『武断派と文官派の対立』
上記の記事の続きだ。秀吉は
の制度を作り、有力大名たちに重要な政策を合議させ、腹心たちに政務を分担させる協力体制を作ったのだが、秀吉が亡くなると、まだ5歳だっが秀吉の子、秀頼から、五大老の筆頭、250万石を有する最大の大名、徳川家康に権力が移り、ここから家康の時代が始まる。
徳川家康は、信長の8個下、秀吉の5個下だ。しかし、彼らは最下部の表にある通り、上杉謙信、武田信玄、伊達政宗といった猛者たちと同時代を生きた。しかし、最初は彼もそう目立つ存在ではなく、駿河の今川氏と終わりの織田氏に挟まれた弱小勢力、三河の小大名だった。
[『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)]
今川氏が滅亡した後は、信長と同盟を組み、彼と一緒に成長をしてきた。どちらかというと秀吉ではなく信長と関係があった家康は、信長が死んだ後、独自の勢力拡大路線をとって甲信越に勢力をつくり、甲斐の虎、武田信玄のいた武田氏の領地である甲斐、信濃を勢力圏に置いた。
冒頭の記事にも書いたように、策士で、敵なしの秀吉。何もかも結果的には自分の思い通りの結果にするという彼には、もはや敵などいないように思えた。しかし、そんな秀吉が警戒していた男がいる。それが、徳川家康である。
信長の部下のもう一人の猛将、柴田勝家には信長の三男、信孝がいたが、家康には次男の信雄(のぶかつ)がいて、秀吉を叩く必要があると、家康に申し出た。家康は信長の遺児を助けるという大義名分のもとに出兵を決意。秀吉は『小牧・長久手の戦い』で家康と信長の子、信雄の連合軍と戦うが、半年も戦って引き分け。
秀吉が明智光秀を討ったときはわずか『2時間』だったというのに、これだけの長期戦に持ち込んだ家康の粘り強さは、とてつもないものである。秀吉は、この徳川家康だけはどうしても懐柔する必要があると判断し、その後も記事にあるような流れで、何とかして家康を自分の臣従させた。
うまく扱って、自分の思う通りに従わせること
)臣下として主君につき従うこと
ではここでその五大老と五奉行について見てみよう。
五大老
家康・秀家・景勝・利家・輝元・隆景(連署順)の六人は、「御掟・御掟追加」の連署に名を連ね、他の大名とは異なる処遇を認められてもいた。隆景が欠けたのち、秀吉の遺命によって「五大老」(秀吉の遺書の明文では「五人の衆」)とされたのは、家康・利家・秀家・景勝・輝元の五人であり、利家の死後は家康・秀家・景勝・輝元・利長の五人が「五大老」である。
[紙本著色 前田利家像 個人蔵]
五奉行
実は、この太文字にした、
の4人には意味がある。これからする話の重要人物となっていくのである。家康は結果的に『秀吉最大の愚行』と言われることになってしまった1590年代の朝鮮出兵の時、奥州の防衛と関東の経営を口実に、朝鮮には行かなかった。普通、戦争というものは大きく体力を消耗するものである。ここでいう体力とは心身の疲労のことだけではなく、リソース(ヒト、モノ、カネ)でもある。つまり家康はリソースの被害と消耗を抑えていたのだ。それだけではなく、朝鮮出兵に不満があった大名たちを次々と取り込み、着実に自分の力を蓄えていった。
しかし、五大老で大きく年が離れたメンバーはともかく、年上でもある前田利家と小早川隆景だけは家康の脅威となる存在だった。特に利家は豊臣家と徳川家の緩衝役となっていた人物で、重要人物。家康に対抗できる人間がいるとしたら、彼くらいのものだったのだ。つまり、利家がいるかぎり、家康の思い通りにはいかない。家康にとっては色々と目の上のたん瘤だったのだ。
[小早川隆景像(広島県・米山寺蔵)]
だが、その年上二人が、なんと秀吉と共に亡くなってしまったのだ。隆景→秀吉→利家という順番で亡くなった。この重要人物たちの死はもちろん大きなダメージを与えたが、次の政権を狙う者にとっては好都合だった。更にそこにあったのは豊臣政権内の対立だ。
の間で対立が起こっていた。前者は自ら戦い、命を懸けて功なり名を挙げた自負があるが、後者の方が重用され、そこに不満が沸き起こり、後者も譲らなかった。
