『秀吉の盛衰』
明智光秀はなぜ『本能寺の変』で信長を討ち、その直後に秀吉に殺されているのか?事件の真相とはいかに
上記の記事の続きだ。織田信長がやったことは冒頭の記事に書いたが、秀吉は何をしただろうか。まとめてみよう。
豊臣秀吉がやったこと
- 太閤検地(たいこうけんち)
- 大阪・京・博多などの都市整備
- 刀狩り・人払い令
- 兵農分離
- 金・銀貨の鋳造
- バテレン追放令(キリスト教宣教師の追放)
- 京都大改造
- 朝鮮出兵
まず太閤検地だが、それまでの『指出検地』と違い、土地の生産力を米の収穫量で示した『石高(こくだか)』で統一する『石高制』を用いた。それまでは、土地の生産力をお金に換算した『貫高(かんだか)制』を採用していたが、これによって例えば『1万石の大名』などという言われ方がされるようになり、『彼の領地では~の米がとれる』という話になったわけだ。
田畑の面積、収量の調査をするため領主が農民の田畑を調査すること。
検地帳に記載される土地の持ち主は、耕作する農民一人に限られる『一地一作人の原則』を適用し、平安中期以降から続いた『荘園制』に基づく複雑な土地の所有関係の整理をした。
つまり太閤検地は、土地の所有者ではなく、耕作者を調査し、耕作者に課税したのだ。これにより、土地に対して重層的にあった中世的な中間権利である様々な職が否定され、耕作者は直接領主に納税することとなり、農村にいた中間搾取者としての武士はほぼ一掃されることとなった。
土地制度の変遷と寄進地系荘園
土地制度や班田収授、納税に関する話は下記の記事にまとめてあるが、
例えば藤原氏で言うなら、この土地を国司の徴収から守り、土地の支配自体は農民が行うという、何かの組織や企業の『バック』のような、そういう存在になったわけだ。その『みかじめ料』のような収入源を得た藤原氏は、この寄進地系荘園によって財源を確保。そして、強力なバックがついた農民も力を得る。そして、国司から荘園を守るために武装をはじめ、武装集団が結成される。
武装集団が結成された理由
- 国司から荘園を守るため
- 逃亡した農民が盗賊になったため
- 朝廷が管理しきれなくなったため
こうしてこの土地を巡って武装集団が出てきて、そこから『武士』という存在が生まれたわけだ。それが、『源平合戦』に繋がり、源頼朝の『鎌倉幕府』に繋がり、この国に幕府という軍事・警察を行う朝廷とは違う権力が誕生した。
さらば京都!貴族の代わりに武士(武家)が国を作る『鎌倉幕府』が日本史を大きく動かした!
とにかく秀吉がこの太閤検地でやったのは、
- 安定した税収の確保
- 領主の中間搾取の排除
だ。『誰がどれだけ生産しているか』がハッキリすれば、『誰からどれだけ税を徴収すればいい』ことも分かる。それによって間に入って取り分を引き抜いていた『代理店・用心棒』的な立場にいた連中を排除することができ、安定した税収の確保と、そうした連中が力を蓄え、脅威となることを予防することができるわけだ。
そして刀狩り令を出して、百姓の武器を没収した。これも今の流れで考えれば分かるように『驚異の排除』だ。今まで、寄進地系荘園から財力を得て力をつけた藤原氏や、武士として武装して成り上がり、ついには鎌倉幕府なる新しい権力をも作り上げてしまった平氏や源氏たちのように、この国で驚異的な力を持った人々の動きを考えたとき、
そもそも彼らが力を蓄える前に根絶やしにすればいい
という考えが浮かぶわけだ。すると単純に、
- 収入源を奪う
- 武器を奪う
という対策を取るのが手っ取り早い。室町時代に、農民が武士化し、土着の武士(国人)として支配階層に抵抗し、国家の脅威となった。そもそも戦国時代とは、国家の秩序を維持する能力を失った幕府の正体が露見した『応仁の乱(1467年)』で、実力で領地を獲得する戦国大名が活躍する時代だった。それは、上の階層で甘んじる猛者たちが目を離した隙に鼓舞され肥大化した、人間に本来眠っているはずの一大エネルギー(猛獣)が巻き起こした時代だった。
妻・日野富子がいなければ義政の政治放棄も『応仁の乱』もなかった?水面下で動いた猛者と『猛獣』とは
守護代
国人
百姓
そうして始まった戦国時代。織田信長が天下統一の基礎を作り、そしてこの豊臣秀吉でそれを実現させたわけだが、また同じような時代が来ても困るので、対策を打つ必要がある。その一つがこの、農民の武士化を防止する刀狩りによる『兵農分離』というわけである。更に言うなら、
- 私的な武力行使を制御することを目的とした喧嘩停止令
- 海賊行為に対しても海賊停止令
も発布している。こうして国内における私的な武力抗争を抑制し、『前始末』を徹底したのである。
