『戦国時代の幕開け』
上記の記事の続きだ。室町時代は、こうして『室町・戦国時代』に突入することになる。
室町時代 | 1336年 – 1573年 |
南北朝時代 | 1336年 – 1392年 |
戦国時代 | 1467年(1493年)– 1590年 |
表にあるように、戦国時代が始まったのは歴史的には応仁の乱があった1467年のことだとされている。その名前の由来は、当時の公家が古代中国の「春秋戦国時代」の乱世になぞらえ「戦国の世」と表現したことに由来しているという。
上の表に(1493年)とあるのは、明応の政変(めいおうのせいへん)があったからだ。1493年4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件で、これによって将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。よって、近年はこれ以降を戦国時代と称するべきだという声が上がっている。
だが、そもそも戦国時代というのは文字通り『戦が盛んに行われた時代』だ。明応の政変が『明白な境界線』だとした場合、端緒となったのはどこだろうか。つまり、発端である。ではここで言葉の意味を考えてみよう。
地方政権が群雄割拠して互いに相争った戦乱の時代のことを指す。
応仁の乱以降、室町幕府の威令(威厳のある命令)が行われなくなり、守護大名の領国支配が崩壊し、これに代って地方に割拠して地域的封建支配を貫徹し、大名化していった守護代、被官、国人層を主体とする、いわゆる下剋上の結果成立した大名。
つまりこの戦国大名というのは、冒頭の記事であったような『下』にいた人間たちが奮起、下剋上をして成立した大名のことだ。
その記事を見ればわかるが、そこにあったのは人間に元来備わっていた『リヴァイアサン性(猛獣性)』だった。
そして、そこかしこの文献で戦国時代のキーワードにこの『下剋上』という文字が見て取れるわけだ。そうなると、リヴァイアサンを解放し、下剋上を始めたあたりが戦国時代の端緒。かつて、中大兄皇子が中臣鎌足と一緒に蘇我入鹿を『乙巳の変(いっしのへん)』で殺害し、天皇を中心とした中央集権国家を作ろうとした。
[乙巳の変]
こうして革命を起こした中大兄皇子は、蘇我入鹿に代わって実権を握る。中大兄皇子の母である皇極天皇は、弟の孝徳天皇に位を譲り、そして『大化の改新(645年)』と言われる政治改革を推し進めた。だがこれは『下剋上』ではない。中大兄皇子は皇族だからだ。
その後、中臣鎌足は『藤原氏』という名になり、長くに渡って国の中心で貢献してきた藤原氏は、ついに『豪族』から『官僚』としての立ち位置を得た。醍醐天皇と村上天皇の時代には天皇中心とした政治を行うが、藤原氏は皇族との外戚関係を結び付け、次の冷泉天皇(れいぜいてんのう)の治世で、実頼(さねより)が他氏排斥を完了させ、その甥の道長が、
この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思へば
と歌うほど、藤原氏は全盛期を迎えた。確かにこの『藤原氏の躍進』は、中臣鎌足の当初の立場を考えれば『成り上がり』だが、これは下剋上というよりは、時間をかけて徐々に力をつけ、順当に『成長』した形だ。成長と膨張は違う。膨張はすぐに膨らむが、同じくすぐにはじけて消えるのが相場である。しかし、藤原氏はそうではなかった。よってこれは成長である。
その後、『新皇』と自称した平将門(たいらのまさかど)は、確かに『武士』の名を轟かせた。東日本(東国)を支配し、圧倒的な力を得て、武士という貴族でも皇族でもない身分において、飛躍的な活躍をしてみせた。それは、全く同じ時期に関西で活躍した、藤原純友においても同じことだった。939年にあったこの朝廷を揺るがす2つの大事件、『承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)』も確かに下剋上的な動きだったと言えるだろう。
承平・天慶の乱
だが、これらはすぐに鎮圧された。平将門の乱に至っては、平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた。よってこれは『時代』とは言えない。しかし、たしかに彼らは大きく下剋上をしてみせた、日本史の最初の人物たちである。
[豊原国周「前太平記擬玉殿 平親王将門」]
その後、『鎌倉時代』に突入する。鎌倉時代とは、1185年頃 – 1333年のおよそ150年間のことを言う。日本史で幕府が鎌倉(現神奈川県鎌倉市)に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つで、朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう呼ばれている。
様々な争乱を通し、『平氏、源氏』という武士が登場して『藤原氏』といった貴族たちよりも力を持つことになる。源氏が力を持ったら平氏がそれを鎮め、平氏が力を持ったらまたそれを源氏が鎮圧して、といったシーソーゲーム(源平合戦)を続け、そして結局この時、源氏である源頼朝が鎌倉幕府を作り、『本格的に武士が国の治安を守る』という形が作り上げられたのだ。