こういうことが起きてしまったのは、残念ながらトップである秀吉に落ち度があると言えるだろう。秀吉の晩年は甥で養子の秀次を側室も含めた妻子39名とともに処刑するなど、残忍な行動を取るようになってしまっていたし、それはあり得る。あるいは、その秀吉が亡くなった後に、正当な判断をする人がいなくなったということもあり得る。
詳しくは下記の記事に書いたが、古代中国の大帝国、『漢』の高祖となった劉邦の天下取りを助けた三羽ガラスは、
である。彼らの職務を現代風にいえば、張良はさしずめ企画室長で、韓信は営業部長、蕭何は総務部長であろう。劉邦は皇帝の位について、論功行賞を行ったとき、『最高の功績は蕭何にあり』とした。これにたいして功臣たちは一斉に不満を表明した。まさに今回のケースと同じようなことが、はるか昔の中国『漢』においても起こっていたのである。
しかしこの時トップにいた劉邦は、軍師でも武将でもない、蕭何(しょうか)に武功を見たのである。
しかし、その采配はその場にいるすべての者が納得するものだった。確かに、一番功績を挙げたのは裏で目立たなかった蕭何で、劉邦は、その時誰が一番活躍したか、誰が一番重要な立ち回りをしたのかをよく見極め、公明正大なジャッジを下したのだ。
この公明正大なジャッジが行われないとどうなるか。それが今回の秀吉政権内で見ることができるわけだ。石田三成は戦場の功こそないが、太閤検地を断行するなど、秀吉の天下統一のためには欠かせない智将であった。
といったことを行い、まさにここでいう張良と蕭何の役割を担う重要な立ち位置にいたのだ。秀吉の島津氏攻略、朝鮮出兵、そのどれもでこの石田三成が活躍していて、彼がいなければもっと状況は悪化していた。確かに、自分には『武』がなかった。だから島左近(しまさこん)を1万4000石という破格の待遇で取り込み、その弱点を補っていたのである。
[「太平記英雄伝廿五:品之左近朝行(島左近)」]
彼らはお互いの手柄だと主張し、自らの立場と出世欲に躍起になり、『仲間割れ』という本末転倒な失態を繰り広げてしまっていた。そして、その仲間割れが本末転倒であるということを理解していたのが劉邦だったのだ。彼は、この卓越した人格があったからこそ、ライバルであり、圧倒的な力を持った西楚の覇王『項羽(こうう)』に勝ち、中国を再統一することができたのである。
こういう話もある。項羽は、始皇帝を見かけたときこう言った。
しかし同じく始皇帝を見た劉邦はこう言った。
この違いがわからない人には、人の上に立つ資格はないかもしれない。そしてこの時の日本にいたのは、信長、秀吉の剛腕で、半ば力づくに統一された全国の猛者たち。それぞれに主体性と野心があり、心底ではいつでも下剋上を起こして自分が天下を取る算段をつけていた者が大勢いたのかもしれない。そもそもそうやってこの戦国時代は始まったのだから。
とにかくだ。この対立を利用したのが家康だ。家康は、武断派を手なずけ、石田三成を襲わせたのである。
[東京大学史料編纂所所蔵]
戦国時代の中心人物
北条早雲 | 関東 | 1432~1519年 |
北条氏康 | 関東(相模国) | 1515~1571年 |
織田信長 | 東海(尾張国) | 1534~1582年 |
佐竹義重 | 関東(常陸国) | 1547~1612年 |
武田信玄 | 甲信越(甲斐) | 1521~1573年 |
上杉謙信 | 甲信越(越後) | 1530~1578年 |
浅井長政 | 畿内(近江国) | 1545~1573年 |
三好長慶 | 畿内(阿波国) | 1522~1564年 |
毛利元就 | 中国(安芸) | 1497~1571年 |
大友宗麟 | 九州(豊後国) | 1530~1587年 |
龍造寺隆信 | 九州(肥前国) | 1529~1584年 |
豊臣秀吉 | 東海(尾張国) | 1537~1598年 |
徳川家康 | 東海(三河国) | 1542~1616年 |
長宗我部元親 | 四国(土佐国) | 1538~1599年 |
島津義久 | 九州(薩摩国) | 1533~1611年 |
伊達政宗 | 奥州(出羽国) | 1567~1636年 |
[元亀元年頃の戦国大名版図(推定)]
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