また、1591年に豊臣政権は『人払い令(人掃令)』を発令したとされている。これは、武家奉公人が商人や百姓になることや、百姓が商人・職人になることを禁じた法令で、身分制確立の画期とされてきた。この法令は、朝鮮出兵の体制を固めるための時限立法という説が考えられてきたが、まだ詳しいことは分かっていないという。ただ、その他の分かっていることと照らし合わせながら考えると、この法令も同じように、結果的には『国を統一しやすくするため』にした対策だっただろう。
大阪・京・博多などの都市整備のメリットは、収入源の確保だ。秀吉の財政基盤は太閤検地による税収の確保だけではなく、『蔵入地(くらいりち)』と呼ばれる広大な直轄領や、こうした主要都市からの税収、そして鉱山収入などだった。これらの政策のほとんどは信長の施策を大規模な形で実施したものであり、秀吉は信長の構想を具現化したのである。
この時代の世界の貿易通貨は『銀』だった。下記の記事に書いたように、スペイン・ポルトガルの『大航海時代』を契機に世界が一体化し、世界各地で流通が盛んになった。スペインがアメリカ大陸で採掘した銀や、日本からもたらされた金銀が大量にヨーロッパに流入し、大幅な物価上昇へとつながった。日本は戦国時代から江戸時代初期までの間、世界でも有数の銀産出国だったのだ。
下記の写真は私が20代の時に撮った世界遺産『石見銀山遺跡とその文化的景観』にある銀山の洞窟である。
[石見銀山遺跡 龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ) 筆者撮影]
島根県石見にあるこの銀山の年間最大産出量は38トンを誇った。当時、世界の年間銀産出量は600トンほどで、うち200トンは日本産だったほどである。スペインやポルトガルはマニラに拠点を置いていたので、アジアでの貿易にも強かった。
このような『中継貿易』によって両国は莫大な富を得た。そしてこれらの国と貿易をすることを『南蛮貿易』といった。当時、銀は国際貨幣として広まっていたので、大きな価値を持っていた。そして下記の記事に書いたようなイギリス、インド、中国の『三角貿易』、そして『アヘン戦争』につながるのである。
イギリスは一度インドへ自国の製品を輸出し、インド産のアヘンを清へ輸出。そしてインドを経由して支払いに使った銀を回収するというする三角貿易によって利益を上げる。
[ゴールドラッシュ初期にカリフォルニアに向かう船]
アヘン戦争の原因はお茶の値段を吊り上げた『清』、野心の塊だった『イギリス』のどっちにあるか
良くか悪くか、世界の形を大きく変えたスペイン・ポルトガルの『大航海時代』の幕開け
バテレン追放令だが、信長がキリスト教を保護していたため、秀吉も最初はそうしていたのだが、キリシタン大名の大村純忠(すみただ)が長崎の地を教会に寄付していたことがわかり、
キリシタンになるとこっちが想定しない動きをするか…
として、そこに『洗脳』的なリスクを覚え、大名が無断でキリスト教徒になることを禁止し、そのバテレン追放令で、キリスト教宣教師を追放した。南蛮貿易には、
- 時計
- ビロード
- 眼鏡
- ワイン
といった珍奇な品々がイメージされるが、実はこれらはキリスト教の布教をするために大名に持ってきた『お土産』に等しく、その根幹にあったのは『キリスト教の布教』で、この問題が『不測の事態』を招く種となることを危惧した秀吉は、種のうちにそれを刈り取ろうとした可能性がある。
京都というのは天皇・公家を中心とする政治都市で、室町幕府以降、この地は武家、商人、酒屋、職人等といた様々な人々が密集して住み、豊かな場所となった。しかし、応仁の乱であたりは焼亡。それを復興する必要があった。それを担ったのが、金融業などを営む富裕な町衆。そして秀吉はこの復興の際に、各寺院を強制的に移転させ、公家、大名屋敷、町屋、寺町を明確に分けた。それも、身分制度を可視化する目的のためだったという。
かつて、シルクロードを通して東大寺正倉院には、様々な宝物が揃った『天平文化』があった。奈良時代は飛鳥時代の主流だった金属製の金銅仏に代わり、加工しやすい粘土製の仏像製作が盛んになった。
追い詰められた聖武天皇が上を見上げると、そこにはブッダの教えがあった。鎮護国家の誕生
足利義満の時代は別宅『北山殿(きたやまどの)』にちなんで『北山文化』と言われ、『金閣寺』などが建てられ、大陸文化の『水墨画』や『文学』も発達し、観阿弥・世阿弥(かんあみ・ぜあみ)父子が活躍する『猿楽』の全盛だった。
そして足利義満が作った北山文化は、義政の時代に『東山文化』として成熟した。義政が引退したあと、東山に山荘を建てたので、そう呼ばれるようになった。『銀閣寺』が作られ、天才庭師、善阿弥(ぜんあみ)が活躍した。
『史上最低の将軍』八代将軍足利義政は、ある分野では足利一族で最も多大な貢献をした人物でもあった!
