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戦国時代は『下剋上』の時代?ならば『草履取』から天下統一を成し遂げたこの豊臣秀吉こそがその代名詞だ!

『天下統一』

明智光秀はなぜ『本能寺の変』で信長を討ち、その直後に秀吉に殺されているのか?事件の真相とはいかに

 

上記の記事の続きだ。1582年6月2日、『本能寺の変』は起きた。その時、豊臣秀吉は備中高松で毛利氏と対峙していたが、本能寺で信長が明智に討たれた報告を受け、味方にも内緒にし、毛利には取り急ぎ和議を申し入れ、急いでその地を離れて明智光秀を追った。7日には姫路、11には尼崎に大軍を集結させ、13日には3万6000もの大軍を山城国山崎に集め、1万6000余りいた明智軍を『2時間』ほどで打ち破った。この時秀吉はまだ『羽柴秀吉』と名乗っていた。

 

こうして主君の敵を討った秀吉は、信長の後継者の第一候補になった。これが冒頭の記事で書いた『秀吉が疑われる理由』だ。普通、現在の警察なども殺人事件があれば、『この殺人によって誰が得をするのか』を探るものである。そして、例えば財産が誰かに相続されることになるとしたら、明らかな犯人像が浮かび上がっていない限り、真っ先に疑われるのはその人物である。

 

[豊臣秀吉像(狩野光信筆 高台寺蔵)]

 

とりわけ、秀吉にはそれを疑わざるを得ないほどのポテンシャルがあった。例えば『信長協奏曲』(のぶながコンツェルト)という漫画に登場する羽柴秀吉は、幼少期に、自分の住む村が敵将を匿ったため信長の手勢に滅ぼされたことから、信長を憎んでいる設定がある。これに関しては下記の記事に書いたように、首をかしげる点ではある。

 

ついに『鬼才』織田信長が登場!謙信にも信玄にもなかった信長の『天賦の才』と『治者の徳』

 

逸話的にどうしても信長が乱暴者で、謙信が信心深いという印象があるが、実は信長は、焼き討ち(略奪、暴行)を行わせなかったのである。信玄も謙信も、焼き討ちは行わせたのだ。軍神と言われ崇められた謙信でさえも行き届かなかった所に、目が行き届いた。それが織田信長だったのである。

 

まあこれはフィクションだし、それに延暦寺を焼き討ちしたのはたしかだから何とも言えないが、とにかくこのようにして、秀吉という人物は何かと色々な目を向けられるのだ。それだけの可能性を秘めた人物だったのである。何を隠そう、天下統一を実際に実現させたのは、この豊臣秀吉なのである。

 

 

ちなみにその記事に『1548年に斎藤道三は娘を織田信長に嫁がせる』と書いたが、その妻が、上の動画に出ている柴咲コウが演じる『帰蝶(濃姫・のうひめ)』である。実は、信長の女性関係のことはほとんど知られておらず、ただ彼女が妻であるということだけは分かっているのだ。

 

帰蝶は美濃国の人間だったが、信長がその美濃国を攻めたとき、長良川彼岸の墨俣(すのまた)に砦を築かなければならなかったのだが、それは至難の業で、佐久間信盛、柴田勝家といった信長の部下たる猛将でさえ実現不可能だった。しかし、それを実現させたのが秀吉だった。そこから秀吉は大きく信頼を得ることになるが、思い返せば秀吉は『藤吉郎』、あるいはその容姿の滑稽さから『』と言われていた時代から、光るものがあった。

 

MEMO

ただ、信長は秀吉の妻・おねに宛てた書状の中で、秀吉のことを『禿げ鼠』と書いている。

 

冒頭の記事でも書いたが、渋沢栄一の著書、『論語と算盤』にはこうある。

かく列挙した秀吉の長所の中でも、長所中の長所と目すべきものは、その勉強である。私は秀吉のこの勉強に衷心(ちゅうしん…心の奥底)より敬服し、青年子弟諸君にも、ぜひ秀吉のこの勉強を学んでもらいたく思うのである。事の成るは成るの日の成らずにして、その由来するところや必ず遠く、秀吉が稀世の英雄に仕上がったのは、一にその勉強にある。

 

秀吉が木下藤吉郎と称して信長に仕え、草履取をしておった頃、冬になれば藤吉郎の持ってた草履は、常にこれを懐中に入れて暖めておいたので、いつでも温かったというが、こんな細かな事にまでわたる注意は余程の勉強家でないと、到底ゆき届かぬものである。また信長が朝早く外出でもしようとする時に、まだ供揃いの衆が揃う時刻で無くっても、藤吉郎ばかりはいつでも信長の声に応じてお供をするのが例であったと伝えられておるが、これなぞも秀吉の非凡なる勉強家たりしを語るものである。

