『関ヶ原の戦い』
上記の記事の続きだ。家康側(東軍)には秀吉がその潜在能力を高く評価した黒田官兵衛と、その息子の黒田長政がいた。しかし、西軍にはその官兵衛が認めるとてつもない賢人の血筋があった。それは、この関ヶ原の戦いでキーマンになった人物。小早川秀秋だ。そして彼は小早川隆景の養子だった。隆景は官兵衛も認める実力者だった。あるひ官兵衛は小早川に言った。
小早川は言った。
官兵衛は隆景の訃報を聞いたとき、
と言ったという。この小早川隆景という男はそれだけの人物だったのだ。つまりあの『鬼才』織田信長が成し遂げられなかった天下統一を成し遂げた『策士』豊臣秀吉に、
と言わせた黒田官兵衛に認められた天才中の天才だったのだ。では、その養子の秀秋はどちら側についたのだろうか。彼は最初、西軍だった。しかし途中で東軍になったのだ。先ほども出たように、黒田長政らが裏で画策し、東軍内通の工作をし、根回しをしていた。
[『小早川隆景彦山ノ天狗問答之図』(月岡芳年『新形三十六怪撰』)
手前は天狗で、奥にいるのが隆景]
この秀秋の裏切りがなければどうなっていたかは分からない。最初、西軍は優勢だったのだ。しかし10時ごろ、三成は秀秋と毛利秀元に攻撃ののろしを上げるが、両陣は動かない。12時ごろ、家康が小早川に発砲すると、小早川は裏切りを決行する。その後形勢は逆転し、島津義弘隊や、毛利隊も撤退し、関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わった。
このあたりの詳細には諸説がある。
2番は私が参考書から思い浮かべた一つのシナリオだ。先ほど違う参考書から『長政が秀秋の囲い込みに動いていた』と書いているわけだから、単純に違う参考書に書いてあったこの鉄砲を『合図』だと連想した。しかし実際にはそうではなく、その鉄砲で恐怖したという説があるらしいが、まあとにかくこうしてキーマンの秀秋が寝返ったことが東軍勝利の原因となったのである。
(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名、▲は布陣のみに終った大名)
武将 | 石高(万石) | 兵力 | 武将 | 石高(万石) | 兵力 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
西軍 | 毛利輝元 | 112.0 | - | 東軍 | 徳川家康 ○ | 256.0 | 約30,000 |
毛利秀元 ▲ | (20.0) | 約16,000 | 松平忠吉 ○ | (10.0) | 3,000 | ||
吉川広家 ● | (14.2) | - | 井伊直政 ○ | (12.0) | 3,600 | ||
大友義統 | - | - | 本多忠勝 ○ | (10.0) | 500 | ||
上杉景勝 | 120.0 | - | 前田利長 | 84.0 | - | ||
島津義弘 ○ | 73.0 | 約 1,700 | 伊達政宗 | 58.0 | - | ||
宇喜多秀家 ○ | 57.0 | 17,220 | 堀秀治 | 45.0 | - | ||
佐竹義宣 | 54.0 | - | 最上義光 | 24.0 | - | ||
小早川秀秋 ● | 37.0 | 15,675 | 福島正則 ○ | 24.0 | 6,000 | ||
長宗我部盛親 ▲ | 22.0 | 6,660 | 加藤清正 | 20.0 | - | ||
小西行長 ○ | 20.0 | 6,000 | 筒井定次 ○ | 20.0 | 2,850 | ||
増田長盛 | 20.0 | - | 細川忠興 ○ | 18.0 | 5,100 | ||
石田三成 ○ | 19.4 | 5,820 | 黒田長政 ○ | 18.0 | 5,400 | ||
織田秀信 | 13.5 | - | 蜂須賀至鎮 ○ | 17.7 | 不明 | ||
小川祐忠 ● | 7.0 | 2,100 | 浅野幸長 ○ | 16.0 | 6,510 | ||
安国寺恵瓊 ▲ | 6.0 | 1,800 | 池田輝政 ○ | 15.2 | 4,500 | ||
毛利勝信 ○ | 6.0 | 不明 | 生駒一正 ○ | 15.0 | 1,830 | ||
長束正家 ▲ | 5.0 | 1,500 | 中村一栄 | 14.5 | 4,350 | ||
