『浅井政長、朝倉義景、斎藤道三、義龍、足利義昭』
上記の記事の続きだ。
について書いたが、次は畿内だ。つまり、京都の近くの関西圏のエリアである。ここは中央であり、つまり足利将軍の周りのエリアだ。ここでは下記の記事に書いたように、
といった将軍たちが、次々とその配下の者たちによって追放される下剋上と、その者らが更にその配下に下剋上されるという、混乱があったあとだった。
明応の政変
ここからはその後の動きだ。そうして松永久秀が下剋上をした後、13代将軍義輝を殺害してしまったのだ。つまり事実上の畿内の覇者は、この松永久秀だった。しかし、その後の話を言えば、信長上洛後にこれに従うことになる。そして、冒頭の記事で武田信玄が
らと手を組み、『信長包囲網』を作り上げたと書いたが、その包囲網に加担し、信長に逆らう。しかし、信玄が死んで降伏すると、これが許されて再び信長の支配下に入った。しかし、1577年に、
らに同調し、再び信長に反抗。しかも最期は、信長が欲しがった名器『平蜘蛛(ひらぐも)』の茶釜を道連れにして爆死。松永は信長に、
と言われ、呆れられたという。しかし、逆に言うとそれだけのことができた策士だったということだ。信長に一度許されたことを考えると、彼がそれだけ殺すのが惜しい有能な人物だったということが垣間見えてくる。しかし、それにも関わらず何度も反抗し、最期にはせめてと言わんばかりに信長の欲しいものと共に自殺するのだから、耳をすませば、
という彼の魂の叫びが聞こえてきそうである。
[「太平記英勇伝十四:松永弾正久秀」(落合芳幾1867年作)]
松永久秀の三代悪事
また、越前には朝倉義景(あさくらよしかげ)がいた。彼が支配する越前一乗谷は平和な国だったが、足利一族最後の将軍となる足利義昭がやってくると、この地も戦国時代に突入した。義景は、義昭に上洛を促されるが、応じなかった。しかし、1568年に義昭が織田信長と組み、15代将軍将軍となると、信長を通して義景に圧力がかかった。
しかし義景はこれを頑なに拒否。そこには、信長よりも朝倉の方が家柄が上の立場にあるというプライドもあったという。しかし、1570年4月、信長が越前に侵入し、あわや崩壊しかける。だが、北近江の浅井氏が加勢してくれて、信長軍を撤退させることに成功した。
しかし、結局2か月後の『姉川の戦い』で敗れ、義景は『信長包囲網』に組み入られらた。つまり、将軍義昭は、信長に頼って義景に圧力をかけたが、信長を潰そうとして、包囲網を作り、その一味として義景を率いれたのである。その後、1572年に武田信玄が西へ攻めてきた。それが信長を討つ絶好の機会だったはずだが、義景はなぜか突然兵を引き揚げいなくなり、信玄の怒りを買ったという。更に、かつて支援してくれた浅井のために支援して信長軍と戦うが惨敗し、最期は自害した。
[朝倉義景画像(複製:湖北町所蔵、原資料:心月寺所蔵)]
ちなみに、この自害した浅井久松・政長親子と、朝倉義景の頭蓋骨には金を施されたのは本当らしい。だが、いわゆる『髑髏杯』、つまりこれを盃にして酒を飲んだというのは嘘だという。
さて、近江の北部には浅井長政がいた。今出てきたその人物である。彼は元々、織田信長の妹、お市の方を正室に迎え、信長と同盟を結んでいたはずなのだ。つまり彼は信長の義弟。それなのに、なぜ信長ではなく朝倉義景の側に回ったのか。信長という鬼才を転覆させるには、義弟になってまでして目を欺いて、内から破壊するしかないと考え、これを好機と見たのだろうか。
実際には、彼の父、久政(ひさまさ)が朝倉義景と盟友だったのが理由だろう。彼は信長と同盟を組む時、『織田は独断で朝倉を攻めない』という条件を付けていたのだ。それを破ってしまった信長に対して怒った。それが義景側についた理由だったのだ。
[浅井長政像 (高野山持明院像)]
畿内には山城国(京都府)に、斎藤道三(さいとうどうさん)という武将もいた。彼が『美濃の蝮(マムシ)』、『蝮の道三』と言われた理由は、彼がこの下剋上時代に、最も筋の通らない『王道の下剋上』をした人物だったからだ。王道というより、『外道』というべきか。しかし、本来下剋上というものは、野心家が水面下で策略し、
このまま済むと思うなよ
としてその私心を表面化し、貫いてしまう革命のことを言う。彼はただの行商人だったが、守護・土岐頼芸(ときよりなり)にひいきにされたが、その頼芸を追放して、美濃(岐阜県)の一国を手中に収めたのである。
