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豊臣秀頼が家康を危惧させ、徳川秀忠が四天王に心中を覚悟させる。だが、真田幸村はその秀忠を抑え、家康を追い詰めた!

『秀頼、秀忠の実力』

日本史上最大の会戦『関ヶ原の戦い』のカギは天才中の天才『小早川隆景』の息子が握っていた!

 

上記の記事の続きだ。『関ヶ原の戦い』で全国の脅威を討ち落としたのはいいが、家康にはまだ豊臣秀頼、淀殿という豊臣家の存在があった。1611年、19歳になった秀頼は家康と二条城で対面。その時、かつて『蝮の道三』と言われた斎藤道三が、若き織田信長を見てこう言ったように、

 

斎藤道三

…わしの息子どもは、いずれあのたわけに臣従することになるだろう。

 

家康もこの時の凛とした秀頼の立ち居振る舞いに、

 

これから徳川の世を盤石にせしめるにあたって大きな障害になる…

 

と危惧したという。家康が秀頼に臣従を求めてきても、これを拒否し、加藤清正らの必死の説得によって二条城での会見をしぶしぶ承知した。

 

[豊臣秀頼像(養源院蔵)]

[二条城の庭 筆者撮影]

 

ある時秀頼が再建した方広寺大仏殿の梵鐘の鐘名に『国家安康』、『君臣豊楽』とあったのを、

 

徳川家康

家康を二分し、豊臣の繁栄を祈るものである!

 

と言いがかりをつけ、『大坂の陣』を引き起こした。つまり、国。この字は、家康の文字が二つに分かれている。そして君臣豊楽については『豊臣を君として楽しむ』という暗号だと主張したのだ。

 

1614年11月、秀吉が築いた最大の資産、大阪城を包囲した家康は、堀を埋めて無効化し、3日かけて落城させる。そしてついに秀頼と淀殿は自害意志、豊臣家はここに滅亡した。戦国時代、戦乱の時代の終焉は『関ヶ原の戦い』がわかりやすくて派手だが、実際にはこの『大坂の陣(冬の陣・夏の陣)』だったのである。

 

[大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)右隻(大阪城天守閣所蔵)]

 

ようやく徳川家の脅威がなくなった家康は、その後75歳まで生きた。といっても死んだのはその翌年だ。しかし、実はその1615年にはもう一つ大きな出来事があった。『真田幸村』である。冒頭の記事で書いた徳川秀忠の邪魔をした『ある人物』とはこの男だ。関ヶ原の戦いで名を挙げていた幸村は、大坂の陣の後半の戦いであった『大坂夏の陣』を好機と見て、家康めがけて襲い掛かった。

 

その時、家康は自害をも覚悟したほどだったという。しかし、圧倒的な兵力の前に力尽きてしまった。家康が死んだのはその時ではなく、駿府城での病による死だった。

 

  1. 一国一城令
  2. 武家諸法度(ぶけしょはっと)
  3. 禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)

 

を制定した家康は、幕府体制の基礎固めを行った。

 

かつて秀吉は、

 

  1. 安定した税収の確保
  2. 領主の中間搾取の排除
  3. 刀狩り令
  4. 兵農分離

 

といった対策をして、自身の権力となる脅威を取り払い、戦国時代の二の舞にならないように画策した。そして家康もこの『一国一城令』により、大名が持てる城が一つになり、支城が取り壊されることになったのだ。各地域において、家康の脅威となる勢力を野放しにしないようにしたのである。

 

 

日本の次は『世界』だ!『太陽の沈まぬ国』スペインを沈めるのはこの豊臣秀吉だ!

 

更に『武家諸法度』で新たに城を築くことを規制したり、届け出なく婚姻をすることが禁じられた。つまり、今までの歴史にあったように、『どこそこの権力者に自分の親族を嫁がせ、その権力と結びつき、力を得る』といったような方向からの勢力の勃興も予防したのだ。そしてこれにより、それまで戦いの中で培われてきた主従関係が『法的な主従関係』となった。

 

またこの『禁中並公家諸法度』は、天皇家や朝廷への規制だった。これにより、天皇は幕府以下の存在となり、幕府が第一で、その次に朝廷があるという構図が作られた。

 

また海外問題や貿易だが、当時、

 

  1. スペイン
  2. ポルトガル
  3. オランダ
  4. イギリス

 

といった国がメインとなって世界各地で貿易を繰り広げていたが、日本ではキリスト教を抑える問題で、制限がかけられていた。浦按針(みうらあんじん・ウィリアム・アダムス)やオランダ人の商人ヤン・ヨーステン(椰楊子(やようす))は、キリスト教徒ではないという理由で交易が許されていたわけだ。

