『鉄砲・キリスト教伝来、大友宗麟』
上記の記事の続きだ。九州の勢力において、
についてまとめた。だが九州には『九州三強』と言われる勢力がいて、後一人『大友宗麟』という人物がいた。なぜ彼が後回しになったのかというと、それは彼が『クリスチャン(キリシタン)』だったからだ。つまり、彼の話とともに、『キリスト教伝来』の話をまとめる必要があるのである。
[大友宗麟像(瑞峯院所蔵)]
まず下記の記事に書いたように、1500年代の日本は戦国時代だが、ヨーロッパでは『大航海時代』が幕開けしていた。
ディアスを皮切りに、コロンブスが大きく打ち上げた大航海時代で、スペイン・ポルトガルはバラバラだった世界を一つにつなげ、我々が住むこの星は『本当に球体だった』ことが立証されるなど、世界では歴史を揺るがすとんでもない出来事が頻発していた。
そしてその流れを受け、1543年、日本の種子島には、ポルトガルのフランシスコとキリシタ・ダ・モッタが漂着し、鉄砲を伝える。いわゆる、『鉄砲伝来』である。1549年には、スペイン(ナバラ王国)の宣教師ザビエルが来日し、ポルトガルと日本の交易が恒常化した。
『日本人はこれまで発見された国民のなかでも、最もよい者である。異教徒のなかでこれほど優れた者はいないだろう。日本人は慎み深く、冨より名誉を重んじる国民なのだ。』
ザビエルはそう言って日本人を高く評価したが、日本でキリスト教は簡単には広がることはなかった。日本の関心はキリスト教というよりも、ポルトガルとの貿易にあったのだ。そしてその後日本とキリスト教の問題は、『隠れキリシタン』等の問題につながっていく。
[フランシスコ・ザビエル像。17世紀初期に描かれた。神戸市立博物館所蔵。『中公バックス 日本の歴史 別巻2 図録 鎌倉から戦国』より。]
この時、ヨーロッパにはイスラム帝国であるオスマン帝国が勢力を上げていた。オスマン帝国の最盛期は、第10代皇帝スレイマン1世(在位:1520年 – 1566年)の時代だから、ちょうどこの頃だということがわかる。
[スレイマン1世]
彼はスレイマンの意味通り『壮麗なる者』として国外からも羨望のまなざしで見られた。それが何を意味するかというと、実はオスマン帝国が地中海の制海権を握っていて、アジアからの輸入品に重税をかけたため、西欧諸国は公領を安く入手するためアジアと直接貿易を結ぶ必要があり、この時期にスペイン人はアメリカ大陸やフィリピンのマニラに、そしてポルトガルはアフリカ大陸から東へ向かい、インドのゴアを拠点にした。つまり、オスマン帝国の勢力が上がったことによって西欧諸国が直接『商売相手』に会いに行くことを強いられ、そして彼らがこの時代に南蛮貿易が活発化したのである。
1540年代から1世紀にわたって日本人と南蛮人 (スペイン・ポルトガル人)との間で行われた貿易。
更にこの時期は宗教的に、ドイツで『宗教改革(1517年)』が起きた時期でもあった。『ルター、カルバン、ツウィングリ』といった人物がキリスト教の腐敗に立ち向かい、新しい体制に改善しようと立ち上がったのである。
しかし、弾圧ばかりじゃなく、カトリックもまともな布教活動は行った。『イエズス会』初代総長のイグナチオ・デ・ロヨラは、1534年にパリ大学の同志たち、フランシスコ・ザビエルらとともにモンマルトルで神に生涯を捧げる誓いを立て、イエズス会を結成。そして冒頭の記事に書いたように、日本へキリスト教を伝えにやってくるわけである。
もちろん利益目的に宣教師や布教活動をする者もいたが、キリスト教に入信する大名『キリシタン大名』も現れるようになった。彼らが保護した浄化舞tには、
といった施設が建てられ、わずかな勢力ではあるが、西日本を中心にキリスト教が広がっていった。この時の文化交流によって、
といった日本語が作られるようになる。これは元々この時に宣教師たちが話したポルトガル語が語源なのである。
日本で初めて鉄砲を入手したのは、種子島にいた島主、種子島時尭(ときたか)である。1542年、彼は父と対立するが、冒頭の記事に書いた南九州のドン、島津義久の父、島津貴久の調停で和解し、島津氏に仕えるようになる。その後、大隅の禰寝氏(ねじめうじ)と抗争し、屋久島に築城する。そして1543年に倭寇(わこう)が漂着し、鉄砲が伝えられた。
[愛知万博で展示された種子島の火縄銃]
ポルトガルのフランシスコとキリシタ・ダ・モッタが漂着し、鉄砲を伝えるとあったが、彼らが乗っていた船は『ポルトガル船』ではなく『中国、明の商船』であり、明の商船といっても、その船は合法的なものではなく、倭寇の船だった。倭寇については下記の記事に書いたのでそちらで確認していただきたい。
さて、こうしてこの国に『鉄砲』と『キリスト教』が伝わった。この時日本は『戦国時代』であり、ヨーロッパは『大航海時代』だった。そんな宣教師、フランシスコ・ザビエルの影響を受けたのが、北九州のドン、大友宗麟だったのである。
