。この地が貝塚時代から農耕社会になったのは遅く、12世紀のことだったとされている。その頃に先ほどのような人物たちが活躍したという話があるわけだ。その後、英祖王統の時代になり、それを滅ぼした察度(さっと)が中山を治め、そして南山の尚巴志が琉球を統一し、『琉球王国』が誕生するのであった。
尚巴志は、首里を拠点として初の統一王朝である琉球王国を建国する。
[首里城 筆者撮影]
[首里城 筆者撮影]
尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。
第一尚氏は
などとの交易を積極的に拡大した。第一尚氏王統、第6代の尚泰久王(しょう たいきゅうおう)は、万国津梁の鐘を鋳造せしめ、奄美諸島から八重山群島まで支配下に収め、海洋国家としての繁栄を謳歌した。中でも明との貿易はアジア最多で171回。したがって、琉球王国は中国の影響を大きく受けていて、先ほどの写真もそうだが、下記の守礼門など、まるで中国に来たかのような印象を受けるのである。
[首里城 守礼門 筆者撮影]
[首里城から見守るシーサー 筆者撮影]
琉球王国がなぜここまで明の影響を受けたかというと、『海賊化対策』という問題が背景にあったという。明は、琉球王国に仕事を失った海商たちが海賊化しないように、那覇の近くの唐営に貿易の堪能な中国人を済ませ、彼らに通訳や、その他中国人が関わる問題の処理をさせていた。また、当時は大陸である明は力があったため、現在の日本が『アメリカニゼーション』としてアメリカ化するように、当時の琉球王国も『中国化』したのである。
[中国への進貢船]
琉球王国は、室町時代に日本との貿易も活発化し、畿内や関東まで琉球の船が渡航していたが、江戸時代になると薩摩藩の支配下に置かれた。1609年に薩摩藩に占拠されて以降、家康から琉球支配権を得た薩摩藩が、この地を統治したのである。その後、明や清から冊封体制が続いていたが、日清戦争後、1895年に日本に敗れた清が、琉球に対する日本の主権を承認した。
中国の君主が『上』となって結ぶ上下関係。君臣関係。
[御座楽の演奏風景]
琉球王国には、宮廷音楽として、室内楽の御座楽(うざがく)や、屋外楽の路次楽などがあった。また、アニミズム、祖霊崇拝、おなり神信仰を基礎とする固有の宗教、信仰があり、例えば下記の写真は現在の沖縄県南城市にある史跡、斎場御嶽(せーふぁーうたき)。尚真王時代の御嶽であるとされる。「せーふぁ」は「最高位」を意味し、「斎場御嶽」は「最高の御嶽」ほどの意味となり、これは通称。正式な神名は「君ガ嶽、主ガ嶽ノイビ」という。
生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、 もしくは霊が宿っているという考え方。例えば、風の神、水の神等。
琉球の信仰における祭祀などを行う施設。
[斎場御嶽(せーふぁーうたき) 筆者撮影]
[斎場御嶽(せーふぁーうたき) 筆者撮影]
[斎場御嶽(せーふぁーうたき)から見える海 筆者撮影]
ちなみにこの舜天は、源為朝(ためとも)の息子、源尊敦(そんとん)だったという伝説がある。下記の記事に書いたように、平安時代末期の1150年代に『崇徳上皇』VS『後白河天皇』の勢力争いが始まり、1156年『保元の乱(ほうげんのらん)』が起きた。
崇徳上皇サイド | 藤原頼長、平忠正、源為義、源為朝 |
後白河天皇サイド | 藤原忠通、平清盛、源義朝 |
崇徳上皇サイドは敗北。源為義は子である源義朝の手で処刑され、平忠正は甥の平清盛によって処刑されるという、悲惨な結果となった。
[『保元・平治の乱合戦図屏風』「白河殿夜討」
(江戸時代)メトロポリタン美術館所蔵]
実はこの時に為朝は伊豆に流されたのだが、沖縄本島の今帰仁(なきじん)に漂着し、豪族の大里按司(おおざとあじ)の妹と子を儲け。源尊敦が誕生したというのだ。尊敦は22歳のときに中山の王となったというが、どれほどの信頼性があるものか疑わしく、それを確かめる術はないという。
ただこれらの説が完全に否定されない理由がある。彼らが為朝伝説に関わる史記の記述を否定しなかった理由として、島村幸一という琉球文学を専門とした日本文学者は、
と述べている。源氏の伝説と言えばもう一つ『源義経=チンギス・ハン』伝説があるが、とにかく当時の源氏がどれほど力を持っていたかということがわかるワンシーンである。
[左右とも、画・葛飾北斎。 (左)舜天丸は中山王として即位し、舜天王と称した。 (右)画像中央やや左に、島烏を射抜く舜天丸、そして右に為朝、左下に紀平治がいる。]
ちなみに下記の写真も筆者のお気に入りの『今帰仁城跡(なきじんじょうあと)』だ。今帰仁城とは、現地の伝説によれば、今帰仁世の主が築いたと伝わるが、伝説上の王統・舜天王統が始まるよりも遥か前の事だと言う。さらに利勇の反乱により世主は尽く滅亡したと伝わる。なお、現在まで発見された城郭跡は12 、13世紀頃の築城だ。
[今帰仁城後 筆者撮影]
英祖の次男の湧川王子の話が先ほど出てきたが、伝説王・舜天の兄、大舜とその子がこの今帰仁城の城主となり、のち舜天二世・舜馬順煕(しゅんばじゅんき)の子、今帰仁世の主(義本王とは兄弟)が城主となる。そして、の代の今帰仁世の主の二世(不詳)の養子となり今帰仁城主を継いだのが英祖王の次男、湧川王子ということになっているようだ。
[今帰仁城後 筆者撮影]
更に、下記の写真もお気に入りだ。天気がいい日を選んで沖縄に取材しに行ったので、いい写真がたくさん撮れた(26歳の頃だが)。1416年から1422年に読谷山の按司護佐丸(ごさまる)が築城したとされている『座喜味城(ざきみじょう)』跡である。
[座喜味城跡 筆者撮影]
彼は恩納村出身の中山の按司だ。このように、北山、中山に伝えられている、あるいは実在した歴史があり、そして南山の尚巴志が琉球を統一し、『琉球王国』が誕生するのであった。こうしたグスク(城跡)は、琉球王国がなくなった今も、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として、世界遺産に登録されて保護され続けている。
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