 

阪急グループの創始者、小林一三は言った。

 

また、野球界の打撃の神様と言われた、川上哲治は言っている。

 

人間の真価が発揮されるのは、往々にして窮地にいるときである。窮地とは色々な局面があるが、基本、『あまり上手くいっていない時期』であり、『失意の時代』である。決して『得意時代』ではない。

 

アメリカの詩人、ウィルコックスは言った。

 

しかし、農民の子として生まれた秀吉は、そもそもその状況を『失意時代』だとは考えていなかっただろう。農民出身ふぜいが天下統一を目標として奮闘する信長の近くで働ける。その状況を望んで引き受けていたように見える。どちらにせよこうして秀吉は、農民から出て、『一流の草履取』として働き、墨俣城を築いたあたりではもう立派な存在感を示していた。更に、浅井氏を滅ぼした小谷城攻めではしんがりを引き受け、それを見事に果たして見せた。

 

しんがり

退却する軍列の最後尾にあって、敵の追撃を防ぐこと。



参考
草履wikipedia

 

そして37歳の時には信長から北近江の3郡を引き受け、長浜城の城主となり、筑前守(ちくぜんのかみ)という官位を得たのだ。

 

そうして1582年6月2日、『本能寺の変』によって信長が死亡。7月16日に、後継ぎを決める『清須会議』が行われる。この会議は「信長の後継者を決める」会議ではなく、信長の後継者である三法師(さんぼうし)がいる清州城に集まって「三法師を支える体制を決める」会議であった。三法師が織田家家督を継ぎ、叔父の織田信雄と信孝が後見人となり、傅役として堀秀政が付き、これを執権として、

 

  1. 秀吉
  2. 勝家
  3. 丹羽長秀
  4. 池田恒興

 

の4重臣が補佐する体制ができた。

 

三法師(織田秀信)

織田信長の嫡孫で、三法師は幼少期の名前である。彼は1580年に生まれたばかりだった。

 

 

丹羽長秀(にわながひで)を抱き込み、柴田勝家に主導権争いで勝ち、三法師を擁立して跡目問題を自分の都合のいい展開に持っていく。しかし、ライバルのその柴田勝家とは確執があった。

 

『鬼柴田』と言われた勝家は猛将として名高い武将で、最初は信長の弟、信行派だったが、信長に敗れた後は信長に忠誠を尽くして戦った、頑固で男気ある人間である。勝家とて、信長が死んだときすぐに駆け付けたかったが、北陸で上杉景勝と対峙していた故、秀吉に色々と後れを取った。それが清須会議にも響いたと言われている。

 

[「太平記英勇伝十三」落合芳幾画]

 

勝家は、秀吉が織田家をないがしろにしていたことが一番許せなかった。

 

  1. 自らが推す信長の三男、信孝
  2. 滝川一益(かずます)
  3. 長宗我部元親

 

らと手を組み反秀吉派を結成し、秀吉と徹底的に戦うことを決意した。しかし秀吉は、1583年に『賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い』でその勝家を倒し、更に自分の地位を確固たるものにしていく。しかもその勝家戦においても、勝家が越前で冬将軍で動けない間に、先手を打って勝家派の諸将を一人ずつ確実に討つという、抜け目ないやり方だった。

 

冬将軍

モスクワに遠征したナポレオンが、冬の寒さと雪が原因で敗れたところから、冬の厳しい寒さをいう語。また、寒くて厳しい冬のこと。

 

1812年、ナポレオンはロシアを制圧するため、モスクワ遠征を行う。しかし、ロシア皇帝アレクサンドル1世は賢く、地の利を生かそうとしてわざと少しずつ敗北しながら、フランス軍をロシア内部におびき寄せる。そして冬を待ち、環境に適応できず弱体化したフランス軍を倒したのだ。実にナポレオン軍は、戦死と凍傷で61万もいた兵士が5千人に激減してしまったという。

 

[アドルフ・ノーザン『ナポレオンのモスクワからの退却』]

王を失ったフランスで『ナポレオン・ボナパルト』のエネルギーが大爆発!イギリスの代わりに世界を獲るか?