彼は、乗っ取り、追放し、政略結婚をさせる策士で、食えない人間だった。だが、人を見る目はあったらしい。信長と初めて会う時、家臣は信長のいでたちを笑ったが、道三の感想は違った。『蝮の道三』と言われて恐れられたはずの自分を前にしても動じなかった信長を見て、
と言ったという。そして10年後、道三の言ったとおりの展開になったのである。
[斎藤道三像(常在寺蔵)]
しかし、その子の義龍というのがなかなかの人物だったという。35歳で死んだ彼は信長に負けたわけではなかった。義龍は、道三が追放した土岐頼芸の血筋の可能性がある、と噂されていたことを利用し、道三は土岐市の家臣を従わせようとしていた。義龍はその戦略通りに話を進めるが、道三が彼よりも異母弟の孫四郎(まごしろう)と喜平治(きへいじ)を優遇するものだから、次第に心が冷める。
自分が利用されているだけに過ぎないと考えた義龍は、この二人を殺害。道三と対立するが、道三には2000人、義龍には17000人の兵士が集まり、美濃が斎藤ではなく土岐を選んだことにより、長良川の戦いで義龍軍は、父、道三軍を打ち破った。
義父である道三の援助に織田信長がやってくる前に片づけた義龍は、美濃を支配。その後、信長は美濃を落とそうとして義龍と対立するが、信長は義龍を落とすことはできなかったという。最期は1561年に、病死する形でこの世を去った。そしてその3年後には美濃が信長の手に落ちた。その時信長は30歳。つまり、27歳前後で義龍と戦っていた信長は、彼よりも8歳若かったが、格闘技ならむしろ27歳の方が強い。義龍がもう30年長く生きていたらまた歴史も変わっていたのかもしれない。
[斎藤義龍]
さて、15代将軍の足利義昭はどうか。先ほど、越前の朝倉義景に上洛を求め断られ、信長に頼んだと言ったが、彼はまず冒頭の松永久秀らに、兄の13代将軍義輝を殺害されていて、自身も久秀に幽閉されていたのだ。何とか近江の和田氏を頼って脱出し、その後様々な有力者の力を借りて、なんとか京に戻ろうとしていたのである。1568年、信長の力でようやく上洛でき、15代将軍となったが、信長が将軍としての権威を制限したのだ。
として、『信長包囲網』を計画した。しかし、
によってこれが頓挫し、崩壊した。しかしその後も中国の毛利氏と信長包囲網を再構築しようとして粘る。ところが、『本能寺の変』が起きて豊臣秀吉が指揮を執るようになると、足利一族の将軍が再興するシナリオは、遠のいてしまった。その後、秀吉が農民出身ということで征夷大将軍になれなかったから、義昭の猶子(ゆうし)になろうとする。
兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度
それで将軍職を得ようとしたのだが、義昭はこれを拒否し、最後の最後まで信長、秀吉勢に抗い続けた、足利一族最後の将軍となった。
[足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)]
戦国時代の中心人物
北条早雲 | 関東 | 1432~1519年 |
北条氏康 | 関東(相模国) | 1515~1571年 |
織田信長 | 東海(尾張国) | 1534~1582年 |
佐竹義重 | 関東(常陸国) | 1547~1612年 |
武田信玄 | 甲信越(甲斐) | 1521~1573年 |
上杉謙信 | 甲信越(越後) | 1530~1578年 |
浅井長政 | 畿内(近江国) | 1545~1573年 |
三好長慶 | 畿内(阿波国) | 1522~1564年 |
毛利元就 | 中国(安芸) | 1497~1571年 |
大友宗麟 | 九州(豊後国) | 1530~1587年 |
龍造寺隆信 | 九州(肥前国) | 1529~1584年 |
豊臣秀吉 | 東海(尾張国) | 1537~1598年 |
徳川家康 | 東海(三河国) | 1542~1616年 |
長宗我部元親 | 四国(土佐国) | 1538~1599年 |
島津義久 | 九州(薩摩国) | 1533~1611年 |
伊達政宗 | 奥州(出羽国) | 1567~1636年 |
[元亀元年頃の戦国大名版図(推定)]
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