そして織田・豊臣の『安土桃山時代』から、次の『江戸時代』の初期にかけてあったのは『桃山文化』だ。
- 統一政権の樹立
- 豪商の台頭
- 西欧との交流
を背景とした、『華麗で壮大な様式』である。かつて、運慶・快慶の『金剛力士像』が作られた鎌倉時代にあったのは、『素朴で豪壮な美しさ』だったが、その背景にあったのは中国の『宋』から移入した『大仏様(だいぶつよう)』と呼ばれる技術と、当時台頭していた武士たちの生きざまが、そこに影響を及ぼしていた。
追い詰められた聖武天皇が上を見上げると、そこにはブッダの教えがあった。鎮護国家の誕生
[秀吉着用と伝わる陣羽織(高台寺蔵)]
この桃山文化は、なんといっても『織田・豊臣』という圧倒的権威の象徴であるべきとされ、姫路城や松本城のような華麗な天守が築かれ、内部には障壁画も盛んに描かれ金箔地に青や緑の絵の具を厚く彩色して力強さを出した『濃絵(だみえ)』の技法が発達。東山文化で芽生えた狩野派は、ここで最盛期を迎える。
[狩野永徳『唐獅子図屏風』(宮内庁三の丸尚蔵館)]
[濃絵の特徴をよく示す狩野永徳の『檜図屏風』(東京国立博物館)]
[狩野永徳『洛中洛外図屏風』左隻(上杉博物館)]
[狩野長信『花下遊楽図屏風』左隻(東京国立博物館)]
[『阿国歌舞伎屏風図』(京都国立博物館)]
また、南蛮貿易が活発化したことにより、ヨーロッパの風俗を描いた南蛮屏風が盛んに描かれ、活版印刷術によるローマ字書籍の出版も行われた。この活版印刷技術が日本に伝来したのは、キリシタン大名とその遣欧使節のおかげだった。
- 大友宗麟
- 有馬晴信
- 大村純忠
といったキリシタン大名は、
- 伊藤マンショ
- 千々和ミゲル
- 中浦ジュリアン
- 原マルチノ
といったまだ10代半ばの4人を遣欧使節としてローマに送り、教皇グレゴリウス13世に会い、ローマ市民から大歓迎を受けた。彼らはそこでキリスト教について学び、活版印刷機などを持ち帰る。これが、日本人が初めて渡欧した歴史的な瞬間だった。彼らはラテン語を習得し、それを翻訳したり、あるいはキリシタン弾圧下の日本で信者を慰めたりして布教活動をしたりして様々な余生を過ごした。
[出雲阿国]
また、歌舞伎の元となる『歌舞伎踊り』が行われたのもこの時期だ。出雲阿国(いずもの おくに)という女性芸能者が、ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎が出来上がったとされる。彼女は1572年生まれで、伊達政宗の5歳下。ちょうどこの時期に活躍した女性なのである。琉球の三線を改良して作った『三味線』で語る浄瑠璃も人気を博した。
[浄瑠璃『本朝廿四孝』の八重垣姫。上杉謙信の娘、武田勝頼の許婚として登場する。画/橋本周延(1838年 – 1912年)]
また、信長、秀吉のそばには千利休という堺の豪商、茶人がいたことも有名だ。茶の湯は当時の戦乱の世を生きる武将や商人にとって一時の安息の時間であり、情報交換の場という重要な時間を提供した。彼は大徳寺山門の上に自分の木像を置き、それで秀吉が激怒して自害することを命じられたという話があるが、それ以外にもいくつか逸話がある。
- 大徳寺山門の上に木像を安置した
- 茶器の売買に不正があった
- 実はキリシタンだった
- 石田三成ら奉行衆の陰謀
- 黄金趣味の秀吉との美意識の違い
実はよく言われる最初の二つは信憑性が低いという反論が上がっていて、いまだに秀吉が離宮に切腹させた理由は謎だという。
[千利休]
こうして日本を統一した秀吉は、
- ポルトガルの拠点だったインドのゴア
- スペインの拠点だったフィリピンのマニラ
などに貢物を送り、服属するよう求め、海外進出の野望を抱き始めた。また、台湾や琉球王国にも服属を求めた。
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そして朝鮮にも服属を要求し、それが拒否されると2度にわたる『朝鮮出兵』を行った。豊臣秀吉は、なぜ朝鮮半島に大軍を送ったのか。それは彼が日本で天下統一を成し遂げ、さらなる領土拡大のために、『明朝』の征服をしようとしたからだ。
[『朝鮮征伐大評定ノ図』(月岡芳年作)新撰太閤記の一場面]
また、
- スペインの侵略を防ぐために先手を打った
- インドを征服する『唐・天竺征服論』
という説もあった。
チンギス一家を滅亡に追い込んだ『明』の初代皇帝『朱元璋』にはなぜ2つの肖像画があるのか?
