『幕藩体制』
上記の記事の続きだ。こうして徳川家光(在職:1623年 – 1651年)が三代将軍となった。彼の時代には『鎖国』がある。それまでスペイン・ポルトガル等と南蛮貿易などをしてきた日本だが、このあたりからついに日本は鎖国し、ガラパゴス化に突入する。
安土桃山地時代 | 1573年 – 1603年 |
江戸時代 | 1603年 – 1868年 |
鎖国 | 1639年 – 1854年 |
家光がやったのは『参勤交代』だ。これによって、大名の妻や子が江戸の屋敷に住み、大名自身は1年間江戸で暮らし、4月に領地に戻り、翌年4月に再び江戸に向かうというサイクルができる。自国と江戸の往復を義務付けるということ。
こういった目的がこの制度の根幹にあるわけだ。秀吉がかつて行った、
も、二代将軍秀忠がやった、
も、すべて根幹にある目的は『自分の政権の安定化』だ。今までの歴史を考えて、同じ轍を踏まないように、あらゆる方向から脅威となる存在を前始末的に排除し、戦国時代の二の舞にならないことはもちろん、徳川政権が末永く続くように考えたシナリオである。大名たちは、参勤交代の経費を自腹で払う必要があったため、藩財政を慢性的に圧迫した。
1万石以上の領地を持つ者 | 大名 |
1万石未満の領地を持つ者 | 旗本(はたもと)、御家人 |
領地の名前 | 藩 |
また、冒頭の記事でも書いたが、『関ヶ原の戦い』以降、秀忠時代にはこのような分別が行われた。
親藩 | 徳川家・松平家 |
三家 | 尾張・紀伊・水戸 |
譜代(ふだい) | 関ヶ原以前から徳川勢だった者 |
外様(とざま) | 関ヶ原後に徳川勢になった者 |
そして、外様となる者は、もちろん合戦の後にその領地を削減されたわけだ。また勢力を築きづらい辺境の地に追いやられた。これによって、復讐心に駆られて謀反を起こすことは難しくなる。また、江戸から遠くなるわけだから、その分自腹で払う交通費その他が大きくなる。以前から存在し、徳川家に忠誠心の強い人々は優遇され、そうじゃなく渋々従っている可能性が少しでもある人々は冷遇されたのである。
[徳川家光像(金山寺蔵、岡山県立博物館寄託)]
だが、そのような人々を優遇すると、勢力をつけて謀反を起こす可能性があるわけだから、この対応は体制を維持するために仕方ないことだった。人間が、一度従ったら決して謀反を起こさないという習性を持っているなら別だが、今までの歴史を学び、人間がどういうものかということを知っている当時の人々は、このようなシステムを『賢い仕組み』だととらえたわけである。このように、幕府と大名が土地を通して、つまり封建的に主従関係が作られたこの体制を、『幕藩体制』という。
封建国家 | 土地を介しての主従関係だから、主が複数いる場合がある |
主権国家 | 『植民地』ではなく、『独立国』と同義語 |
更に行政制度としてこのような仕組み、役職が作られた。
将軍 |
大老 | 老中 | 寺社奉行 | 若年寄 | 御用人 | 京都所司代 |
老中の配下
大目付 | 町奉行 | 勘定奉行 |
若年寄の配下
目付 |
それぞれの役割は以下のとおりだ。
大老 | 非常時の臨時の最高職 |
老中 | 財務統括 |
若年寄 | 老中の補佐 |
大目付 | 監察担当 |
寺社・町・勘定奉行 | 宗教統制、江戸の行政、幕府財政 |
京都所司代 | 朝廷や西日本の監視 |
下記の記事に書いたように、鎌倉幕府時代に、京の治安維持や朝廷との交渉を行った『京都守護』は『六波羅探題(ろくはらたんだい)』へと改称され、これで西日本を統括し、朝廷を監視できるようになったが、この『京都所司代』はその延長線上にあるものである。
京都の朝廷に関しては、
で抑え込んだ形だ。更に、官位の授与や年号の制定といった特権にも介入し、これによって天皇や公家は幕末まで身動きが取れなかった。天皇サイドには『武家伝奏(ぶけてんそう)』という窓口があり、幕府と朝廷はそれらを通してやり取りをした。
また、東福門院(とうふくもんいん)と名を改めた、二代将軍秀忠の五女、和子(まさこ)の存在もあった。平清盛の娘、徳子が高倉天皇に嫁いで以来、実に450年ぶりの入内で、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)に嫁いだ彼女は、徳川将軍家と天皇家を結ぶ絆となった。
[東福門院像(光雲寺蔵)]
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そして、これらの重要な役職は、
が独占した。
これも結局は根幹にある目的は『自分の政権の安定化』だ。朝廷は幕府とは別に特別に存在している権力機関であり、当時はここが国の運営をしていた。中大兄皇子から続いた『天皇を中心とした集権国家づくり』があり、藤原氏等の有力貴族と権力争いをして、そして源氏や平氏といった武家が登場し、彼らが幕府を作り、現在に至るわけだ。
こうして鎌倉幕府からこの国に『幕府』という軍事・警察の立場を担う組織ができたが、それが『応仁の乱』、そしてそこから始まった戦国時代を経て、朝廷はもはや無効化され、そして徳川政権の敵となり、脅威となりそうな存在はすべて監視し、あるいは抑え込み、徳川政権が末永く続くように画策したのである。
また下記の記事に、