1551年、宗麟はキリスト教に深い関心を持ち、同時にヨーロッパの進んだ文明や兵器に興味を持ち、海外貿易を盛んに行うようになった。同時期にルターらが『キリスト教の腐敗』に嫌気がさし、宗教改革として立ち上がったように、この時期の日本にも『仏教の腐敗』があったという。そうした理由もあって宗麟は本格的に洗礼を受けてキリシタンとなり、そして日向の仏教寺院を破壊するようにも命じているほどである。
宗麟が家督を相続したとき、冒頭の記事にあったように毛利元就が中国地方で勢力を得ていた。宗麟は肥後の名門菊池氏を滅ぼし、毛利元就は中国地方で有力者、大内氏を滅ぼし、お互いに強い勢力を持っていた。だが、宗麟と元就は密約によって和平を結ぶ。
こうして北九州は、中国地方からの影響を排除し、九州統一に目を向けることができた。そしてその後、
を支配し、伊予と日向も半国を領有し、大友宗麟は九州最大の大名になった。しかしその後、元就が密約を破って攻めてきたり、
らが宗麟に反旗を翻し、一時窮地に陥る。宗麟は何とかこれを駆逐するが、1570年には、勢いを上げてきた龍造寺隆信を再度打ち破るために肥前に攻め入るが敗れ、徐々にその勢力が弱体化してくる。1577年、日向の伊藤義祐(よしすけ)に依頼され、島津義久の勢力を追い払うために日向に出向くが、先ほど言ったように寺社、仏像を破壊しながらの進軍だったため、大友軍は心身ともに衰弱していて、島津軍に大敗。宗麟は『キリスト教王国』を夢見ていて、日向侵攻をしたのも、そこにキリスト教の理想郷『ムシカ』を建設するためだったという。
これを好機と見た龍造寺隆信が領地に攻め入り、膝元の豊後でも内乱が起きるなどして、窮地に陥る。1582年、その頃50歳を目前にしていた織田信長は、全国制覇まであとわずかというところまで来ていた。武田氏を滅亡させた信長は、
あとはこの勢力を制覇しさえすれば、天下統一の野望は成し遂げられたのだ。しかしその年の6月2日、『本能寺の変』によって信長が死亡。7月16日に、後継ぎを決める『清須会議』が行われる。この会議は「信長の後継者を決める」会議ではなく、信長の後継者である三法師がいる清州城に集まって「三法師を支える体制を決める」会議であった。三法師が織田家家督を継ぎ、叔父の織田信雄と信孝が後見人となり、傅役として堀秀政が付き、これを執権として秀吉、勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制ができた。
織田信長の嫡孫で、三法師は幼少期の名前である。彼は1580年に生まれたばかりだった。
この三法師(織田秀信)も、大友宗麟同様、後にキリシタン大名になる人物だった。
1584年、龍造寺隆信を破って島津義久は勢力を上げていた。冒頭の記事に書いたように、そこへ豊臣秀吉が介入し、大友宗麟との和平を命じるが、島津軍はこの秀吉軍を撃破し、豊後を制圧してしまった。
この時、なぜ秀吉が介入したかというと、宗麟が窮地に陥り、秀吉に救援依頼をしていたからだ。結局、島津軍が秀吉軍に降伏した直後、大友宗麟も生涯を終えた。1586年のこの時、大友宗麟にポルトガル人から『国崩し(大砲)』が贈られ、それが島津軍の攻撃において、大きな存在感を誇ったという。この大砲は、明治維新後に国に奉納され、現在は靖国神社に保存されている。
[フランキ砲「国崩し」(東京 遊就館蔵)。]
戦国時代の中心人物
北条早雲 | 関東 | 1432~1519年 |
北条氏康 | 関東(相模国) | 1515~1571年 |
織田信長 | 東海(尾張国) | 1534~1582年 |
佐竹義重 | 関東(常陸国) | 1547~1612年 |
武田信玄 | 甲信越(甲斐) | 1521~1573年 |
上杉謙信 | 甲信越(越後) | 1530~1578年 |
浅井長政 | 畿内(近江国) | 1545~1573年 |
三好長慶 | 畿内(阿波国) | 1522~1564年 |
毛利元就 | 中国(安芸) | 1497~1571年 |
大友宗麟 | 九州(豊後国) | 1530~1587年 |
龍造寺隆信 | 九州(肥前国) | 1529~1584年 |
豊臣秀吉 | 東海(尾張国) | 1537~1598年 |
徳川家康 | 東海(三河国) | 1542~1616年 |
長宗我部元親 | 四国(土佐国) | 1538~1599年 |
島津義久 | 九州(薩摩国) | 1533~1611年 |
伊達政宗 | 奥州(出羽国) | 1567~1636年 |
[元亀元年頃の戦国大名版図(推定)]
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