大谷吉継 ○ | 5.0 | 1,500 | 藤堂高虎 ○ | 11.0 | 2,490 | ||
大谷吉治 ○ | - | 3,500 | 堀尾吉晴 | 10.0 | - | ||
木下頼継 ○ | 2.5 | 750 | 加藤嘉明 ○ | 10.0 | 3,000 | ||
田丸直昌 ○ | 4.0 | 不明 | 田中吉政 ○ | 10.0 | 3,000 | ||
真田昌幸 | 3.8 | - | 京極高知 ○ | 10.0 | 3,000 | ||
脇坂安治 ● | 3.3 | 990 | 京極高次 | 6.0 | - | ||
赤座直保 ● | 2.0 | 600 | 寺沢広高 ○ | 8.0 | 2,400 | ||
平塚為広 ○ | 1.2 | 360 | 山内一豊 ○ | 5.9 | 2,058 | ||
朽木元綱 ● | 1.0 | 600 | 金森長近 ○ | 3.9 | 1,140 | ||
戸田勝成 ○ | 1.0 | 300 | 有馬豊氏 ○ | 3.0 | 900 | ||
河尻秀長 ○ | 1.0 | 300 | 滝川一時 ○ | 1.4 | 不明 | ||
石川貞清 ○ | - | 360 | 織田長益 ○ | 0.2 | 450 | ||
織田信高 ○ | - | 不明 | 古田重勝 ○ | - | 1,020 | ||
毛利元康 | (-) | - | 徳川秀忠 | (-) | 約15,000 | ||
小早川秀包 | 13.0 | - | 榊原康政 | (10.0) | 3,000 | ||
立花宗茂 | 13.2 | - | 大久保忠隣 | (6.5) | - | ||
筑紫広門 | 1.8 | - | 酒井家次 | (3.7) | 900 |
この戦いは、2017年に岡田准一(石田三成)と役所広司(徳川家康)を軸にした映画『関ヶ原』で観ることができる。秀秋はまだ若く、青二才だったことがわかる。事実この時19歳。その後、21歳の時に謎の死を遂げ、小早川家は滅亡してしまった。
またこの戦いの裏には、三浦按針(みうらあんじん・ウィリアム・アダムス)というイギリス人がいた。キリスト教徒ではなかった彼とオランダ人の商人ヤン・ヨーステン(椰楊子(やようす))は、家康にその交易を認められ、彼らから、
等を伝授、あるいは購入し、これが関ヶ原の戦いで使用されて戦況が優位に傾いたともいわれている。彼らはオランダ・イギリスが作った『東インド会社』の人間だった。その時、イギリスにはあのエリザベス女王(在位:1558年 – 1603年)がいたのだ。
[エリザベス1世。彼女の治世に対する関心が最初に復活した1620年頃の作品。時間が彼女の右側で眠り、死が彼女の左肩越しから見ている。2人のプットが彼女の頭上の王冠を支えている。]
しかしこうして東軍は勝ち、西軍は負けた。西軍の大名たちはその領地を大幅に削減され、東軍の大名たちは逆に大きく領地を拡大することになった。
人物 | 戦前の領地 | 戦後の領地 |
徳川家康 | 256万石 | 450万石 |
前田利長 | 81万石 | 120万石 |
黒田長政 | 12万石 | 52万石 |
加藤清正 | 24万石 | 52万石 |
福島正則 | 24万石 | 73.8万石 |
上杉景勝 | 120万石 | 30万石 |
毛利輝元 | 101万石 | 29.8万石 |
宇喜多秀家 | 57万石 | 没収 |
では、西軍の大将、石田三成はどうなったか。市中引き回しの上、六条河原で処刑されてしまったのである。しかし、斬首の間際になっても態度を変えず、東軍に対して罵声を浴びせ、最期まで自分の信念と、秀吉への忠誠心を貫き通したという。
この関ヶ原の戦いは、『天下分け目の戦い』として、この後に家康が秀吉に代わって天下統一の指揮を執る立場になる、というイメージがある。しかしそれは結果論で、流れを見て分かるように、この戦の段階ではまだ家康は、三成を倒したかっただけだった。三成としても、家康を潰したく、そういう権力争いがこの戦いに発展したのだ。しかしこの戦いは結果として、日本史上最大の会戦となり、動員兵力18万人、戦死者は8000人といわれている。
[関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)
関ケ原町歴史民俗資料館]