1597年、朝鮮王朝に道案内を要請した秀吉は、これを拒絶されると朝鮮を征服しようと『文禄・慶長の役』を起こす。日本軍は、接舷しての切込み戦法を中心としていたが、李氏朝鮮は優れた戦術でもってこれを撃退。これを指揮した『李舜臣(日本語読み:り しゅんしん、朝鮮語読み:イ・スンシン)』は、歴史に不朽の名声を残した。
天下統一をしたのが1590年。秀吉が死んだのが1598年。秀吉の最後の8年は、あまり称賛するに値しないものだったという。この朝鮮出兵は『秀吉最大の愚行』とも言われ、甥で養子の秀次を側室も含めた妻子39名とともに処刑するなど、残忍な行動を取るようになってしまっていた。
もし彼が単純に『多大なる権力を持ち、うぬぼれ、得意になり、傲慢と化した』のであれば、彼はこの世界の至る所に存在する『転落の相場』通りに転落した凡人と同じ、人間だったということである。秀吉は、62歳で生涯を終えた。
『人間が転落するタイミングは決まっている。「得意時代」だ。』
[『太平記英勇伝五十一:加藤主計頭清正(落合芳幾作)』 ]
[『太平記英雄傳小西摂津守行長(落合芳幾作)』]
加藤清正と小西行長が先陣を切り、相手を混乱させた。
もし秀吉がもう少し若く、
- 琉球王国
- 台湾
- フィリピン
- インド
- 李氏朝鮮
- 明
といった近隣諸国をすべて制圧していれば、当時『太陽の沈まぬ国』と言われた世界の覇者、スペインと本気でやり合ったかもしれない。また、下記の表にあるような戦国時代のフルメンバー全員が、世界制覇という一つの目標に向かって力を合わせたならと、世界の歴史は大きく変わっていたかもしれない。
もっともその場合は、『核を落とされる国』ではなく『落とす国』側に回り、それはそれでまた違う問題を抱えることになるのだが。さて、この時代のスペインは、
- オランダ独立戦争(1568年-1648年)
- アルマダの海戦(1588年)
- 新大陸の銀産出の減少
という大きな3つの条件が重なり、どのみち斜陽を迎えることになった。
ヨーロッパの覇権の推移
『太陽の沈まぬ帝国』スペインが沈んだ理由は?フェリペ2世VS『世界一有名な女王』とその裏にいた重要人物
世界は世界で動いていた。そして、日本は日本で次の時代に動き出した。2度目の朝鮮出兵のとき、秀吉は
- 五奉行
- 五大老
の制度を作り、有力大名たちに重要な政策を合議させ、腹心たちに政務を分担させる協力体制を作ったのだが、秀吉が亡くなると、まだ5歳だっが秀吉の子、秀頼から、五大老の筆頭、250万石を有する最大の大名、徳川家康に権力が移り、ここから家康の時代が始まるのである。
戦国時代の中心人物
北条早雲 | 関東 | 1432~1519年 |
北条氏康 | 関東(相模国) | 1515~1571年 |
織田信長 | 東海(尾張国) | 1534~1582年 |
佐竹義重 | 関東(常陸国) | 1547~1612年 |
武田信玄 | 甲信越(甲斐) | 1521~1573年 |
上杉謙信 | 甲信越(越後) | 1530~1578年 |
浅井長政 | 畿内(近江国) | 1545~1573年 |
三好長慶 | 畿内(阿波国) | 1522~1564年 |
毛利元就 | 中国(安芸) | 1497~1571年 |
大友宗麟 | 九州(豊後国) | 1530~1587年 |
龍造寺隆信 | 九州(肥前国) | 1529~1584年 |
豊臣秀吉 | 東海(尾張国) | 1537~1598年 |
徳川家康 | 東海(三河国) | 1542~1616年 |
長宗我部元親 | 四国(土佐国) | 1538~1599年 |
島津義久 | 九州(薩摩国) | 1533~1611年 |
伊達政宗 | 奥州(出羽国) | 1567~1636年 |
[元亀元年頃の戦国大名版図(推定)]
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