鎌倉時代というのは日本史の上で『極めて重要な転換期』だと言えるろくに記録がないヤマト政権時代から続いた日本史だが、縄文、弥生、古墳時代を経て、飛鳥、奈良、平安は奈良や京など、畿内に本拠を置く帝(みかど、天皇)を中心に朝廷が政権を担ってきた。
しかし、この鎌倉幕府の登場によって日本の舞台の中心は東国、つまり東日本の武家に移り、日本人の内面的な問題にも大きな変化があった。例えば生活に余裕のある公卿たちのように、優雅な貴族文化や思想を持って生きるのではなく、『武士道精神』の根幹となる考え方が生み出された。
貴族と皇族(公家)だけがこの時代の中心にいる時代に風穴を空けたのは、武士(武家)だった。源氏や平氏は間違いなく、下剋上をしてみせたのである。しかしやはりこれも『地方政権が群雄割拠して互いに相争った戦乱の時代』という戦国時代の定義には当てはまらない。言えるのは『下剋上があった』ということで、その150年という長い間は、戦国時代というよりは、
『朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在し、鎌倉仏教、鎌倉文化等の独自の文化が発展した時代』
とした方がまとめやすいのである。
では、その鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏はどうだろうか。しかしこれも有力御家人の尊氏と、皇族の後醍醐天皇が主軸である。よってこれは下剋上ではなく、兼ねてから多く見受けられてきた『上層部の権力争い』である。
では一体、この室町・戦国時代においては、いつが『リヴァイアサンを解放し、下剋上を始めた端緒』に該当するだろうか。その後、足利尊氏が室町幕府を作り、三代義満が最盛期を作り、五代将軍義量(よしかず)へバトンタッチする。そして父同様、裏で彼を指示して政権を握ろうとした。しかし、義量はすぐに死去してしまい、義持も倒れた。
予期せぬ要人の不幸に対応できず、次の将軍はなんと『くじ引き』で決められ、六代将軍に選ばれた義教(よしのり)は『くじ引き将軍』と揶揄され、嘲笑されてしまった。
[紙本著色足利義教像]
だが、その流れが彼の心の形を歪めた。
そして彼は『万人恐怖』と史料に載せられるほどの恐怖政治を行ったのだ。そうした義教の行動に対し、東日本のトップ、鎌倉公方の足方持氏(もちうじ)はよく思わなかった。
元々鎌倉府と幕府はあまり仲が良くなく、鎌倉公方の補佐、関東管領との間でいざこざがあった。1438年、そうした状況の中この『永享の乱(えいきょうのらん)』は起こり、義教がこれを鎮圧し、持氏は自害して騒ぎは収まった。
持氏は東日本のトップなのだから、立場は上だ。問題はここから。義教は『恐怖将軍』として独裁政治を貫き、多くの有力者が殺され、排除されていく中で、窮鼠が猫を噛む。つまり、あまりにも追い込みすぎたので鼠(ねずみ)たちは牙をむき始めた。立ち上がったのは播磨の守護大名、赤松満祐(あかまつみつすけ)だ。
1441年、こうして『嘉吉の変(かきつのへん)』は起きた。赤松が義教を自宅の宴会に招き、そこで殺害したのだ。急な展開で七代将軍になったのは、義教の息子の義勝。しかしかれは在任8か月で急死。10歳のことだった。
そしてこれ以降、将軍の力が弱まり、守護家の内紛が激化する。そして冒頭の記事に書いたように『応仁の乱(1467年)』が起きたのだ。
そしてその応仁の乱の間にこれらの地域の国人たちが奮起し、戦国大名へとなっていった。
そう考えると、『室町・戦国時代』の起因は六代将軍『足方義教』。彼に対する反乱の、
は、下にいる者のリヴァイアサン性(猛獣性)があまりにも侮辱されたことで起きた、リヴァイアサンの暴走だった。そして『応仁の乱(1467年)』を通して全国の日本人のリヴァイアサン性も眠りから覚め始め、戦国時代へと繋がっていったのだ。
ちなみに関東は先ほど永享の乱で殺害された東日本のトップ、鎌倉公方の足方持氏の子、成氏(しげうじ)によって11年後の1449年に再興されるが、間もなく関東管領上杉憲忠(のりただ)を殺害してしまうため、1454年に各地で上杉派と成氏派が争う『享徳の乱(きょうとくのらん)』が起きる。それによって、
の勢力が入り乱れ、全国に先駆けて戦国時代に突入する。つまりまとめるとこうなる。
戦国時代のきっかけを作った人物 | 足利義教 |
戦国時代の端緒となる出来事 | 嘉吉の変(1441年) |
戦国時代が実際に始まった時期 | 享徳の乱(1454年) |
戦国時代に突入したと言える時期 | 応仁の乱(1467年) |
戦国時代に突入した明白な境界線 | 明応の政変(1493年) |
1月1日から新しい年代が始まるのとは違って、『時代』というのは当然境界線が曖昧だが、戦国時代のきっかけを作ったのは、室町幕府六代将軍の、足利義教だ。そして更に言うなら、武士たちや地方の人々に長い間『当然のように』強いられていた『格差』や『不遇』の状況がリヴァイアサンの『餌』となり、このタイミングでその猛獣が暴走化したのである。
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