だが、確かに家康は、そのすぐ後に目を向けなければならない問題があった。それが『秀吉一族』である。秀吉の子秀頼と、秀吉の妻(側室)『淀殿(よどどの)』だ。淀殿は本名を『茶々(ちゃちゃ)』といい、日本史上、時の権力者から城をもらった唯一の女性である。
彼女の母は、信長の妹、お市の方だ。そして父は、浅井長政。そして秀吉の側室で鶴松、秀頼という子を産み、豊臣家の重要人物となった。しかし彼女は秀吉に二度も家を潰されている。父、長政は自害し、兄も処刑された。そして、母が柴田勝家に嫁いだ後、『賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い』で秀吉に敗れ、母と養父は自害した。
そんな波乱万丈の人生を生きた淀殿は、正室だった『ねね』を追いやり、石田三成ら文官派を側近にし、豊臣家の主権者となった。しかしそれが災いとなり、ねねを慕っていた加藤清正、福島正則といった武断派の有力武将を敵に回してしまったのだ。
後はここさえどうにかすれば、この国は自分のものになる。
そう考えた家康は、かつての秀吉同様、朝廷の権威を借り、征夷大将軍となって江戸に幕府を開き、武門の正当な棟梁となった。これにより主従関係が逆転し、家康はついに豊臣家を従える立場になったのだ。それが1603年、家康が62歳の時である。それは、秀吉が死んだ年齢でもあった。1590年頃から家康は江戸に入り、基礎を作っていた。その時はまだ物資を中継する港町で、閑散としていたというが、時間をかけ、城下町を再建・拡充し、
といった地形を大改編するほどの大規模な工事を行い、この江戸の地を自分のものにした。そしてこの江戸幕府は、大政奉還が行われた1867年まで、およそ270年間続き、奇しくも室町幕府を築いた足利一族と同じ、15代将軍の時代に終わりを告げるまで繁栄することになる。
[徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)]
しかし、家康はわずか2年で征夷大将軍の座を降り、息子の徳川秀忠に譲り、自身は駿府城に隠居し、『大御所』の座となった。徳川秀忠。徳川家二代将軍となったこの男は、関ヶ原の戦いでは思い通りにはいかなかった。3万8000という大軍を率いて主戦力となり、西軍を打ち崩す予定だった彼は、『ある人物』とその部隊わずか2000人によって足止めされてしまっていたのだ(次の記事にて)。
家康はこのことに後で激怒し、秀忠も言い訳をしなかった。いよいよ切腹する時期が近づいていた時、徳川四天王の一人、榊原康政が、
と主張。家康は秀忠に可能性を見た。
徳川家康・四天王
しかし、そうはいっても家康は、なぜ、若い頃から苦労を重ねてようやく手に入れたその職を、たったの2年で手放したのか。それは、豊臣家対策だった。彼らは、
家康が死ねばまた政権は豊臣家に戻る
と考えていたのだ。しかし、若い秀忠にその座を譲ることで、そんな方向に行くことはあり得ないことを主張したのである。こうして豊臣家の脅威を根っこから根絶することを考えた家康は、その他にも彼らの莫大な資産を寺社建立などで消耗させながら、彼らの淡い期待を打ち崩していった。
[『伝淀殿画像』(奈良県立美術館所蔵)]
戦国時代の中心人物
北条早雲 | 関東 | 1432~1519年 |
北条氏康 | 関東(相模国) | 1515~1571年 |
織田信長 | 東海(尾張国) | 1534~1582年 |
佐竹義重 | 関東(常陸国) | 1547~1612年 |
武田信玄 | 甲信越(甲斐) | 1521~1573年 |
上杉謙信 | 甲信越(越後) | 1530~1578年 |
浅井長政 | 畿内(近江国) | 1545~1573年 |
三好長慶 | 畿内(阿波国) | 1522~1564年 |
毛利元就 | 中国(安芸) | 1497~1571年 |
大友宗麟 | 九州(豊後国) | 1530~1587年 |
龍造寺隆信 | 九州(肥前国) | 1529~1584年 |
豊臣秀吉 | 東海(尾張国) | 1537~1598年 |
徳川家康 | 東海(三河国) | 1542~1616年 |
長宗我部元親 | 四国(土佐国) | 1538~1599年 |
島津義久 | 九州(薩摩国) | 1533~1611年 |
伊達政宗 | 奥州(出羽国) | 1567~1636年 |
[元亀元年頃の戦国大名版図(推定)]
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