ここから400年後ほどの1600年、江戸時代には警察に相当する役所として町奉行所があった。江戸には南北の町奉行が、諸国には地名を冠した遠国奉行があり、その職員である『与力、同心』といった存在が現在の警察官に相当する立場となる。
と書いたが、ようやく『警察、警察官』という立ち位置に近い役職が誕生するようになった。
この時代になると、かつて『非公式』的に武装した武装集団の中から現れた『武士』なる存在は、すでに社会の大半を占める、百姓や職人、あるいは町人といった人たちの上に君臨していた。また、その武士の優劣も石高や将軍との関係で決まった。
[百姓(俗に農人という)
(『和漢三才図会』(正徳2年(1712年)成立)より)]
また、百姓にも種類があった。
本百姓(ほんびゃくしょう) | 自分の土地を持ち年貢を納める |
水呑(みずのみ) | 地主から土地を借りて耕作し、地主に小作料を納める |
当時、江戸幕府の基盤となったのは『百姓たちが納める年貢米』だったので、幕府としては本百姓が多くなってほしいわけだ。先ほどの記事にもあったように、当時あった口分田とは、民衆へ一律に支給された農地である。農地を支給し、そこで収穫することを許可し、その代わりに一部を税金として納めるというシステムだったわけだ。だが、表を見ても分かるように民衆に課せられた納税の義務はその他にもいくつもあって、彼らの肩の荷は重かった。したがって彼らは、
等の行動を取り、なんとかその責務から逃れようとしたのだ。
それから下記の記事に書いたような流れがあった。詳しくはそちらを見てもらうとして、流れだけ再確認しよう。
土地制度の変遷と寄進地系荘園
簡単に言うと、国の中央(朝廷や幕府)が国民に納税義務を負わせ、その義務が重くて逃げる人々が増えたり、あるいは力のある者だけが負うようになったり、その力のある者が大勢から頼られて権力を持ち、中央の脅威となってしまったという事例があるわけだ。
そこで江戸幕府は、過去のそうした事例を鑑みて納税を安定化させようとしたわけだ。更に、『田畑永代売買禁止令(でんばたえいたいばいばいきんしれい)』を出し、土地の売却を禁止し、年貢を納める納税者の数を維持。また、『分地制限令』を出し、親が子に分割相続することを制限し、相続を繰り返すたびに土地が細かく分割されるのを防ぐようにした。
[蒙古襲来絵詞前巻、絵七。【文永の役】矢・槍・てつはうの飛び交う中、馬を射られながら蒙古軍に突撃する竹崎季長と、応戦・逃亡する蒙古兵。]
下記の記事に書いたが、『蒙古襲来(元寇)』があった13世紀後半、この時代の相続方法が親の所領(持っていた領土)を子が分割する『分割相続』だったため、所領は徐々に小さくなり、御家人たちは窮屈な思いをするようになった。
それによって下の者が不満を持つようになり、やがて『御内人』と『御家人』の間で対立が起きるようになる。
御家人 | 将軍の家臣 |
御内人 | 得宗家の家臣 |
その後『御内人VS御家人』の構図の中で、
という考え方が浮上し、鎌倉幕府が滅亡する事件に発展してしまったのである。すべて、過去の事例を鑑みて作られたシステムだ。しかし、国民にかかる納税や労働力の負担は大きく、連帯責任等の仕組みを作らされ、がんじがらめとも言えないような支配体制があったことは確かだ。
戦国時代を全国の猛者たちと競い合い、中央(朝廷・幕府)を倒して天下を取った彼らは、もはや『国民』程度の存在は眼中にないのだ。時代を作った武士が彼らの上になったのも、彼らのプライドと自負がそうさせていたし、それは弱点であり、デメリットでもあるという事実には、この時代で先頭を切って走る人々は、気づく勇気と知性はまだ持ち合わせていなかった。
例えば、掟を破った者に制裁を行う『村八分』だが、これは日本人の性格に大きな影響を与えた。アメリカの文化人類学者ルーズ・ベネディクトは、『菊と刀』という著書の中で、『欧米の文化=罪の文化。日本の文化=恥の文化』という表現をしている。
欧米人の多くはキリスト教徒だ。例えば、アメリカ人の9割がキリスト教徒である。従って、自らの行動を律するのは『神』であり、その神の規範に反すると罰すると考えるが、日本人は違う。神よりも、村八分(仲間はずれ)にされることを恐れてきたのだ。そういう環境の違いが、現在のそれぞれの特徴に繋がっているのである。
『ササッとわかる「SAD 社会不安障害」 あがり症の治し方』にはこうある。
このように、行動の規範が『神』であるか『世間の目』であるかという文化的な背景が、SADと対人恐怖症の違いを生み出すのだと考えられます。
実は、『対人恐怖症』というのは日本人独特の精神病なのだ。この村八分の仕組みがあまりにも精神的に厳しくて、日本人は人一倍人目を気にする民族になってしまったのである。
そんな中、この幕藩体制に立ち向かった『佐倉惣五郎(そうごろう)』という人物がいる。彼は、重税に苦しむ農民の為に将軍に直訴したのだが、それによって処刑されたというのだ。彼の話は歴史の闇に葬られているが、確かにそういう人間がいて、人々はそれを忘れないように、『佐倉義民伝』という歌舞伎はヒット。実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く伝えられた。あの福沢諭吉も民衆の味方の先駆者として尊敬していたという。
[『帝国人名辞典』(1889) より]
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