 

つまり、単純に『寒いと人は動けない』。『賤ヶ岳の戦い』は1583年の4月。つまり、厳冬の季節である12~3月というのは、越前(福井県)は特に冷え込むわけだ。そこを狙って、勝家が動けない時期に、先に彼の部下や、彼周りの人間を討ち破り、敵の数を減らし、優位な状況を作っていったのである。

 

 

勝家は、後方にあった前田利家が戦線を離脱したことで、北の症城にに撤退し、天守閣に登ってそこで自害した。信長の三男、信孝も、自害した。

 

[『賤ヶ嶽大合戦の図』 (歌川豊宣画)]

 

  1. 明智光秀の突発的な行動
  2. 明智光秀のあっけない死
  3. 秀吉の迅速すぎる対応
  4. ライバル柴田勝家がいた場所
  5. 織田家をないがしろにした秀吉
  6. 用意周到で冷静な策士である秀吉

 

全く、これだから秀吉はいろいろな疑いをかけられるのだ。逆に、もし秀吉がすべて臨機応変に行動していたのなら、彼は相当な強運の持ち主であり、それと同時に信長同様、天下統一を成し遂げるだけの天賦の才を持っていたと言わざるを得ないだろう。

 

まさに策士で、敵なしの秀吉。何もかも結果的には自分の思い通りの結果にするという彼には、もはや敵などいないように思えた。しかし、そんな秀吉が警戒していた男がいる。それが、徳川家康である。秀吉は、信長が安土城を築いて本拠地としたように、大阪に大阪城を築き、そこを本拠地として家康らと激突することになった。

 

勝家には信長の三男、信孝がいたが、家康には次男の信雄(のぶかつ)がいて、秀吉を叩く必要があると、家康に申し出た。家康は信長の遺児を助けるという大義名分のもとに出兵を決意。秀吉は『小牧・長久手の戦い』で家康と信長の子、信雄の連合軍と戦うが、半年も戦って引き分け。

 

[長久手古戦場]


参考
小牧・長久手の戦いwikipedia

 

秀吉は、家康との戦いで、

 

軍事的な統一は非常に長い時間がかかるな…

 

と考え、そこから朝廷の権威を利用して、全国の大名に停戦を命じ、従わないものを討伐するというスタイルを取った。朝廷より関白に任ぜられた秀吉は、四国に行って長宗我部元親を討ち、四国を平定。そしてついに朝廷の最高職である『太政大臣』に任ぜられる。そして越中の佐々成政(さっさなりまさ)を臣従させる。

 

問題は家康だ。なんとしても家康を従わせたい秀吉は、他家に嫁いでいた妹の朝日姫(あさひひめ)を離縁させ、家康の正室として差し出す。更に、母親の大政所(おおまんどころ)まで人質として送ってきたため、1584年についに秀吉に臣従。秀吉はこれでようやく天下統一に向けて大きく前進できるとし、1587年に島津氏を攻め、九州を平定。

 

[左:大政所 右:朝日姫]

 

無鳥島の蝙蝠(コウモリ)は誰だ?四国の長宗我部元親、中国の毛利元就、『九州三強』龍造寺隆信、島津義久

 

そして、1590年には小田原の北条氏、そして伊達氏ら奥州諸氏も支配し、とうとう全国を平定。豊臣秀吉は、天下統一を成し遂げたのである。

 

奥州の覇者『独眼竜』伊達政宗にあった武士道精神と、越後の龍『軍神』上杉謙信に足りなかったもの

 

先ほどの秀吉の母、大政所は『なか』という名で生まれたが秀吉が関白になるとなかは、『大政所』の敬称を得る。これは、関白の母に対する敬称だった。また、秀吉の妻には『ねね』、『お寧』とよばれる女性がいて、秀吉を精神的に支えた。秀吉には数多くの側室がいたが、彼女らに対する書状などからは、軍事や政治といった重要な話は見つかっていないが、このねねにだけはすべてを話していたという。

 

  1. 大政所
  2. 朝日姫
  3. ねね

 

秀吉が天下統一を成し遂げる裏では、こうした重要な仕事を成し遂げる女性たちの姿があったことも忘れてはならない。

 

[ねね(高台院)『絹本着色高台院像』(高台寺所蔵)]

 

 

戦国時代の中心人物

北条早雲 関東 1432~1519年
北条氏康 関東(相模国) 1515~1571年
織田信長 東海(尾張国) 1534~1582年
佐竹義重 関東(常陸国) 1547~1612年
武田信玄 甲信越(甲斐) 1521~1573年
上杉謙信 甲信越(越後) 1530~1578年
浅井長政 畿内(近江国) 1545~1573年
三好長慶 畿内(阿波国) 1522~1564年
毛利元就 中国(安芸) 1497~1571年
大友宗麟 九州(豊後国) 1530~1587年
龍造寺隆信 九州(肥前国) 1529~1584年
豊臣秀吉 東海(尾張国) 1537~1598年
徳川家康 東海(三河国) 1542~1616年
長宗我部元親 四国(土佐国) 1538~1599年
島津義久 九州(薩摩国) 1533~1611年
伊達政宗 奥州(出羽国) 1567~1636年

 

[元亀元年頃の戦国大名版図(推定)]

 

 

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