 

江戸幕府が作られた後、朝鮮出兵の時に断絶してしまっていた朝鮮とも講和を行い、貿易を始めたり、日本人が東南アジアに移住したりして、『鎖国』の印象がある日本とは違う国際的な展開をする日本がそこにあった。しかし、どのみちこの後『鎖国、禁教令』といった問題が浮上し、この国は黒船に乗ったペリーが来航するまで、ガラパゴス化することになる。

 

四天王、榊原から信頼された二代将軍徳川秀忠は、中々のやり手だった。彼が行った功績は、すべてにおいて『家康よりも一つ格下』という程度。中には三つも四つも格下という人間がいる中で、すべての面で平均的に家康に匹敵する能力を持っていたのは、高い評価が与えられている。

 

[徳川秀忠像(松平西福寺蔵)]

 

彼がやったことは『徳川政権の安定化』だ。家康が土地を開拓して土台を固め、秀忠が基礎工事をしてその土地を盤石なものにした。そういうイメージである。彼は大大名である福島正則や、田中忠政、最上義俊といった有力外様大名を改易。更に、弟の松平忠輝や、本田正純など、譜代大名も容赦なく改易に処した。

 

改易(かいえき)

官職を解いて他の者に任命する手続き。江戸時代には大名の領地を没収し身分を奪う刑罰を意味した。

 

親藩 徳川家・松平家
三家 尾張・紀伊・水戸
譜代(ふだい) 関ヶ原以前から徳川勢だった者
外様(とざま) 関ヶ原後に徳川勢になった者

 

松平忠輝は家康の六男であり、秀忠の弟。彼は幕府の意向に反する振る舞いがあったり、伊達政宗とも仲が良く、兼ねてから警戒されていた。大坂の陣の際に出撃に後れる不手際を攻められ、改易された。

 

奥州の覇者『独眼竜』伊達政宗にあった武士道精神と、越後の龍『軍神』上杉謙信に足りなかったもの

 

本田正純は、家康からも認められて『関ヶ原の戦い』では石田三成の身柄も預かるほどの重要な立ち回りをした人物だった。しかも、江戸においてはこの秀忠よりも権勢を誇っていて、目が離せない存在だった。しかし、秀忠暗殺の嫌疑により、改易。秀忠は、

 

  • 外様23家
  • 親藩・譜代16家

 

を容赦なく改易し、幕府の権威を徹底的に主張したのだ。その後、時代は三代将軍徳川家光の時代になるが、父同様『大御所』となり活躍。この三人は、徳川黄金期を作った人間で、武断政治を行ったことが特徴的だ。

 

秀忠は、なぜ『関ヶ原の戦い』で先陣を切って戦い、東軍の勝利に最も大きな貢献をしたともいえる重要人物、福島正則までも改易したかというと、それは『武家諸法度』が理由だった。武家諸法度は、『新たに城を築く』ことが規制された。福島は、無届で広島城の『改修』をしてしまったので、これが背信行為とされ、4万5000石の小さな大名に転落してしまったのだ。

 

あの福島でさえこの扱い。四天王から信頼され、将軍となった秀忠の権威は、もはや歴然だった。

 

あの人は公明正大で、しかも容赦のないなジャッジを下すぞ…

 

そう考えた秀忠時代の人々は、彼が家康の正統な後継者と認めざるを得なかった。

 

公明正大

私心をさしはさまず、公正に事を行うこと。

 

それが1619年。その頃、秀忠の息子である徳川家光は15歳だった。彼は幼名を『竹千代(たけちよ)』と言い、ぼんやりた子で、次期将軍の器ではないと噂された。だがそうではなかった。家光は武士の表芸とされる『弓馬刀槍(きゅうばとうそう)』を修めるにしたがって確実に自信をつけ、三代将軍の座につく時期を密かに待っていた。

 

弓馬刀槍(きゅうばとうそう)

弓術・馬術・槍術・槍術。類義語の『弓馬槍剣』と言えば、それが剣術となる。広く、武芸一般。

 

 

 

日本の歴史(時代区分)

旧石器時代 – 紀元前14000年頃
縄文時代 前14000年頃 – 前10世紀
弥生時代 前4世紀 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年
平安時代 794年 – 1185年
 王朝国家 10世紀初頭 – 12世紀後期
 平氏政権 1167年 – 1185年
鎌倉時代 1185年 – 1333年
建武の新政 1333年 – 1336年
室町時代 1336年 – 1573年
 南北朝時代 1336年 – 1392年
 戦国時代 1467年(1493年)– 1590年
安土桃山時代 1573年 – 1603年
江戸時代 1603年 – 1868年
 鎖国 1639年 – 1854年

 

 

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